第23話 備えで憂いはなくなるか(ローデリック)
妻への要求が義務を超えつつある、と ローデリックが理解してしばらく日が経った。
彼女に負担を掛けないように心がけ、少し距離を保って見守る。そのうちに頬に落ちていた影は消え、ローデリックは胸をなで下ろした。
若手の武官を集めた武術大会の準備をしていたが別の用事が入ってきてしまい、ままならない。妻を歳の近い男達に見せずに済む理由ができて安堵しているのには気づかないふりをした。
ある朝食の時間。
ローデリックは自分の食事をすでに終え、エレノアが自分の塩漬け肉を熱心に切り分けるのを眺めていた。しばらくしてようやく吟味を終えた彼女は、おそらく一番カリカリに焼けている部分を口へ運び、満足そうに咀嚼する。
「来月の頭に、王都へ行く」
声を掛けると、エレノアの視線がぐるりと動いた。口の中のものを飲み込むような間があって、口が開く。
「行ってらっしゃいませ」
「お前も行くんだ」
「嫌です」
即答だった。王都で何が起きるか以前の問題である。
彼女は嫁入り直後、王都からダウズウェルへの高速馬車移動でひどく酔った。そのため馬車を嫌がっている、ということはローデリックも承知している。気の毒だが、緊急時に必要なことなので免除するわけにもいかない。
「お前を広く顔見せしておかないと妻に迎えた意味がない」
「婚姻契約式の後にパーティをしています」
「あれはほぼ身内だったのは理解しているか?」
尋ねると彼女は口をつぐんで両手の指を組んだ。どうも、わかっていて逃れられないか試しただけらしい。
「何があるのですか?」
「宰相殿の主催で夜会」
ぴくりと彼女の口元が震えて、そのまま固まる。
「この世の終わりって顔だな」
「……終わるなら良いですがそうではないので。また迷惑を掛けてしまいます」
硬い表情のままため息をついた妻にローデリックは目を細めた。
「お前も、そろそろ迷惑を掛け慣れてもいい頃だと思うがな」
「良くありません」
大きめに声を上げたことに彼女自身が驚いた顔をしてから、しおしおと肩を落とした。
最初から迷惑を掛けても構わないと言っているのに、相変わらず強情なことだ。
細い肩を抱いて慰めてやれば彼女がほんの少し表情を緩めて自分を見上げてくる、のはわかっていたが、できなかった。席が遠いからだということにしておこう。
***
ローデリックは、社交界経験値が年齢の割に極端に少ない妻のために、礼儀作法の家庭教師を手配した。
日中は社交界デビュー向けの作法を再履修させる。発言内容を全て管理するのは無理だが、自信をつけて彼女の不安が和らげばそれでいい。デビュー前の子供ではないと反発されるかと思ったが、自信がなさ過ぎる彼女は特訓をおとなしく受け入れた。
夜の習慣で執務室へ自分を迎えに来た彼女の疲れた様子をみて、彼女の部屋で時間を過ごすことにする。
彼女のソファは大きいクッションがいくつも置かれているので、隣に座るだけで自然と微かに香りがする距離になった。指先で彼女の髪を揺らすと、自分が贈った化粧油や香水とわかるのだが、それをする理由がない。
「授業はどうだ、別に難しくはないだろう?」
「ええ、まぁ。別に動作自体はできないわけではありませんから……」
「これで当然という顔をしていれば何とかなるしな」
そんなわけないでしょう、と彼女がもそもそと呟いた。
「あとは笑顔だ、笑ってみろ」
む、と一瞬口をすぼめたエレノアが一度息を吸ってから、気が遠くなったような顔をした。彼女の普段の表情からして、笑顔がないわけではないのにどうしてこうなるのか。
「笑えと言っているだけで、遠い目をしろとは言ってない」
「してません」
すぐに言い返して来たので鏡をみてやってみろ、と指示をする。彼女が素直にソファを立ってドレッサーへ向かうので、ローデリックもその後をついて行った。
ドレッサーの前に立つと、エレノアがまた口元を強ばらせて気が遠くなったような顔になる。
数秒固まっていたが、彼女が首を傾げる。
「腹の立つ顔していませんか」
「遠い目をしたからだろうな」
鏡を見つめたままのエレノアの眉間に力が入った。
