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第15話 自室待機

 辺境伯夫人の朝は特に早くない。

 今日はゆるく波打つくせ毛を左の肩口で一つにまとめただけの簡易な髪型だったが、食堂にはローデリックの方がいつもどおり先に席に着いていた。


 以前は近くに行ってようやく視線が合うと思っていたローデリックだが、最近は食堂に入った時点でも目が合う。

 遠くから挨拶を投げるのも無作法な気がして急いで近づこうと少し早足になる。髪が揺れ、手入れに使った化粧油に含まれている柑橘の甘い香りがした。

 服だけでなく、化粧や身だしなみに使う道具類も気がつくと増えている。ミシェルに尋ねると当然ながらローデリックの手配だった。


「おはようございます、ローデリック様」

「おはよう」


 いつも通りに挨拶すると、いつも通りに答えが返ってくる。


「体調はどうだ、昨夜はよく眠れたか」

「問題ありません」


 ローデリックから投げられる質問に答えるのもいつも通りだ。

 先日以来、夜に彼を執務室へ迎えに行くのは恒例になっている。相談が存在しないことを彼もわかっていて、特に咎めるでもなく席を立ってくれている。


「くださった髪用の化粧油、使わせていただきました、ありがとうございます。質がいいとミシェルが喜んでいました」


 そう言うと辺境伯は、いつも通り鋭い視線をエレノアに向けた。数秒見つめた後で、表情を変えずにそうか、と口にする。大抵のことはこの反応だった。

 辺境伯夫人の条件に見目が良いこと、があったはずだが、彼から特に言及されることはない。彼の嗜好ではなく、一般的な基準の話なのだと今は確信している。


「お前は」

「はい?」


 話が終わったと思っていたが引き戻されて彼に目を向けた。


「お前はどうなんだ。香りに好みくらいあるだろう」

「よいと思います」


 そうか、またそれだけ言ってローデリックが視線を外した。

 運ばれてきたスープの湯気を見ながらエレノアは少し考える。

 好みを聞かれているのに良いか悪いかというだけでは夫婦の会話として不足かもしれない。好みの例として最近嗅いだものの中で好ましいものを一つあげるべき、と判断して記憶をたどる。


「ローデリック様の匂いは落ち着きます」


 言うと食事を始めていたローデリックの手元で食器が音を立てた。


「……俺の使っている香りの話だな?」


 むす、とした顔のローデリックがこちらを見たので、はい、と頷いた。言葉が足りなかったか、とローデリックから指摘される前に口を開く。


「落ち着くというのは好ましいという意味です」


 そうじゃない、とローデリックが呟きながら手の甲を眉間の辺りにかざした。


「……自他問わず人が使うものは『匂い』はやめろ、『香り』と言え。印象が違う」

「わかりました。ローデリック様の使っている『香り』は好きです」

「言い直さなくていい」


 ローデリックの声が唸るように低くなったので、申し訳ありません、と呟いて食事に専念することにした。

 また失敗したらしかったが教えてもらった言い直し方自体は問題がないようだ、というのは覚えておくことにする。

 ローデリックは時々妙にじろじろこちらを見て何か言いたげな顔はするものの、必要なことは根気よく教えてくれた。この調子で頑張ればいずれは一人前の辺境伯夫人になれるかもしれない。

 ナイフを入れた今日のオムレツにはチーズが入っていた。




 朝食が終わってエレノアが席を立つと、ローデリックも同時に席を立ち、部屋まで送る、と宣言した。

 エレノアは断ろうと口を開きかけ、彼の表情を見て口をつぐむ。どうも反抗しても無駄だと悟って了解を返すと、夫は鷹揚に頷いて見せた。


「今日は午前のうちに他領よそから来客がある、お前は昼食まで自室で待機だ。病弱と説明するのはフリンツフッドの頃と変えない」

「承知しました、助かります」


 部屋までの廊下を歩きながら説明されて素直に応じたにも関わらず、視界の端で夫の視線は外れないことがわかった。見上げた先で彼が肩をすくめる。


「部屋で待機。これを必ず守ってもらう」

「ひょっとして。私は今すでに監視されています?」


 そうだ、と即答されてエレノアは思わず口を引き結んだ。それを認めたローデリックが小さく笑う。


「お前があのとき出歩いていなければ……今頃はまだ、フリンツフッドで過ごせていただろうにな」


 言い終える前にローデリックの顔が背けられ、エレノアも視線を足下に落とした。


 どういう意味ですか、と尋ねようとして声にならなかった。

 ローデリックがあのとき庭へ出て顔を合わせてしまったことは、エレノアの失敗だと認識しているのは間違いない。

 だが単に迂闊さをあげつらっているのだとすれば、彼の条件であるはずの、頭が悪くない、とは矛盾している。

 では何故そんなことを言うのか?

 妻候補を精査している時間がなく、多少頭が悪くても友人がいない方を重視して妥協したということかもしれない。しかしそれを確認するのは気が進まない。 

 

 考えているうちにエレノアの私室に到着した。扉を開けるとミシェルが迎えてくれる。


「この前買ってやった本は読み終えていないな?」

「まだです」

「読み終えて物足りなくなったら自分で取りに行く前に報告しろ。言っておくが」


 はい、と神妙に答えるとローデリックが後ろをみた。

 エレノアは気がつかなかったが他の使用人が二人ついてきていたらしい。部屋の前で待機させるつもりだとわかった。


「昼まではどこかに用があっても使いを出せるように手配してある。どんな理由をつけようが、お前を部屋から出さない」

「……やりすぎでは?」

「何か起きてからでは遅い」


 振り返るとミシェルも当然です、と言いたげな顔で頷いている。

 別に出かける用事はないが、部屋から出さないと言われると少しばかり窮屈だ。


「何せ俺は悪辣で名高いから、恨みを買っているだろうしな」


 彼のそれは冗談のようではあった。

 まだエレノアには実際の危険度が想像できず、首を小さく傾げる。もしものことがあったとき、護衛が間に合わなかったら危ないと言っていたなと思い出す。

 見上げると彼は言葉を探してか口を閉じた。


「できるだけ恨みを買わないようにしてください、心配になります」


 ローデリックは一拍おいて、顔をしかめると踵を返して歩き出した。方向からして執務棟に向かったのだろう。

 余計なことを言ったかもしれない、と思いながら遠ざかっていく背中を見つめていたが、ミシェルに呼ばれて視線を剥がすと部屋に入った。


「……今ある本を読み終えたとしても、買い足さなくても良いように書庫に何があるか把握しておかないと」

「それは午後以降に、旦那様のお許しが出てからになさってくださいませ」


 ミシェルの言葉にわかっています、と答えてエレノアは自分の本棚に並ぶ背表紙を眺めた。

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