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第19話 辺境伯の帰還

「奥様、お口に合いませんでしたか? 今日のスープは以前お気に召して下さっていたようでしたが」


 昼食のテーブルで、でぼんやりと手を止めていた辺境伯夫人は厨房係に声をかけられて我に返った。配膳係ではない調理担当の使用人がエプロンをしたままで彼女のそばに立っている。


「いえ、美味しいです。考え事をしていただけですから気にしないでください」


 気に入らない、と思わせた時点で責任問題が生じてしまいかねないので、ぎこちなくエレノアは笑って見せた。

 今日の鳥のスープには、柔らかく煮た細長い麺が具として入っている。

 フリンツフッドでは見たことのない料理で、以前好きだと伝えたことがあった。あのときはローデリックが同席していて、好みに合うか、と聞いてくれ、美味しいと答えるとそんなにか、と笑ったのだった。

 思い出すと自然と目が彼の席へ動いた。当然ながら、そこはもうしばらく空席のままだ。


 ゆっくりとスープを口へ運ぶ。好きな味だった筈なのに味気ない。

 ここ最近はずっと、食事のたびに皆が自分の様子を注視しているのが明らかだ。

 無理なく食べられるように給仕される量が少しずつ減っていることも、料理が柔らかくなり、甘い物が増えたことも理解している。それでも食べ終わるのにかかる時間が延びてしまっていることも。


 スープカップの底に最後まで張り付いていたタマネギをスプーンですくって口に入れる。食事量に反比例して徐々に増えていった蜂蜜が入った紅茶を飲むと、今日も何とか食べきれたことに安堵しながら席を立った。



 部屋に戻る途中の廊下で使用人が奥様、と声を掛けてきた。


「旦那様からの手紙、お部屋に届いておりますよ」

「……そうですか、ありがとう」


 なんとか立ち止まってから返事をして、急ぎ足で部屋に向かった。



 自分の部屋に戻ったエレノアはまっすぐに机に向かい、置かれていた封筒を取り上げる。

 封蝋のない、誰が読んでも構わない程度の簡易な手紙で、中の便箋も一枚きり。

 それでもそこにはローデリックの字がある。


『そちらに変わりがなく安堵した。何かあればアランにも相談をするように。アランは責任者としてお前を気にしている、相談してやれば安心するだろう。こちらは特に変わりはない。食事はそちらほど種類が多くないので、あのバカ甘い乳の味が不思議と思い出されて参っている』

 

 簡単な署名の他は何もなかった。


 もう一度最初から読んでみる。

 何度か手紙のやりとりをしたが、いつも詳しいことは何も書かれていない。しかも、アランに尋ねても何も教えてもらえないのである。

 仕方がないので、妻の条件に『口が堅い』があった理由を勝手に了解することにした。妻というだけでは話せないことがあるし、仮に知ったとしても口外されては困るのだろう。


 更にもう一度読む。最後の一文以外はほぼ前回と同じだった。しかし、エレノアが手紙を書くと必ず返事がきた。

 バカ甘い乳でむせていた彼のことを思い出して少し笑みが浮かぶ。彼がわざわざ冗談を書いてくれたのだ。

 それだけで十分だった。



 ***



 夕食を終えてしまうと辺境伯夫人にはもうすることがない。

 エレノアが寝台で目を閉じて眠りがやってくるのを感じていると、ミシェルの慌てた声がした。


「お嬢様!」


 ミシェルも最近では奥様と呼び慣れてきているので、呼び方が戻ったのは慌てている証拠だった。

 エレノアは身を起こし、何か異変があるのかと少し周りの物音に耳を澄ませてから尋ねた。


「どうしたの?」

「旦那様がお戻りです! 今下へ到着されたと」


 え、と間抜けな声が漏れた。


 こんな大事なことが連絡されないなんて、とミシェルが文句を言うのが微かにしか聞こえない。気がつくと寝台を降りていた。


「騎士団がいつどこに移動するかは言いふらすものじゃないでしょう、仕方ないの」


 ミシェルに説明するように呟いた。彼女は優しいので、エレノアが大事に扱われていないと思うとエレノア本人よりも過敏に反応してくれる。それでもミシェルがローデリックを悪く言うのはあまり聞きたくはない。

 ご挨拶くらいはしないと、と呟きが口から漏れて、慌てたミシェルが厚手の羽織物を被せてきたのを受け取ると急いで部屋を出た。



***



 廊下で驚いた顔をした何人かとすれ違って、見送りに出たのと同じ場所までやってくると、遠くに深緑の一団が見えた。

 見送りの時は立ち止まっていた場所では止まれず、そのまま彼に近づいた。

 一団全体が薄い疲労を纏っているせいか、深緑が以前よりもくすんで見える。


「ローデリック様」


 少し遠くから名前を呼ぶと、彼が振り向いて目が合った。少し彼の目が丸くなる。

 元々引き締まっていてどこにも丸みのない彼だが、頬に微かに影が落ちているように見えた。

 小走りに駆け寄って、袖を引こうと手を伸ばす。


「――()せ」


 短い音で彼に触れかけた手が止まった。


「触れるな」


 なんとも言えない表情でローデリックがわずかに身を引くのがわかって、心臓が掴まれた。

 思わず後に下がると、彼の周りに複数の武官がいるのが今更目に入った。皆こちらを見ている。


 やってしまった。

 見送りの時は声を掛けるなと言われて遠くから見ていたのに。


「申し訳ありませんお邪魔をしました部屋に戻ります」


 早口に言い終えてすぐ体の向きを変え、急ぎ足で来た道を引き返す。


 自分が失敗しないように彼は気を配ってくれていたのに、やってしまった。

 彼は以前ダウズウェルの中での失敗は所詮自分の領地、のようなことを言ってくれたが、エレノアはそれを額面通りには受け取っていない。

 自領だからと言って無罪放免のはずがない。主人の妻がまともな作法もできないと、部下に思われて良いはずがない。


 エレノアは唇を引き結んだ。

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