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第4話 暗転する夜更け

 身体を清めたエレノアは寝間着である絹のワンピースに着替え、編まれていた髪を下ろしている。

 今夜が初夜であることを遅まきながら理解したエレノアは、ベッド脇のテーブルでメモを書いていた。

 書き終えてペンを置く。軽く手を握ると、指先がやけに冷たかった。

 用意された部屋の隅には幼い頃から世話をしてくれたミシェルが控えている。他の物音も聞こえてはこない。

 それを確認して、エレノアは書き終えたメモを持って立ち上がる。


 扉に目をやると侍女が小さくお嬢様、と呼びかけてきて、エレノアは少しだけ眉を下げた。


「行かないと」




 ***




 エレノアは教えられた辺境伯の部屋の扉を叩いた。

 思ったよりも少しだけ長い間の後に答えが返り、中へと入る。

 彼も休む支度を終えて、薄いシャツを羽織っただけの姿で机に向かっていた。日中は整えていた髪もバラバラに目元に落ちている。


 エレノアの言葉を待っている彼の後ろを抜けて、真っ直ぐに寝台に向かい、履き物を脱いで横になる。


「……」


 夫が振り返ったのを見てから、エレノアは手の中のメモを読み上げる。


「私たちは正式に今日から夫婦です」

「ああ、そうだ」

「ですので、するべきことをしましょう」


 辺境伯が椅子の背もたれに腕をおいて、少し眉を寄せた。


「わかって言っているのか?」

「概ね理解しているつもりです」


 そのまましばらく待ったが、辺境伯が何も言わないのでまたメモに目をやる。


「婚姻は、血を混ぜて残すことが目的です。体調など本来は考慮すべきことが色々あるそうですが、一般的に……初夜は節目として行うものだと認識しています」


 辺境伯はなんとも言えない表情になった。それを見て彼女は自分が何かおかしな言い方をしている、と察したが今更後に引けない。


「……違いますか」

「違うとは、言わないが」


 やはり夫が動かないのでエレノアは再びメモを見る。


「婚姻は貴族の義務だと仰ったのは私も同意します。先日お伝えした通り、私も決められたことには従います。貴族としての責任がありますので」

「それは、そうだが」


 しばらく、二人は無言だった。


 少しして、辺境伯は椅子から立ち上がり寝台の脇までやってくると、メモを彼女の手から抜き取って眺める。


「――ふ、はは」


 堪えきれない、と低い笑いが漏れた。


「お前、本気なのか。今のをわざわざ書くとは。そんな奴は聞いたことがない」


 辺境伯の喉が、くっくっとひきつった音を立てる。

 見上げていたエレノアは、目を伏せた。胸の前に置いた右手を左手が握り込む。


「……先程違わないと仰った。のに、なぜ笑うんです」


 自分の手を見ながら小さく呟くと、笑いが止む。

 じわ、と目の当たりが熱を持つのを感じた。


「こんなことを整理もせずに切り出せるほど私は慣れていません。……ダウズウェル様が嫌なら、この件は他の女性となさってください」


 微かに寝台が軋んだ。


「それに。やはり社交の場は苦手です、ご迷惑をかけたくない。ですが、即時の改善も難しい。私は外に出るべきではない」

「それは織り込み済みだと言っただろう」


 腰を下ろした辺境伯の声が近くなってそちらに目を向けると、彼の姿はぼんやり滲んで表情が良く見えなかった。

 ゆっくり二拍して、辺境伯はいいか、と囁いた。


「印象がどうだろうが役目は変わらん。ダウズウェルの外での恥はかきすてろ」

「ダウズウェルでも同じになります」

「俺の土地だ、構わない」

「私が構います、改善すべきです」


 辺境伯が手を伸ばしてエレノアの微かに濡れた目尻を遠慮のない力で擦った。


「で? 誘ったからにはどうやるか知っているのか?」


 尋ねられ、はい、と返事をする。


「教わりました。まず横になります、この状態です」

「うん、それで?」

「自然にそうなるはずなので、お任せすればいいと」


再び辺境伯がなんとも言えない表情になったのがエレノアには見えた。


「……もちろん、具体的に手順を指示いただければ、そうするつもりは、あるの、です、が」


 答えているうちに、何故だか声が震えてくる。

 薄い知識の中で、何か恐ろしいことが起きる、という漠然とした想像だけはあった。エレノアよりも一回りか二回り、定かでないが印象としては伯爵の体は大きすぎる。


「エレノア」


 辺境伯の低い声が名前を呼んで、びくりと震わせた肩に手が軽く触れる。


「細かいことはいい。力を抜いていろ」

「っ、どう、やって……?」


 覗き込む彼の顔が近くて、引きつるような声しか出ない。手がゆっくりと髪を撫でるのは、落ち着かせるためであるらしかった。


「……深呼吸でもしておけ。たいていの人間はやっている、気負うほどのこともない」


 言われるままエレノアは大きく呼吸を繰り返す。何度かそうすると少しずつ息が深くなる。

 じ、とエレノアを観察していた辺境伯が静かに息を吐く。

 エレノアの頰に指先が触れた。


 エレノアは思わず目を閉じる。

 気配が動いて、息を止めるな、という囁きが耳のすぐそばで聞こえた。


「必要なことは全て、俺が教える」


 首筋に何か柔らかいものが触れて、息を飲みそうになったエレノアは大きく呼吸をする。


「ローデリック」

「え?」


 思わず聞き返すと頬が何かに摘まれた。目を開けると、間近にこちらを覗き込む辺境伯の目が、ある。

 彼の指先がもう一度頬に触れて、なぞるように唇まで滑ってから離れた。


「ローデリックだ。名で呼べ」

「い、今それどころではないです」

「開き直ったな……まぁ、泣かれるよりいい」


 身を守るように胸の前で握っていた手が、ローデリックの大きな手に包まれてシーツの上に縫い止められる。

 息を震わせながら、エレノアは固く目を閉じた。心臓の主張が強すぎてどこに何が起きているのかわかりそうにない。もしかすると、体の中身は心臓だけになってしまったのかもしれなかった。

 それでも、役目を果たせる事に何より安堵した。




 ***




 薄く、エレノアが眼を開けた。

 細い視界で、部屋の明かりが消えていることに気づく。それほど時間は経っていないのかもしれない。

 体が重いが、思っていたより深刻ではなさそうだった。朝になれば出発すると言っていたのをぼんやりと思い出す。

 用が済んだなら、戻って支度をしなければ。

 右側にある気配を避けて、左へ身を転がす。


「どこへいく」


 はっきりとした声と共に腕が腹のあたりに絡み、一気に目が開いた。


「あ、さの、支度」

「まだ早い」


 耳のすぐ後ろで声がする。


「です、が……」


 ローデリックの腕が、素肌に触れられていることを伝えてくる。

 大きな手がエレノアの腰を掴んで、引き剥がそうとしても全く動かない。


「手順は覚えたか」


 尋ねられて記憶が一度に駆け巡り、混乱する。一つ一つ説明された気がするし、そうでもなかった気もする。


「……今はちょっと、よく、わかりません」


 一拍置いて、ふ、と笑う音がした。


「おさらいが必要か」


 聞き返す間もなく、強い力がエレノアの視界をぐるりと回転させた。

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