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第17話 辺境伯の不在

 夜に二人で時間を過ごすことは次第に当たり前になった。ローデリックが用がある時は大抵彼の部屋に呼ばれる。もしかするとミシェルを避けたい時、という可能性もある。


「エレノア」


 名前を呼ばれて返事をしたエレノアは、ソファにいるローデリックのすぐ脇に座った。今日は彼の部屋に呼ばれたので、エレノアは膝の上に自分専用になっているクッションを乗せる。


「俺は明日からしばらく留守にする」


 ダウズウェルに来てから初めて言われた言葉にエレノアは何度か瞬く。


「どちらへ?」

「国境沿いだ、ここからは北北西方面」

「何をしに?」

「バートが陣を張る。辺境伯として俺も出る」


 バート。エレノアは赤毛で大柄な男の姿を思い出した。

 彼はエレノアを執務棟で見かけると、ローデリックがいないときは気さくに声をかけてくれる。閣下の好みの女、とか、うまい晩酌、とか、日常的で俗っぽい話題しか口にしないが、武官の長であることはエレノアも忘れていない。


「では、騎士団を動かすのですか」

「傭兵団もな」

「戦いになる?」

「もうなっている」


 ローデリックの返答は落ち着いたものだったがエレノアは目を丸くした。初めて聞く話である。


「聞いていません」

「今言った」


 エレノアが文句を言ってもローデリックが気に病む様子は全くない。声の調子もあまりにもいつも通りだ。


「危ないのでしょう?」

「俺に限ればそこまでではない。当然ながら、辺境伯が前線で身を張る必要もないしな。他国(よそ)とやりとりするには俺が出るから念のため、だ。こういうことは珍しくもないと言ったろう」


 前にも言ったぞ、とローデリックは面倒そうな顔をした。

 エレノアには確かに、知っているよりは揉め事が多いと聞いた覚えがあった。だが、実際にこれから彼が出発すると言われるのは全く別の話である。


「では、私も行きたいです」


 短く息を吐く音がして、ローデリックが露骨に顔をしかめた。


「何言ってる」

「ローデリック様は比較的安全な後方待機ということでしょう? なら私も」

「だめだ」

「何故ですか」


 説明を求めて食い下がったエレノアに、ローデリックは一度口を閉じた。


「女は邪魔になる」


 ローデリックは考えるような間もなく言い切った。目を見開いたエレノアが何か言う前にローデリックが手を挙げて制止する。


「女のための設備を追加で用意する余裕はない、と言ってる」

「でも」

「お前の世話をする侍女が何人必要になる? いざというときお前に」


ローデリックが一度言葉を切って、指先がソファの生地を何度か叩いた。


「いざというときはお前以外は後回しだ。ミシェルを危険に晒したいのか」

「……わかりました」


 今までになく強い口調で言ったローデリックが部屋に戻れ、と追い払うように手を動かした。

 エレノアにもその意図はわかったが、言葉ではなく出て行くように示されたのは初めてで、なぜか妙に嫌だった。とはいえ、部屋の主も、このダウズウェルの主も彼である。全ては彼が決めていいことだ、とは理解している。

 エレノアが視線を落とすと、自然と肩も窄まった。


「あなたがいらっしゃらない間、私は何をすれば良いのですか」


 小さく呟くと、エレノアの頭に重みがかかる。


「自分の体調管理だ。きちんと食べて、しっかり寝ろ」


 彼の口調はいつも通りに戻っていた。怒っていないのかも、と確かめようとしたが、部屋に戻れ、と念を押されてエレノアは仕方なく頷いた。




 ***




 翌朝、朝食をいつもより早く切り上げたローデリックとは、ろくに会話をする時間もなかった。

 初めてダウズウェルに来た日に馬車を降りたところまでは出る許可を得たが、ご丁寧に、事前に声を掛けるなと釘を刺されている。そのため建物の入り口から遠目に見送ることにする。

 注目を浴びる中でやりとりしなくて済むように、という配慮であることは理解できているので、仕方がない。昨夜ついて行きたいとしつこくしてしまったせいではない、と思うことにした。

 普段は一人だけ黒ずくめになっていることが多いローデリックだったが、今日は騎士団で揃いの深緑を着ている。体格の良い人間が似たような服装で群れているが、金糸の装飾の量で身分が違うことは一目瞭然である。ローデリックの姿は、はっきりと群れの中で見分けがついた。


