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第20話 おかえりなさい

 エレノアがほぼ駆け足で部屋に戻ると、ミシェルは少し驚いた顔をした。

 随分お早い、と言いかけた彼女だがエレノアの様子を見て何かしらのトラブルがあったのは察したらしい。もう休む、と言い張る主人を尊重して部屋を出てくれた。


 一人になったエレノアは呼吸を落ち着かせながら部屋の中を見渡す。

 消えてしまいたいと思っても使用人が大勢いる手前、誰にも気づかれずに消えるのはそもそも難しい。それに、責任を取らされる使用人がいることを思えば軽率に身を隠すのも不適切だ。少しの時間一人にしてもらう位しかないのは貴族の辛いところである。


 これからどうしよう、と考えながら部屋の中を歩き回り、ふと窓を開けて外を見た。当然ながら飛び降りられる高さではない。いや、飛び降りること自体は可能だ。生きていられる気がしないだけで。

 例えば寝台等から引き剥がした布をロープにして窓から降りる、というようなことを冒険活劇の中で読んだことはある。しかし、できる気はしなかった。頑張っているうちに朝になるか、誰かが来る方が早い。


 逃げ出したいのではない。ただただ気まずいのをどうしていいかわからない。


 ドアが鳴った。


 すぐに入ってこないことでミシェルが戻ってきたのではないと理解する。

 先ほどの無作法を叱られる。いや、お前には失望した、と言われるかもしれない。


 咄嗟にエレノアは隣の衣裳部屋へ逃げ込んだ。ローデリックに買いそろえてもらったドレスが掛けられ、靴、帽子などが箱ごと積まれている。入るたびに物が増えている気がして少し怖くなる部屋だ。


 扉の向こうでは微かにエレノアを呼ぶ声がする。


 ローデリックも他の皆も、先ほどの無作法を忘れてしまうまでここにいられたらいいのに。

 そう思いながら衣裳部屋の奥へと進み、靴を履く時に使う椅子に腰を下ろして、入り口に背を向けた。


「ここにいたのか」


 衣裳部屋のドアが開いたらしい気配のすぐ後に、ローデリックの声がする。

 どう考えても逃げ場がない。勿論、初めて会った日から逃げ場などありはしなかったのだが。

 合わせる顔がないので、振り返らないままで口を開く。


「申し訳ありません、みっともないことしてしまいました」

「こちらを向け」

「嫌です」


 ローデリックが近づいてくるのは背を向けたままのエレノアにも気配でわかった。

 せめて抵抗しようと背中を丸めていると、後ろから右下に肩を強く引かれる。椅子が傾くのに合わせて視界が強制的に斜め上を向かされた。更に足下へ横に叩くような衝撃があってエレノアが反射的に目を閉じると、今度は横方向に体が回った感覚があって、止まった。

 恐る恐る目を開けてみると、正面にエレノアを見下ろすローデリックがいる。


「……あ」


 どうやったのかよくわからないが、エレノア自身が椅子ごと回転したようだ。


「顔をみせろと言ってる」


 低い声で言われて、エレノアは思わず視線を落とす。更に叱られる要素を増やしてしまったのは間違いない。速やかな謝罪をするべきなのはわかっているが、何を言っても許される気がせず口が動かない。


「さっきのは。服は汚れているから、触れてほしくなかっただけだ」


 ぽん、と降ってきたローデリックの言葉をエレノアは吟味する。


「……私を、咎めにいらっしゃったのでは?」

「違う」


 彼の顔を見上げてみても、ローデリックが気遣いで言っているのか本気なのかを見分ける自信がない。困ってエレノアは眉を下げた。

 ローデリックも眉を寄せている。


「お前から触れようとしてきたから……驚いた。言葉を選ぶ余裕がなくて悪かった」

「別に、あなたが悪いとは思っていません」


 言い合って少しの間沈黙が落ちる。


「もう、触れたくない、か?」


 ローデリックにしてはゆっくりとした口調だったが、エレノアには何を確認されているのか理解できなかった。


「なぜそういう話になるんです?」


 再び沈黙が落ちる。

 さすがにエレノアは今の自分の聞き方が良くないのでは、と思い直す。そこでようやく、ローデリックが着ているのが騎士団揃いの深緑ではなくなっていることに気づいた。


「着替えてこられたんですね」

「汚れていたからな。今なら触ってもいい」

「結構です、何がなんでも触れたい訳ではありません」


 何故触れようとしたのかと言われても困ってしまうのだが。揶揄うように言われて顔を背けると、ローデリックが少し膝を屈めて顔を近づけてきた。


「さっきの方が好みだったか?」

「好みの話はしていません」


 とはいえ、だ。ローデリックに表情を覗き込まれているのを感じながら、エレノアは問いについて考える。以前の香りと同じで、何が良いと感じているかを共有するのは必要なのかもしれない。


