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第26話 わたしの望み

 馬車を降り、自分に与えられた部屋に戻ろうとしたエレノアはローデリックの部屋に呼ばれた。やはり今日の不手際についての反省会だろう、とエレノアは覚悟を決めて部屋に入る。

 だが、部屋で二人だけになったローデリックが口にしたのは別のことだった。


「よく似合ってる」


 前置き無しの言葉にエレノアはうろうろと視線をさまよわせた。


「何がでしょう」

「ドレス。髪も化粧も。今日は大人びていて、見違えた」

「……急にどうされたんです?」


 何故夜会から戻ってきてから評価をされるのか。意味がわからずエレノアは首を傾げた。そもそも評価なら屋敷を出る前に「着こなせている」と褒めてもらったので終わっている。

 エレノアの表情を見ていたローデリックは軽く眉間をつまむ仕草をして息を吐いた。


「ダウズウェルは辺境だが金も、他領への伝手もある。望む大抵のものは手に入る。城の中は基本的に安全だし、日常生活に不自由はしない」


 更に意味不明な発言が続いたので、エレノアは思わず部屋の中を見回した。自分が文脈を見落としている何かがあるのかもしれない。ちらりと窺ったローデリックの顔は、別に冗談を言っている風でもない仏頂面である。

 ダウズウェルでの生活は確かに快適で、それ自体間違っている話ではないが。


「多少感じが悪かろうが、さっきのようにお前が苦手な社交から遠ざけてもやれる。これはフリンツフッドのような伯爵位では難しいだろうな」

「私はきちんと対応するつもりでしたし、できるようになりたいのですが」


 少し考えた辺境伯が、そうだったな、と呟いた。

 ローデリックは机に置かれていた薄い紫の四角い封筒を取り上げてエレノアに差し出す。

 どうやら、宰相の家でローデリックからアランへ渡していたあの封筒だ。アランも封筒も一緒の馬車には乗っていなかったので、アランが手配して先に封筒だけここに届けたということになる。

 エレノアは受け取ると封筒の中を覗いた。何も書かれていないが、薄く何かの紋様がついた紙が入っている。

 夫を見ると、それ、と顎が動く。


「離縁状の用紙だ。これを使えばお前の意思でも離縁ができる」


 以前万が一の時は、という話をしたことはあった気がする。しかし、具体的に離縁するしないという話は一度もしたことがない。

 エレノアには、ローデリックが何を言いたいのか理解できなかった。戻ってきてからずっとだ。


「意味が、わかりません。説明をしてください」


 語尾が少しだけ震える。


「この結婚はお前に断る自由がなかった。だから今更ではあるが、お前に終わらせる自由を用意した」

「家同士の力関係が変わっていません。手段があるからと言って私に行使の自由が生じる訳ではありません」


 少し考えてそう指摘すると、ローデリックが顔をしかめた。

 エレノアは反射的に謝りそうになるのをなんとか言葉を止めて、少し考える。

 何故私にその自由を与えるのか。ダウズウェルの中で最近揉めた覚えはないし、彼とも以前より打ち解けた筈だ。だが、最近妻として求められていない。

 今日の振る舞いで何か決定的になったことがあるのかもしれない。


「……私、何かしてしまいましたか」

「違う、俺はお前を手放すつもりはない。説明を、する」


 ローデリックがまた、息を吐いた。


「俺個人のやり方の是非以前に、そもそも辺境伯と……その周辺は、少しばかり危険が多い。ほぼ城内に居させるから説明する必要はないと思っていたが、伝えておく。お前を巻き込む最悪の事態は起こりうる」

「出歩くなというのは私が失言するのを避けるためではなかったと?」

「いや、それも勿論ある」


 ローデリックの言葉を飲み込むのに、エレノアは何度か瞬いた。瞬きを観察していた夫が再び口を開く。


「それに、お前を一人残して留守にすることはこの先何度もある。お前にとって不満や苦痛であろうが、避けられない。それ以外ではお前が満足できるよう手を尽くすが」


 少しだけローデリックの声が小さくなり、エレノアは半歩だけ近づいた。


「耐えられないのなら、それを使って自由になって良い。権利だけは、お前に渡す」


 なるほど。嫌なら妻を辞めればいい、そういうわけですか。好き勝手言っていいのなら私にだって。


「お願いがあります」

「聞こう」


 これは彼のためになるお願い、だから有益。


「悪辣とか言って、あちこちで恨みを買わないようにしてください」

「……悪辣は俺の自称ではないと言ったろう」

「でも。別に言われても良いって思っているから、心配なのです。それでなくても命の危険があるというなら、余計にそれ以外の危険はないようにするべきでしょう」


 少し顔をしかめた辺境伯が、わかった、と答えた。


「それと」


 これは私の拘りでも彼の利益にもなること。


「あなたはしなくてもいいと仰いますが。私は失点しない程度に社交ができるようになりたいのです。ですから妻であるうちはきちんと指導をしてください」


 そうか、と夫が頷く。


「あと」


 言いかけてエレノアは迷い、視線を落とす。


 これは、どう考えても私のため、わがまま。彼には何の利益ももたらさない。婚姻は貴族の義務の一部、なのだから期待も要求もしない方がよいこと。


 途端に弱気になって床を見ていたエレノアの視界に、膝をついて見上げる格好になったローデリックが現れた。それに驚いて後退りしかけると、封筒を持たない空の左手を取られる。


「それだ――お前が今、言おうとした」


 ローデリックの握る手が強くなる。


「俺はそれを、必ず」


 ローデリックの声が途切れ、かさ、と床を紙の端が掻く音がする。

 彼の口をエレノアの右手が塞いだので、手を離れた封筒が落ちた音だった。


「お願いが、あります」


 改めて口にしてから息を吸う。

 ローデリックの鋼色の瞳も、目つきが良くない上にじろじろと見てくるところもあの日と変わらない。今は自分が彼を見下ろすようにしているので、見上げてくる視線がただ真っ直ぐに見ているだけ、なのだとわかる。


 少し意地悪をすることは、ある人だけれど。


「この先……私よりも良い条件の方が現れたら。私に、子ができなかったら。ローデリック様は合理的な選択をなさるべきです」


 ローデリックの口元がかすかに震える。


「それでも。私をあなたの一番おそばに置いてください」


 言い終えたエレノアの背中に彼の両腕が回った。一瞬で腕の力が強くなって、自分が倒れ込むのに驚いて小さく悲鳴を上げたエレノアとローデリックの頬が触れる。


「お前こそ、勝手に気を回して逃げるなよ」


 エレノア耳のすぐそばで掠れた声がする。

 あなたが邪険にしないなら。

 そう答えると彼が深く息をする震えが伝わって、抱き寄せている腕の力が強くなった。

 エレノアをローデリックが支えている体勢には変わりないが、エレノアは空になった両手で彼を抱えるようにして体を預けた。

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