ローデリックは少し腰を屈めて彼女にも鏡越しに自分の顔全体が見えるようにすると、自分の口元を指さした。彼女の視線が鏡の中で指の先を追いかける。
「作り笑いはまず口元を意識すればいい。見ろ、こうだ」
ローデリックが両方の口角を均等に上げてみせると、エレノアが目を見開いた。
「今までもわざとやっていたんですか?」
今のは人前で言うには危ないが、全く悪気なく口に出している。むしろ賞賛している。
丸くなったあとで少し細まった目と微かに上がった口角。
その顔で良い、と言ってやるべきだという考えが浮かぶ。だが、次の瞬間にはこれは自分だけに向けられたものだという気持ちにとって変わられた。
少し迷ってからローデリックがストンと口角を落とすと、エレノアの瞬きが早くなったので、怒ってはいないと口にしておく。
「俺も当主になってからある程度訓練した。笑いの表情をしたことが伝われば成功だからな。とにかく」
肩を指で叩くと彼女が振り返ったので、ローデリックは両手でエレノアの頬を覆う。
「口の端はこう上げる」
それぞれの親指で彼女の口角を、ぐ、と真上に押し上げた。
んむ、と呻き声を漏らした彼女が反射的に顔を背けようとしたが、他の指を顎に掛けていたので外れるはずがない。彼女の手が抗議のためにローデリックの腕を何度か叩いたが、力を緩めずに眺めていると抵抗が止まった。
顔を上げてまっすぐに見てくるのはおそらく説明を待っているからだ。随分と年下だからそう見えるのか、幼い、というよりはひどく無防備な顔をする。
「……いつもこのくらい、と覚えておけ」
「やいすい、えしゅ」
口の端を押さえつけられたままの彼女が強引に反論を試みたのがおかしくて、ローデリックは笑った。
「ん? なんだ?」
揶揄われていると気づいた彼女が今度は口を動かさずに、んー、と強く抗議の音を漏らしたので、ローデリックは手を引いた。
エレノアは二拍ほどローデリックを恨みがましい目で見てから、鏡に向き直った。
ぎゅうぎゅうに力を入れて口元を動かしてから、自分の指でも引き上げている。揶揄われたこととは別で、笑顔の作り方はそのまま受け取ったらしい。
彼女は全く、不器用で、妙なところは素直で、一生懸命だ。
ローデリックが彼女を妻に迎えたのは、政治的意図が露骨な誰かが妻を斡旋してくるのを止めるためである。ある程度見目が良い女を妻とし関係が良好だと社交界で見せつける。今度の夜会でその目的は概ね果たせる筈だ。
視線の先にいる彼女はようやく、口角を上げようとすると目が虚ろになる、という現象に気づいたらしい。鏡を見ながら不思議そうに口元を動かしている。
もし笑顔がなくても、彼女の容姿がどの程度なのかは社交の場に連れ出せば自然と知られる。そして自分が彼女を丁重に扱っていると示せればいい。口を開かずに済む方が彼女だって負担がないはずだ。
そう思う一方で、そもそも彼女を他の誰かに見せる必要など――
何か根本的におかしな考えに至りかけてローデリックは息を吐く。
「お疲れでしたらソファへどうぞ?」
振り返ったエレノアの口角周りが赤くなっているのをみて、ローデリックの口からあのな、と呆れた声が漏れた。
「お前も、練習は明日にしろ。眠る前に張り切りすぎると寝つけなくなる」
「はい」
ローデリックが元通りにソファへ腰を下ろすと、エレノアもちょこんと隣に座った。以前は座れと指示をすることが多かったが、最近は彼女も座ることに躊躇わなくなっている。
深く座ったローデリックは足を投げ出し、腹の上で指を組む。
夜会のついでに書類を用意して、派閥争いに余念がない連中の情報を集める。王都にいるうちにフリンツフッド家にも追加の援助を申し出た方が良いだろう。伯爵が素直に申し出を受けるとは思えないので、援助に見えないように別の家を経由させておいた方が良さそうだ。
ふと、視界の端で彼女が何か言いたげな顔でこちらを見上げているのが見えて顔を向ける。
「どうした、何かあるか?」
尋ねると彼女はここ最近決まって、いいえ特には、と答える。それから安堵と不安の入り交じった顔で視線をそらすのだが、それ以上何も言おうとはしなかった。
ローデリックも何も言わない。
ただ、この先のことをぼんやりと想った。




