第2話 はじめましての午後
昼下がり、フリンツフッド伯爵家の庭の片隅でエレノアは大判の本を抱えて歩いていた。書庫で埃を被っていた本を虫干しし、東屋と部屋を何度か往復して、これが最後の一往復である。
くすんだ灰色のエプロンドレスは作業しやすいお気に入りの一着。朝まとめてもらった髪は、作業中に枝に引っ掛けて緩く崩れていたが、誰に見せるわけでもないのでそのままにしている。
生垣はここ数日庭師の手が入っておらず不揃いに伸び始めている。
飛び出してきた葉先に指で触れながら歩く。
そうして前を見ずに角を曲がった時、肩が何か硬いものにぶつかってエレノアは後ろに押し返された。
痛みはそれほどない。
ごめんなさい、と声を出したのは自分の不注意を自覚していたからだった。
「――失礼。エレノア嬢でしたか」
聞いたことのない、低く硬質な声が降ってきて思わず顔を上げた。
屋敷の誰でもない、知らない男が立っている。大柄でエレノアより頭一つは上で、父や兄よりも背が高い。そして庭師にも劣らないほど肩幅がある。
「あぁ、屋敷で拝見した夫人の肖像画によく似ていらっしゃる」
声がまっすぐに伸びてきて、歯切れがいい。
エレノアは一瞬だけ相手の顔を見たが、記憶にないのですぐに目をそらす。
硬そうな黒髪と鋼の様な瞳の色で、やけに目つきが鋭かった。
どなた? と言葉にする直前で、相手のブローチが目に入る。
ブローチに蛇を掴む猛禽の意匠。
母の肖像画を見た。
本日の来客予定。
30代くらいの男性、貴族階級。
結論。悪辣という噂の、辺境伯その人である。
エレノアは軽く呼吸を整える。
「――失礼いたしました。フリンツフッド当主アルトリウスの娘、エレノアでございます。お目にかかれて光栄です、ダウズウェル……様」
敬称が適切か怪しかったが、本を抱えたままで膝を折って礼を取る。人と話題が入り乱れる社交界は無理でも、人目がなければ一対一で礼法を使うことくらいは辛うじてできる、と本人は思っている。
「ご丁寧にどうも。私をご存知とは、こちらこそ光栄です」
「存じてはいません。お召し物で判断しただけです」
大真面目に言い切った後に沈黙が落ちる。
エレノアは敢えて否定する必要がなかった、と理解と後悔を得た。
「なるほど、よく見ていただけている」
冗談めかしてくれている。
エレノアがちらりと視線をあげてみると、彼は薄い笑みを口元に浮かべていた。
顔立ちの問題かもしれないが、少しだけ剣呑な印象がある。それでも、噂で聞くよりはまだ穏やかだ。
「驚きました、あなたは臥せがちだと聞いていましたので。お体に障りはないですか」
辺境伯の言葉は丁寧だが、驚いているようには聞こえない。
エレノアは表情を変えずに瞬いて、腕の中の本を抱えなおした。
「今日は、問題ありません。部屋で過ごすことが多いのですが、月の障りのせいだとは広くお伝えしにくいもので」
お気遣いありがとうございます、と口にする。
嘘だ。だが、月の障りと言われれば、男性が追求しづらいのは知っている。言及されなければ十分だ。
申し訳ない、と短く詫びる声に、エレノアは少し肩を緩めた。
咄嗟に思いついた良い説明を、次にまた使おうと記憶の引き出しにしまう。
「そうだ。若い女性の意見を伺いたいのですが、構いませんか」
無意識に切り上げようと向きを変えたつま先が、尋ねる形の言葉に止まってしまった。視線を合わせてしまったので仕方なく、頷く。
「では単刀直入に」
一歩、辺境伯が近づいてくる。
陽の高い時間帯であるにも関わらず、通路を伸びてきた影がエレノアの靴の先を呑み込んだ。
「見目がよく、頭が悪くなく、口が硬く、派閥争いに興味がない。そして、すぐに私に嫁げる女性を探しています。助言をいただけませんか」
エレノアが目を伏せると、頬にまつ毛の影が落ちる。
最初の一つを聞いた時点でお好きにどうぞ、と言いたくなった。お飾りにできて面倒のない妻ということだ、そこには辺境伯の都合しかない。
