第9話 他称の悪辣は然るべき
エレノアの父は伯爵で、辺境伯に比べれば格は落ちる。それでも領地の人間と親しく会話をすることはほとんどなかった。それは平民を下に見ているという話ではなく、単純に振る舞いのルールとして関わらないようにしている、というものだ。
フリンツフッドを訪れた時とは違い、ローデリックは簡単なシャツとズボンの服装だったが、顔を知られているようで街へ出ると大抵の人間は見知った反応をする。
城下に出ているため、ローデリックが言うには護衛の人間が付かず離れずでついてきているらしい。エレノアが振り返ってみても誰のことかはわからなかった。
夫に指示され、淑女としてローデリックの腕に手を添えて歩いていたエレノアだったが、彼が服飾品の店に入ろうとしているのに気づくと、足を止めた。
「どうした、入りたくないか」
尋ねる形ではあったが、ローデリックのそれは疑問ではなく確認だった。
「こういうお店は苦手です。組み合わせの善し悪しがわかりませんし、特に好みもありません」
「だろうな。こういうのはコツがある、来い」
彼は来いと言うが、彼の腕に手を添えているので意思とは関係なく半ば引きずられている。
渋々ローデリックの後ろについて店に入ると、かすかにバラのような香りがした。
煌煌しいドレスを着た胸像がいくつか立っていて、部屋の壁一面に引き出しがついている。ローデリックが訪問することを伝えていたわけではないようで、奥から出てきた女店主は驚いた顔をしてから恭しく頭を下げた。
襟回りにたっぷりとしたフリルを纏った店主は、孔雀の羽のように大きく開いた睫毛の持ち主だった。目の周りにキラキラとした何かがついている。
「ようこそおいで下さいました。今日はそちらの方に?」
「妻だ、ひとまず採寸からだな」
妻。
女店主が目を丸くして呟いた。
ローデリックが振り返ったので、彼の後ろに隠れるようにしていたエレノアは、店主に見えるよう立ち位置をずらした。
店主の視線が頭からつま先まで降りていき、折り返して頭のてっぺんまで戻るのがわかる。
「奥様の婚礼衣裳を発注いただけなくて残念でしたわ。準備しますのでお待ちくださいましね」
店主の声は低く甘い掠れ声だった。声の感じからすると、エレノアの父と同じくらい、四、五十あたりだろうか。奥に向かって呼びかけた店主と、出てきた三十代くらいの女性が何やら話している。
「怖がられていませんね。もっと締め付けているものかと思っていました」
店主達の様子を眺めながらエレノアがそう言うと、ローデリックが小さく肩をすくめた。
「身内を締め付けても本末転倒だろう。お前、悪気はなくても今のは失礼に当たるぞ。どういう話を聞いている?」
「あなたは悪辣と聞きました。自分の利益を巧妙に他人からむしり取る」
エレノアが正直に答えたので、ローデリックが鼻で笑った。
「俺の役割はダウズウェルを使って確実に国を守ること。だからダウズウェルのために他の暢気な連中に割を食わせるくらいは選択肢にある。問題だというなら、誰かが立場ごと領を取り替えてくれたって良いんだが」
黙って聞いている彼女に辺境伯が向き直る。
「お前自身の印象はどうだ」
問われて、エレノアは彼の腕に添えていた手を放した。少し考えるように目を伏せてから夫の顔を見上げる。
「まだあなたのことをよく知りません」
「印象は知らないからこそ好きに言える。良いから言ってみろ」
どうも不興をかったのでは、とエレノアには思われた。悪辣が単なる属性を示すとしても、本人にとっての陰口に当たる意味合いがあることはどこかでわかっていたはずだ。
そんなつもりはなかった、と理由を説明するべきか。それとも謝罪をするべきか。
選択肢はいくつか浮かんだがどれもうまくできる気はしなかった。
ローデリックが表情を変えずにエレノアを見下ろしている。
怒っているのかもしれないが、彼がそれによってエレノアの扱いを変えるという印象も不思議となかった。
「……最初にお会いしたときは都合の良い妻を漁っていると公言する嫌な人だなと思いました」
