第25話 夜会2
ホールに入った瞬間から、エレノアより張り詰めていたローデリックの口角は訓練の賜物として均等に上がっていた。
その口角を確認したエレノアの方は怪しいところである。しかし口の端に力を入れても瞬きを多めにすると遠い目にならないという技は発見している。
以前より上達した。ローデリックもそばにいる。その事実で少しだけ落ち着ける。
主催である宰相とまず挨拶をする。先ほどまで裏で個人的に話していたはずなのに今顔を合わせたばかり、という風で会話をする辺境伯の腕にくっついているエレノアは一生懸命聞く格好をしていた。覚えていられないにしても聞いていたという事実は必要だからである。
ほとんどローデリックが喋り、エレノアは練習した微笑みと共に一言の挨拶をする。
「できている」
「ありがとうございます」
会話の相手が入れ替わるたびに、ローデリックが小さく囁いてくれた。過保護過ぎるが正直有り難い。囁きを返す時に顔を見るだけで落ち着く、気がする。
最初の挨拶の波が途切れると、ローデリックが近くにいた給仕に何か手振りで伝え、細長いグラスを受け取ってエレノアに渡してくれた。
淡い色の発泡酒に見えるが、鼻を近づけてみると酒の匂いがしない。口をつけてみると癖のある薬草の苦みと蜂蜜の甘さが拮抗している。初めて飲んだが悪くない。彼を見上げると当然のように顔を見合わせる形になった。
「口に合うか?」
「はい、好きな味です」
「もう少し口をつけていろ、夫人目当ての連中は遠慮するはずだ」
ありがとうございます、と言いながらグラスの縁を唇に当てた。ローデリックも息を吐いて視線を周囲に投げる。
休憩を設けてくれたということだろう。エレノアは考える。どうにもタイミングが良すぎたし、ダウズウェルの関係者でもない給仕に手振りで指示をしたようだった。事前に主催と話をする、と言っていたのは毎回何か仕込みをしているということか。
グラスに口をつけて人避けをするのもそろそろ限界、となってきたころ、華やかな赤いドレスの女性を連れた壮年の男性がやってきて、ローデリックに挨拶をした。顔立ちがよく似ているため親子らしかった。
彼女の体の曲線ははっきりとした凹凸があり、微笑んでもくっきりと瞳が見えるほど目鼻立ちが華やかなだ。年齢でいうとエレノアとローデリックの中間くらいだろうか。友人としては少し違和感がある、という位の年頃だ。
一瞬だけ振り返ったローデリックはエレノアの耳元に口を寄せると、候補の一人だった、とだけ囁いた。
なるほど、と頷いてエレノアは少しだけ体をローデリックから離した。流石に妻がべったりでは他の女性が話しにくいに違いない。
「奥様も。お目にかかれて光栄です」
「あ。こちらこそ……」
ローデリックの次に女性はエレノアにも挨拶をする。自然な流れだったにもかかわらず、何故かエレノアは上手く言葉が出ずに尻すぼみになってしまった。
「妻はこういった場に慣れていないので、あなたによい手本になっていただけそうです」
「評価いただけるのは嬉しいですけれど恐れ多いです。私は出すぎる自覚がありますから」
外向き用の慇懃な口調で言ったローデリックに、女性は少し咎めるような顔をしてからエレノアに微笑んだ。
親しい、のだろうか。エレノアはそっと夫の腕に添えていた手を外した。
それで先日の話ですが、と女性とローデリックが領の徴税について話し始める。自然に話し始めたので候補として顔を合わせた時だけでなく、それ以降も連絡していたのかもしれない。
会話は途切れず滑らかにかみ合っている。ローデリックの表情もいつもに比べれば穏やか、というか満足げに彼女の話を聞いている。
一歩、後ろに下がる。
当然エレノア以外にも条件に合う女性はいて、たまたま、おそらくは期限を優先してエレノアが選ばれたに過ぎなかったのだろう。実際に運用してみて妻に向かない、と結論をされる可能性だってある。
私でないほうが、良かったのでは。
もっと華やかで、逐一辺境伯自身が世話を焼かなくても、社交界で良い印象を振りまける。仕事の話も対応にできる。そういう女性がいるのなら。
まだ話が続いている二人を見ながら、もう一歩、二歩と後ろに下がった。
「ダウズウェル夫人、ごきげんよう」
は、と意識が周囲に戻ったエレノアは後ろを振り返った。
見知らぬ男性が立っている。白地に金糸の派手な礼服を着ており、見覚えは全くない。
「グラスが空いていらっしゃる――代わりにこちらを」
エレノアの手にあるグラスの中身を見て、男が近くの給仕を呼んで飲み物を受け取った。勿論頼んでいないが、エレノアに差し出すようにされた細長いグラスは、ローデリックが渡してくれたのと似たようなものらしかった。
まだ飲んでいる、で躱せないのでエレノアは言葉に詰まった。こういうのは言われるがまま受け取ってしまうのが早いと思うのだが、夫からの指示は受け取り自体も禁止だ。穏便な言い方で断らなくては。
