第16話 書庫の妖精
「今日のお前の予定は?」
ある朝食時、いつもの体調確認の後で何気なくローデリックが尋ねた。
「書庫の目録作りの続きをします」
エレノアは答えてから、これでは少ないと口を開く。
書庫のどこに何があるかを整理したい、とローデリックに申し出てから、目録作り自体は彼の許可を得ている。しかし、細かい進捗までは伝えていない。
ローデリックはこちらに目をやって、エレノアの言葉を待っていた。
「もうほとんど何がどの棚にあるか把握できています。目録さえあれば十分に楽ですが、できればちゃんと分類して並び替えもしたいです。そうしたら目録を見なくても精度の高い調べ物ができるようになりますから」
お役に立てる自信があります、と捲し立ててから口を閉じると、夫は黙ったまま頷きを返した。
そういえば、と彼の口から低い声が思い出したように漏れる。少し顎を上げた彼がじろりとエレノアを見た。
「文官の間で、最近書庫に妖精がいると噂になっているらしい。知っているか?」
妖精というと羽がついていたりする、人間ではないもの。物語の中にいるものだ。ローデリックの口から出るとは思わなかった。
わざわざ彼が言うからには何かしら意味があることなのだろう、と書庫での記憶を振り返るが、本と目録のことしか覚えがない。それ以外に見るのは文官位だ。
左右に少し頭を傾けてみたが何の切っ掛けも入っていなかった。
「よくわかりませんが、妖精を見たことはないと思います」
彼の返答は、そうか。
少しこちらを見ていたが、諦めたように肩を竦めた。
もしかして実際の妖精を知っていて、それに気づかないのは観察力がないと思われたのか、と思いながらエレノアは食事を再開する。
今日のオムレツにはベーコンとキノコのソテーが入っていた。
***
今朝のローデリックが言った妖精の謎は解けないが、作業に支障はない。
いつも通りエレノアは書庫で目録作りをし、昼食を取った後は再び書庫に戻る。
「こんにちは」
声をかけられてペンを持つ手を止める。
振り返るとエレノアと年齢の近い文官がいた。優しそうな栗毛で、常に制服は清潔感がある。
挨拶を返すと彼は近くへ寄って来た。
若手の文官は過去の事例を調べるためなどの理由で書庫にやってくる。何がどこにあるか、尋ねてくるのは些細だが目録を見ながら情報を提供すると、彼らは喜んでくれた。
ローデリックから夫人は戦力外、というより戦力にカウントしないと宣言されたが、わずかなことでも役に立っている気がして嬉しい。
最近一番顔を合わせる目の前の彼は滞在時間が長いので、仕事に影響しないのか気にはなるが、こちらからは話題を投げないようにしている。
「その作っていらっしゃる目録、見せていただけませんか」
時々興味を示していた彼が、今日はとうとう見せろと言ってきた。
「まだ途中なのでご覧に入れるようなものではありません」
「そんな。俺も手伝いますよ」
え、あの、と言葉にならない音を溢しながらエレノアは一歩下がる。
断っているつもりなのに、と思う。もっとはっきり、見せたくない、と言っても良いかがわからない。
それに、悪意がなくても誰かと作業を共有するのも苦手だ。
どうしよう。
近づいてきた彼との間に、エレノアの後方から黒い影が割り込んだ。
「エレノア」
声に遅れて、ふわりと慣れた香りが漂う。口にすると奇妙な顔をされるが、少しだけ森の中に立つ木をイメージする、少し苦みのある香り。
もう大丈夫だ。
ほっとして顔を上げた。どこに視線をやれば目が合うのかもわかっている。
「何してる」
顔を上げた瞬間は少し不機嫌そうなローデリックだったが、目を合わせると微かに表情が和らいで、当然のように腰に腕を回してきた。
閣下、と文官の青年が緊張した声を漏らす。当然ながら辺境伯のことは知っているようだ。
エレノアは妙に体を寄せるローデリックにされるがままで夫を見上げる。
「こいつが何か邪魔をしたか?」
「私は邪魔なんてしていません」
辺境伯の問いに心外だ、とエレノアが口を挟むとじろりと睨まれる。
若い文官は先ほどとは違って肩を上げて小さくしか口を開かない。
「いえ、あの。私が本を探す手伝いをしていただいていただけで……」
「手伝い?」
「本の題名で内容が推測できるでしょう? 必要な情報がありそうな本がどの棚にあるか、この目録があれば教えて差し上げられます」
ふむ、とローデリックが文官からエレノアに視線を移した。
見せてみろ、と促されてエレノアは書きかけていた目録をローデリックに差し出す。エレノアが両手に抱えるほど少し大きな判だったが、彼は空いている片手を添えただけでエレノアの手書きの一覧に目を落とした。
「思ったより詳細に作っているな」
「領地のための資料です。全てが実用的でなくてはいけません」
「……うん、役に立ちそうだな」
確認しながらのローデリックが頷いたので、エレノアはわずかに表情をほころばせた。良かったです、と小さく呟く。
ローデリックは文官に目をやった。