それでも課題として示されると無視ができない。提示された問いがエレノアの頭の中を踊った。
考えが浮かんでくるのに合わせて口を開く。
「すぐに嫁げる、は他に声がかかっておらず調整の必要がない、と解釈します」
「ええ」
「通常、見目と頭が良くてほかに問題がない方は、全くお声がかからないとは考えにくい。すぐに、であれば、そういった話が来ない、問題のある方を優先して絞らなければ時間が無駄になりそうです」
「もっともです」
相槌を打つ彼は何故か満足げだ。
「情報を漏らす可能性の排除は困難です。でも付き合いが少ないなら、秘密を漏らす先も徒党を組む相手も存在しないので……」
少し首を傾げて考える。
「効率を考えるとまずは、交友関係の極端に狭い女性を探すのが良いのでは。一般的にみて見目と頭の良い方なら何かしらの問題があるので、それでも良いかあなたが判断なされば良い……と、思います」
浮かんできたことを言い終えたエレノアに、黙って聞いていた辺境伯が微かに笑う。
面白がっているとエレノアには見えた。
「ええ。あなたのおっしゃる通りだと、思っていました」
鋼色の瞳に見下ろされて、急にエレノアは落ち着かなくなった。
本を抱きかかえる腕に力が入る。
「あなたのご友人は?」
エレノアの首筋にチリチリと何かが走る。
質問ではなくて確認だった。実際に確認したいのも友人の数とは思えない。
父と兄の言葉も思い出す。二人は目当てを察していたのだろう。
一度口を開きかけて、エレノアは口を噤んだ。口を開くと確認が進んでしまう。
「貴族の婚姻は、特権に付随した義務の一部です。あくまで合理的に考えなくてはいけません。いくらか遅らせることはできても、免れるべきではない」
独り言のように辺境伯が言った。しかし目は間違いなくエレノアを見ている。
「……私にも友人と認識する相手はおります。ですが、実際の交流頻度としてはおそらくご存知の通りです」
避けることも媚びることも躊躇われて、結局はいつも通り、思った通りに答えるしかない。
「私は必ず余計なことを言うので、社交界に連れて行くのには向きません」
エレノアの視線は彼の膝の辺りにあり、どんな表情をしたのかは確かめなかった。
辺境伯はフリンツフッドより格上で、結局は彼の意向が何よりも強い。
「エレノア嬢。あなたは」
「評価でしたら。伝えていただく必要を感じません」
「……わかりました。私はこれから御父上と視察に行きますので、これで」
立ち去る足音が聞こえて、エレノアがようやく視線をあげる。言っておかねばならないことを思い出した。
広い背中に声をかけると、伯爵が振り返る。
「父には、私とあったことは伏せてください。私が部屋にいると思っています」
「いいでしょう。……私を選べ、もしくは選ぶなとは仰らない?」
「フリンツフッドの当主は父です。私の役割は、当主の決定を受け入れることだと捉えています」
辺境伯は何も言わず、目を細めてエレノアを眺めている。
お引き止めして申し訳ありません、と先に視線を外したエレノアが呟くように言った。
「それでは、また」
そう言ってエレノアに向けられた背には、やはり父や兄のそれとはまったく違う厚みがある。
変な探りさえなければ、もう少し話をしてみたかった、かもしれない。
そんな言葉がどこかを掠めた。
風で生垣がざわりと音を立てたので、エレノアはようやくつま先を屋敷に向けなおした。
本を書庫に戻す。部屋にずっといたようにふるまう。侍女たちにも口裏を合わせてもらう。お茶は自室で飲む。
頭の中ですべきことを整理し終えて、歩き出した。
***
一週間が過ぎ。
国王印のついた書状が、エレノアとダウズウェル辺境伯の結婚を認めると伝えてきた。
その一時間後、計ったようにダウズウェル辺境伯からの書状が届く。
辺境伯のいう「すぐに」は初めて顔を合わせた日からわずか二週間後を指していた。




