第10話 善意の舌禍
エレノア専用の書架が少し充実した翌日、とうとうローデリックは執務棟にエレノアを連れていった。
書庫や文官の執務区画、武官用の区画を見せ、最後にローデリック自身の執務室に通される。
そこで、細身の金髪の男と体格の良い赤毛の男を紹介された。二人とも辺境伯自身よりは少し年上で、ローデリックが二人に対しては個人的に親しみを感じているのは見て取れた。
金髪の男はアラン、いわゆる側近として政務の中心を担う。
赤毛の男はバーソロミュー、武官、いわゆる騎士団の長であり、ダウズウェルに常駐する傭兵団との調整も担う。
簡単過ぎる紹介を聞かされた、何せ家名も教えてもらえない。
「エレノアです。わからないことも多いですが、よろしくお願いします」
どうにも紹介の仕方がおかしいと思いながら挨拶したエレノアを、金髪の男は複雑そうに見返し、赤毛の男は鷹揚に頷いた。
「で、私は何を?」
「何を……?」
エレノアが尋ねるとローデリックが思わず、と言った調子で言葉を返した。
「ここにつれて来ていただいたのは何か仕事があるからでは?」
「ない。政務に夫人は必要ない」
二度「ない」を繰り返されて、エレノアが少しだけ眉を下げた。
その場にいる男三人から不思議なものを見る目で見下ろされて、エレノアは少し肩を縮こまらせた。
「では、辺境伯夫人として普段何をすればいいのですか?」
尋ねられたローデリックが指を三本立てて見せた。
「禁止事項が三つある。一つ、勝手に城の外に出るな。二つ、所属を明確に把握していない相手と挨拶以上の会話をするな。三つ、執務棟にいる人間に自分から話しかけるな」
「……わかりました」
「それ以外は自由だ、暇なら刺繍でもしていろ」
「刺繍は興味がありません」
ローデリックがぴくりと眉を上げ、アランが眉をひそめ、バーソロミューは笑いをかみ殺した。
ローデリック主催の案内が終わって執務室の外に出されると、エレノアは途端に暇になった。
バーソロミューが送ろうか、と申し出てくれたのだが、ローデリックがそれを止めてしまったせいで、一人で執務棟を歩くことになる。
「……とりあえず、戻ったほうがよさそうです」
夫から告げられた禁止事項によれば、執務棟ではエレノアから誰かに話しかけてはいけない。そして、所属不明の相手から話しかけられたとしても挨拶以上はしてはいけない。
生活区画では使用人に挨拶をするタイミングがあったから何人かは顔を覚えているが、ここでは先ほどの幹部二人以外は明確な所属がわからない。
もし仮に、不安げにしているエレノアに誰かが親切心を出したとしても、挨拶以上の返答はしてはいけない、ということだ。
精一杯の早足で廊下を急ぎ、生活区画へと戻った。
***
生活区画まで戻ってくると、エレノアはほっと息をついた。一度部屋に戻ったがすることがない。仕方なく昨日買ってもらった本の目録を作り、夕食の時間が近づいてきたので少し早めに食堂に向かうとミシェルに言付けて部屋を出る。
食堂の近くまでくると、廊下の向こうから厨房担当の女性がやってきた。
「あら、奥様」
先日ローデリックにつられている時に挨拶をしたので顔も名前も覚えている。マーサという名前の彼女は、もうそろそろ初孫が生まれる予定で、おっとりした雰囲気の女性だ。
手持ち無沙汰で、と言うと彼女が紅茶でも淹れようかと申し出てくれたので甘えることにする。ついでに淹れているところを見せてくれと頼んでみると彼女は快く応じてくれた。
それでは、と彼女が何故か厨房とは反対の方向に向かおうとしたので、エレノアは思わず呼び止めた。きょとんとした彼女に何故厨房に行かないのか、と尋ねる。
「飲み物としてお出しする水は都度井戸から汲む決まりになっておりますので」
当たり前のように告げられた言葉の意味をエレノアは飲み込めなかった。
「何故です? 飲み物として、というのであれば食事に使う水はくみ置きということですよね?」
「ええ、食事は食事です。飲み物のためのお水は新鮮なものでという決まりです」
ますます意味不明だった。
初日にお茶の提供が遅い、と感じたのはまず水を汲みます、という手順から始まっているせいらしい。それなら確かにミシェルが言うとおり、遅くはない。
だが、それ自体がやはりエレノアには理解できない。
「都度水を汲むのは新鮮な水を使うため、というのはわかりました。そうすると、くみ置きが飲料に適さない程度に風味が悪いと聞こえます。食事に古い水を使っているのは問題ないのですか?」
尋ねるとマーサが狼狽えたのがわかった。周りでちらちらと他の使用人がこちらを見ていることも視界の端で見える。じわ、と嫌な感覚が頭の端に滲む。
「あの、私は理由を聞いているだけです。問題がないことなのか、都度汲む必要があるのかどうかという話です」
「必要です、だってそういう決まりですもの」
「ですから――」
パニックになったらしいマーサに説明しようとしたところで他の使用人が見かねて寄ってきた。
「その決まりになんの意味があるのかと聞いています」
エレノアがそういった瞬間に、マーサだけでなく他の使用人の表情も硬くなった。
その表情を見てしまった時点で、今度はエレノアが固まる。
間違いなくおかしなことになってしまった。
しかも使用人と辺境伯夫人の言い合いになってしまっては、納めるのは辺境伯夫人、つまり自分でなくてはならない。
もういい? いや、良くはない。問題が解決していないのだから。だが質問に答えが返らないのでは解決できる見込みもない。でも、なんて言えばいいのか……
こんなことなら一人で出歩かなければ良かった。
エレノアは臍の前あたりで重ねた手を握りしめた。
「――どうした」
低い声が落ちた。