ローデリックの目が細くなったのはわかるが、それが何を意味するのかは読み取れない。結局エレノアのとれる選択肢はいつも通り、思った通り、以外にはなかった。
「でも、それ以降悪意を向けられた認識はありません。少なくとも城の中の雰囲気も街の雰囲気も、慣れていませんが良いと思います。……あなたの身内になったのであなたの行動は適切に見えるようになっただけかもしれませんが」
聞いていたローデリックの口の端が片方上がって、何か皮肉か冗談でも言いそうな口の形になったとき、店主の声がした。
「奥様、こちらへ」
夫から視線を外し、エレノアは店主が示した奥の大きな鏡があるあたりへ行くことにする。
フリンツフッドから最低限の日常着は持ってきていたが、また一から服飾品をそろえないといけないのか、と思うと気が重くなる。
昔から世話をしてくれているミシェルを含め、女性陣が着せ替えできる人形か何かだと思っている節があるのも苦手だ。
髪の手入れだけはおとなしく受け入れているが、身なりに凝るのは苦手だ。
エレノアとしては口を開けば台無しになるのだから、あまり手をかけたいと思えなかった。
「――夜会用のドレスを?」
「いや。普段着が足りない。社交の場を意識したものでなくていいが、立場にふさわしいものを適当に……十から十五で」
店主と話すローデリックの言葉に思わず振り返った。
「そんなには必要ありません」
ちら、と視線をエレノアにやったローデリックが少し肩をすくめる。
「お前が必要なくとも、辺境伯婦人には必要だ」
「では、余分はミシェルにあげても?」
「あいつがそれを許すなら好きにしていい」
衣装部屋が空に近いことに腹を立てていたミシェルの意向を、彼が知っているということだ。この状況がミシェルの差し金という可能性すらある。
「なるほど、状況は承知しました。お任せします」
抵抗を諦めたエレノアは店の奥でなすがままにあちこちの長さを測られながら、今朝のポーチドエッグの味を思い出すことに専念した。
卵の黄色はフリンツフッドでもダウズウェルでも同じだ。
採寸の間にどこまで衣装部屋を埋める算段をつけたのか、どのくらい時間がたったのかエレノアにはもはやわからない。
上機嫌の店主に見送られて店を出た。
後日納品されるらしいが、ミシェルの差し金である以上口出しするのは辞めよう、と胸に刻んだ。
***
次に、採寸によりくたくたのエレノアが連れ込まれたのは、書店だった。
ローデリックの買い物はかなり大雑把で、選定者に一任、つまり丸投げが常套手段らしかった。
先ほど店主へのオーダーと同じで、エレノアが好きなものを十冊選べ、と言ったきり、彼は壁に背中を預けて待ちの姿勢になってしまった。
エレノアはしばらく周りの書架を見回して迷っていたが、仕方なくローデリックに尋ねることにする。
「好きなものと言っても用途がありますが」
「お前の部屋に置く、だからお前の好きに選べ。自分でわからないものを選ぶコツは、知見か関心がある者に任せることだ」
自分の私物として、だと言われてエレノアは瞬いた。
さきほど衣類、おそらくは帽子や手袋もついている、を大量購入してもらったばかりである。いくら何でも過剰だとしか思えない。
「確かに本に関心はあります。ですが、そんなに買い与えていただく必要性がありません」
ローデリックはエレノアの顔をじっと眺めていたが、視線を外してから面倒そうに息を吐いた。
「人が生きるのに衣食住、それに余暇は必要なものだ。俺は夫として妻に必要な環境を整える責任がある」
そういうものですか、とだけ抵抗したが、そういうものだ、と返された。
断言されると否定しづらい。
エレノアは書架を巡り、ダウズウェルや周辺地域の民話集を選んだ。
選んだ本を見てローデリックが二冊をもう書庫にある、と書架に戻してしまったので、他の本を選び直して作業が完了した。
夫婦とはこういうものなのか、と首を傾げつつも、支払いを終えたローデリックに連れられて城に戻った頃には夕食の時間になっていた。
買い与えられるばかりでエレノアは何もしていない。
夫人としてダウズウェルのために何かしなくては。