「ああいった服装は……特別な感じがする、と思います。出立の時は近くでお話しできませんでしたし、よく見る機会がないので」


 考えながら説明すると、ローデリックが目を細めて笑い、そうか、と頷く。


「であれば今度は着替えてすぐ、出かける前にお前に見せる時間を取ってやろうな」


 何故今自分がわがままを言ったかのようになっているのか、と首を傾げるエレノアの頬にローデリックの指の背が触れた。


「お前、ちゃんと食べていたのか?」

「食べていました」


 エレノアが反射で答えると、ローデリックの視線が鋭くなった。


「嘘をつくな、痩せている」


 指で頬を摘ままれて思わず声が漏れ、エレノアは瞬いた。

 それがおかしかったのかローデリックがまた目を細める。指を離した彼の両手で今後は頬全体を覆われた。

 彼の指や掌は少し硬いが、温かい。

 エレノアの目元が何故か、じわりと熱を持つ。


「体調管理をしろと言ったろう? お前は痩せると本当に風で吹き飛びそうで、心配だ」


 低い声がぽとりぽとりと落ちてくる。

 視界が急速にぼやけていくが、ローデリックが笑ったのは声でわかった。


「痩せたのはローデリック様だって、同じで」


 エレノアが震える声で言い返そうとすると、あのな、とローデリックの溜め息が落ちる。


「陣中で普段通りに食べられるわけが……」


 呆れたような声が途中で止まって、エレノアの目元を彼の指がいつかと同じように拭った。

 は、と息を吐く音がする。


「……心配かけた」


 言葉と同時にエレノアは抱き寄せられた。温かい。

 エレノアは恐る恐る彼の背中へ手を添えた。

 振りほどかれることも制止されることもない。拒まれていない。そのことを確認してから彼の胸元に頬を寄せて体を預けると、両手で彼の服の背中をぎゅう、と握る。


「おかえりなさいませ。ご無事で良かった、です」


 うん、という低い呟きとともに、彼の手がエレノアの頭を少し強めに抱え込む。苦しいはずなのに妙に落ち着いたエレノアは目を閉じて、一つ息を吸い込んだ。


「あなたがいないと」


 言ってから目を開ける。口から勝手に言葉が出てしまった。

 自分が何を続けようとしたのかよくわからないので、彼の胸に押しつけられたままで考える。ローデリックが少し胸を反らせたので、エレノアの言葉を待っているはずだ。


「……駄目とはいいませんが。私はまだ一人前ではないので、困ります」


 ローデリックの胸が震えたのが触れている頬から伝わってくる。苦しい説明だったのは間違いないが、笑われるのは少しばかり不本意だ。


「寂しかったか」

「そこまでは言っていません」


 顔を上げたエレノアは背中側に回していた手を彼の腕において突っ張る。身を剥がそうとしたが、彼の力が微塵も緩まなかったので上体を反らすことになっただけだった。

 更にローデリックが笑ったので余計にむっとする。


「あのですね、私は」

「わかるぞ、遺憾なんだろう?」

「そうです」


 ローデリックの喉がくっくっ、と小さく鳴った。

 正直自分が笑われているのは不満だし、何が楽しいのかはわからない。でも、彼が笑っているのは悪くない、と思う。

 抵抗をやめるとまた抱き寄せられて頬が彼の胸元に当たる。


「許してくれるか?」


 耳の少し上で声がした。低いが柔らかい言い方だった。

 少し考えたエレノアが、許します、と答えると、体を囲っていた腕に少し力が入ってから、解放された。


「ひとまず寝て、明日からは痩せた分いつも以上に食べろ。良いな」

「はい?」

「わかったか」

「……はい」


 不承不承頷くと彼はよし、と口の端を上げてエレノアの頭を撫でる。


「また。頭を撫でるのはおかしいです。私を子供だと思っていませんか」

「まさか。お前が子供じゃないことは俺が一番知ってる」


 何を言っているのだろう、と見上げたエレノアの鼻をローデリックが遠慮無しに摘まんで笑った。

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