「もう、十分いただきましたので……」
これで引き下がってくれないだろうか。
不安になった気持ちが表情に出ているのか、目の前の男は少し顔を覗き込むように近づいてきた。
「ご気分が優れないのでは? 一先ず椅子のある所へお連れしましょう、どうぞ」
余計なお世話なのでどこかへ行ってほしい、がそのまま伝える訳にはいかない。
言い換える言葉を探しているうちに相手がもう一歩近づいてきた。支えようとしているのか片腕はエレノアの肩か腕に触れようとしているし、手を乗せろといいたげな掌が目の前に差し出される。
「私は、あの」
「お気遣いは感謝する」
声に遅れて、ふ、といつもの香りがした。
黒と深緑の腕が、赤の礼装の腕を捻じるように捉えている。全く口角の上がっていないローデリックが、すぐ脇に立っていた。目だけで見下ろすローデリックの影でじわりと空気が重くなる。
「あぁ、失礼。袖が汚れているのが、気になったもので」
低く、ゆっくりと言ったローデリックが掴んでいた腕を解放する。男はすぐに後ずさって誤魔化すような笑みでローデリックとエレノアを交互に見た。
近くに立ってみると二人の男には頭の半分くらいしか差がない筈なのに、エレノアには暗色のローデリックの方が、明るい白の男より二回りは大きく見えた。
「奥様が不調の」
「気遣いは感謝する。妻は体質の問題で口にできるものが限られている、今後のお気遣いも無用に願う。まだ何か」
無表情のまま、一層声を低くしたローデリックに、男は小さく謝罪を口にすると足早に去って行った。ローデリックはその行き先を目で追っていたが、少ししてようやく息を吐いて妻を振り返る。
「大丈夫か」
「はい、あの、何も受け取るつもりはありませんでしたし、ちゃんと断って戻るつもりでしたので、ちゃんと言いつけは覚えていましたし」
エレノアが任務続行の意思を伝えようとしていると、彼の手がエレノアの手を掴んで腕に添える形を作らせる。
「帰る」
「はい?」
「夜会は終わりだ」
え、と尋ね終わる前にローデリックが歩き出してしまうので、エレノアも引きずられているように見えない程度に足を動かす。
先ほどの、妻候補の女性とすれ違う際にローデリックが小さく片手を上げ、彼女は目だけで頷き小さく笑った。
ローデリックの不機嫌さが周りにも伝わっているのか、人混みの筈なのにかき分けるでもなく自然に人波が割れたようだった。
「宰相殿」
ローデリックに呼ばれて給仕に何か言いつけていた宰相が振り返った。会が始まってまもなく挨拶をして、今も時間が経ったと言うほど経ってはいない。宰相が眉を小さく上げた。
「どうされました」
「妻の体調が思わしくない。お招きいただいたのに恐縮だが、ここで失礼させていただく――給仕には大変よくしていただいた、どうか咎めないでいただきたい」
思いのほか強い口調のローデリックにひるむでもなく口を開こうとした宰相が、付け加えられた言葉に少しだけ間を空ける。
「そうですか、勿体ないお言葉だ。皆に伝えておきましょう」
意味ありげな二人のやりとりに首を傾げかけていたエレノアだったが、ローデリックにあわせて挨拶をした。
会場を連れ出され、エレノアはダウズウェルの紋章がついた馬車に押し込まれた。ローデリックがいつもと違って乱暴に隣に腰を下ろしたので、馬車と一緒にエレノアの体も少し弾んだ。
「いいのですか? 大してご挨拶もできていないのに、すぐ出てきてしまって……」
「良くはない。が、俺が限界だ。残ったところで社交にはならん」
言いながら息を吐くのは彼の感情制御のための癖らしい。御者に出せ、と命じてローデリックがもう一度息を吐いた。
「申し訳ありませんでした、手の届く範囲から勝手に離れてしまって。内政に関するお話でお邪魔になると思ったので」
いい。と短くローデリックが答えた。その点の追求は一旦無しでいいらしい。
謝罪が終わったエレノアは次に質問をする。
「今切り上げた分の社交は他の夜会でやり直しになるのですか? できれば馬車の長距離移動は回数を減らしたいのですが」
「対応を考えておく。俺も頻繁に行き来したくはない、純粋に金がかかる」
エレノアが夫の顔を覗き込むと、気づいて彼は目をあわせてくる。
「お前、他に言うことはないのか」
「他に、とは」
「あの男と話がしたかったとか」
ローデリックが何を言い出したのか理解できず、エレノアは瞬いた。
「そんな筈がないと、おわかりだから助けて下さったのではないのですか」
今度はローデリックが瞬いてから、少しだけ笑った。
「そういえばそうか」
それきりローデリックは黙ってエレノアとは逆の方を向いてしまった。
いつもなら会話が途切れてもローデリックは前を向いている。最近、そして今夜のローデリックはやはり少しおかしい。