「仕事熱心なのは評価するが、相手が誰なのか確認する癖をつけろ。お前は辺境伯夫人に手伝わせるほど偉くない」
「夫人!?」
若き文官が思わず声を上げた。
当然ながらエレノアとローデリックは血縁がないため外見が似ていない。加えて年齢差が十歳以上ある。更に言えば、エレノアが辺境伯夫人のための服ではなく、令嬢のための服を未だに着ることもその理由になるだろう。
「……見えませんか?」
尋ねられた文官が言葉に詰まった。視線がエレノアから移動して、助けを求めるようにローデリックに向かう。
辺境伯が少し息を吐いて、さっさと仕事に戻れ、と促したところ、若者はそれを口実に問いに答えないまま謝罪を残して去っていった。
「……見えないということですか」
腕をほどいてエレノアを解放したローデリックは、見えにくいかもしれないな、と答えてくれた。
***
書庫でローデリックに会ってからしばらく、エレノアの目録作りは着実に進んだ。
完成した目録を自慢するためいつも通り夜の執務室へ顔を出したエレノアだったが、今夜はローデリックの部屋に招かれる。
何度か部屋へ招かれるうちに、エレノアは自分の部屋からクッションを一つ持ってきてこの部屋にも置いた。ローデリックが使っている様子はないが、話をするときに膝の上に置くとなんとなく収まりが良い。
座るのが待ちきれず目録をローデリックに押しつけて半ば強引にお褒めの言葉を賜ると、エレノアはソファに腰を下ろしてクッションを膝の上に載せた。
ローデリックは興味深そうに目録の頁を繰っていたが、一旦机に置くためか部屋の奥に向かう。
「そういえば、最近あの人書庫に来ないんです」
クッションの上で指を組みながらエレノアは言う。ローデリックは上着を椅子の背に無造作に掛けてから戻ってきて、エレノアの隣に腰を下ろした。
「誰のことだ」
ため息のような音と一緒に問いが向けられる。
「先日書庫で会った時にいたでしょう、私と歳の近そうな文官の。あの、えぇと……髪が栗色で、優しそうな感じの」
エレノアは一応思い出そうとした。
顔は思い出せる、栗色の髪だったのも覚えているし、制服の上着に皺がほとんどなかったようなのも覚えているが、名前は覚えていなかった。そもそも質問に答えるだけなら相手の名前を呼ぶ必要がないので、聞いたかどうかも記憶にない。
ローデリックを見上げると、彼と目があった。覚えていませんか、と首を傾げると、一拍おいて、あいつか、とローデリックが面倒そうに呟いた。
手慰みなのか、特にまとめることをせず肩の先に垂れているエレノアの髪先を彼の指が揺らす。
「いずれ他領との交渉業務に着きたいと言っていたのを思い出した。配置換えで王都にいる、しばらくこの街には戻らない」
「そうですか」
随分急な話なのだな、と思っていると彼は問題があるか、と尋ねてきた。
問題とは、と少し考えてから首を振る。
「希望と適性で配置するべきですから。ローデリック様が判断されたのでしたらいいのでは? 私はよく知りませんし」
答えると辺境伯はいつものようにじっと妻の顔を見つめてから、そうか、と笑った。
何がおかしかったのか、エレノアにはよくわからない。
ローデリックの指先が円を描くようにしてエレノアの髪を巻き取っては外しを繰り返しているのをぼんやりと眺める。
「他には」
「他とは?」
「他に話したいことはないのか」
視線を寄越さないままローデリックに尋ねられ、エレノアは首を傾げた。
「今日は目録の話以外は特に、予定していません」
「なら部屋に戻るか」
「もうですか」
何気なく答えるとローデリックの視線がまた顔に張り付く。
さすがに何かついているかもしれない、とエレノアが自分の頬をなでてみると彼は不思議そうな顔をした。
「何してる」
「じろじろ見られているので、何かついているのかと。もしそうならわかるように言ってほしいです」
一瞬視線を背けたローデリックが小さく咳払いした。
「お前の表情を見ていた」
言われて瞬く。彼が自分の機嫌を伺う理由はないはずだ。
「何故ですか」
考えるような間の後に、ローデリックが息を吐く。
「お前が何を考えているかはわからないが、どういう気分なのかは顔をみればわかる」
「本当ですか」
「大体は。慣れてきた」
今度はエレノアが少し考える番だった。彼の顔を見る限りからかっている訳ではないように思える。
「では。私は今どんな気分に見えていますか?」
ローデリックが顔をしっかりとエレノアに向けた。低い位置にある顔を覗くように少し前傾になってまじまじと眺める。
さすがに正面から視線を浴びると今でも少し緊張する。まだ出会ってから大して時間がたっていない。そんな都合よく理解されるものだろうか。
「今は俺を疑っている。だが、それほど悪い気分でもない」
違うか、と問う声は柔らかかった。
なんとなく視線をクッションに落とし、どうでしょう、と呟くと彼が身を寄せてきたのでエレノアは引こうとしたが、腕を取られて肩に力が入った。
「お前は、まだ慣れないか」
彼の声は少しだけ、面白くなさそうに聞こえた。