「あんな目立ってしまったら、危ないのに」

「婚姻契約式でもお召しでしたね」


 思わず呟くと、後ろに控えていたミシェルが静かに応じたので記憶を辿ってみる。

 そういえばそうだったかもしれない。そうでなかったかもしれない。

 正直あの日、ローデリックの顔と言葉は飛び飛びに覚えているだけで、何を着ていたとか、周囲の様子がどうだったとか細かいことがひどく曖昧だ。披露パーティでしがみ付いていたものが夫の腕ではなく手すりだったと言われても信じてしまいそうなほどである。


 あれから数ヶ月経っているのが不思議だった。


「そうだった?」

「そうですよ、夕方別邸に入るまであの服でいらっしゃいました。外套は朝のうちだけで、上着も別邸に着いて早々お脱ぎになって」


 そうだったかもしれない、とまた繰り返す。


 ローデリックの背筋はまっすぐ伸びていて、視線も同じだった。バーソロミューやアランと何か話しているが、いつも通りで緊張している様子も見て取れない。

 見送りに出るとは伝えていたが、視線がこちらへ向くことはなさそうだ。

 彼の日常に妻は、というかエレノアが、本来必要ないのだから当然だろう。仕方なく条件をつけて選んだのだ。

 それに今回のことだって出発の前日に伝えてくる位なので、本当に彼にとってはよくあることなのだろう。大したことではなく、妻に言う必要すら感じない程度の。


「部屋に戻ります」

「よろしいのですか、まだ出発されていませんよ」

「だって、私が見ていても仕方ないでしょう」


 そう言いながら、エレノアの視線はまだローデリックを見ていた。

 いつものことなら、やはり自分が大げさに反応するのが間違いなのだ、そう結論しても足が動かない。


 結局彼らが門を出て行くまでずっとその場で見ていたエレノアへ、ローデリックが視線を向けることは一度もなかった。




 ***




 ローデリックが出発した日、エレノアは初めて食事をともにする人がいないのだと気づいた。食事の間、視線は何度も彼が座るはずの席の上を滑った。なんとなく少し早めに朝食を取るようにしてみたが、当然一人のまま。

 彼と特別なやりとりがあったわけではない。食事の時間に交わす会話はほぼ定型のものだった。体調の確認、来客の予定、注意事項の通達。

 エレノアの城内での過ごし方も、執務棟に関わることでなければそこまで細かく報告しておらず、来客がない限り行動を管理されるわけでもない。

 ただ食事と、夜に少しだけ一緒の時間を過ごす。ただそれだけ。


 エレノアは、いつもの習慣が途切れていることが不思議だった。それに、彼がいないとダウズウェルで自分がぽかりと浮いてしまっている気がする。


「――奥様、ご用なら閣下に連絡しましょうか」


 アランに声をかけられて、エレノアはびくりとして振り返った。

 気遣うような視線を向けられてようやく、自分が辺境伯の執務室の前に立っていたことに気づく。ローデリックが不在の今、当然誰もいない部屋の前にいるのは明らかに奇妙だ。


「必要ありません。何も用がないので」


 答えると、アランは少し眉を寄せた。


「……では、様子をお知らせ下さるように伝えましょうか」

「結構です、お邪魔になってはいけませんから」


 ではそのように仰っていたとお伝えします、と言われたエレノアは驚いて背筋を伸ばした。


「遠慮して言っているのではありません、本当です」

「私も別に奥様に忖度しているわけではありませんよ。閣下にこちらの様子をお伝えするだけです」


 無表情か不機嫌顔になりがちなローデリックと違い、アランの表情は常に薄らと柔らかい。目は笑っていなくとも基本的には柔らかい表情を維持している。


「……それでもです。私がここにいたことはローデリック様には言わないでください」


 アランが何か言う前にその場から逃げ出した。この辺境伯の側近は礼儀正しいため、基本的には武官の長と違って大股の早足で追いかけてきてまで会話を続行することはない。不都合な時は物理的に距離を取るのが一番だった。

 勿論、何の解決にならないことはエレノアもよくわかっている。


 落ち着きなくうろついていたと伝えられたら、きっと彼は呆れてしまう。

 前に自分たちの関係を上司と部下に例えたことがあった。彼は自分から言い出しておいて、そうではない、と言いたいような顔だったのを覚えている。

 形だけの妻は部下としての価値もない、置物だと割り切っているのかもしれない。

 そして、問題はエレノアが、本当に部下だったらこんなに気を揉まないのかもしれない、と思ったことだった。何も求められていないからと甘えてはいけない、しっかり役目を果たさなくては。

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