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鍵

エルフ×探偵×魔法ミステリです。


日常と事件が交差する、連作短編風の物語になります。


気軽に読んでいただけたら嬉しいです。

「記憶の再生」の実験室を出て、私たちは両親の働いていた研究室へ向かった。

研究室は、先ほどの部屋の斜め向かいにあった。こちらもガラスはなく、閉じた扉が一枚あるだけだ。


扉を開けると、机と椅子が整然と並んでいた。

書類が積まれ、筆記具が立てられ、椅子は机の下に収まっている。人がいないだけで、今も仕事が続いているかのような部屋だった。


「エフィの両親の席は、こことここよ」


先生が示したのは、窓際に並んだ二つの机だった。

両親は、いわゆる職場結婚だったらしい。同じ研究室の同僚として出会って、そのまま夫婦になったのだという。


「何か、この部屋について覚えている?」

「何も……ただ、なぜか懐かしい感じがします」


記憶には何も残っていないはずの場所だった。

それなのに、机と椅子の並び方や、窓の位置に見覚えがある気がする。ここに来たことがある、と体の方が言っている。

先生は何も言わず、私が部屋を見回すのを待っていた。


両親の席には、それぞれ写真立てが置かれていた。


「手に取っていいわよ。調べは済んでいるから」


一枚は、川辺で撮ったものだった。父が私を肩車していて、母がその横で笑っている。

もう一枚は家の中らしい。母が私を膝に乗せていて、父が身を屈めて画面に収まっている。

別の日に、別の場所で撮られたものだ。共通しているのは、三人とも笑っていることだった。


私は写真立てを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。

胸の底から色々なものが湧き上がってくる。悲しいとか、悔しいとか、そういう名前のついた感情ではなかった。

いちばん大きかったのは、失ったという実感だった。

自分が何を失ったのかを、私はこの歳になるまで知らなかった。知らなかったから、悲しむこともできなかったのだと思う。

涙は出なかった。喪失感の方が大きすぎて、悲しみがその後ろに隠れてしまっていた。



「……エフィ。落ち着いたところで悪いんだけど」


先生が壁の一点を指した。


「そこの壁に、魔力を流してくれないかしら」

「ごめんなさい、もう大丈夫です。ここに、魔力ですか」


一見するとただの壁だった。よく見ると、わずかな割れ目が綺麗な四角を描いている。同じものが、壁に沿っていくつも並んでいた。

言われた通り、指先から軽く魔力を流してみる。

ガコッ

音とともに、四角の一部が手前へ押し出された。


「やっぱりね。エフィの魔力が鍵だったか」

「どういうことですか」

「個人の金庫よ。魔力が鍵になっていて、最低でも二人の魔力登録が義務づけられているの」


先生は開いた扉を指で押し広げた。


「この金庫はエフィの両親のもの。魔力登録がされているから、今まで誰にも開けられなかったのよ」


最低二人分の登録は、片方が不慮の事故で亡くなったときのための備えなのだという。

登録をした人が同時に失われることまでは、制度を作った側も想定していなかったらしい。


私は、開いた金庫の縁に手をかけたまま考えていた。

ガラス張りに改修するくらいなのだ。やろうと思えば、壁を壊して中身を取り出すこともできたはずだった。事件の解決を最優先するなら、先生がそれをしないとは思えない。

それに先生は、私の魔力で開くことを確信しているような言い方をした。

私が魔力を扱えるようになるまで待っていた、ということもあるだろう。けれどそれだけなら、もっと早くに試す機会はいくらでもあった。


たぶん、私への配慮だ。

先生は犯人に対しては冷たいところがあるけれど、相手の心の置きどころには、いつも回り道をするほど気を配る人だった。


「でも、どうして私の魔力で開くんでしょうか」

「魔力登録は、魔力を流せなくてもできるのよ」


先生は窓の外へ目をやった。


「たぶん事件の当日、念のためにエフィの魔力で開くようにしておいたのね」


そう言われて、薄い記憶が動いた。

あの実験室を出たあと、どこかの部屋に寄った。母に手を引かれて、壁に触るように言われた気がする。

小さすぎて、何のことか分からなかった。意味の分からない出来事は、そのまま定着せずに流れていく。

懐かしいと感じた理由は、それだったのかもしれない。


「そこを調べる権利はエフィだけのものよ。確認してくれるかしら」


金庫の中身は多くなかった。紙の束が、いくつか重ねられているだけだ。


「どうやら、書きかけの論文のようですね──」


一つずつ取り出して確かめていると、束の間から、パサッと一枚の紙が落ちた。

それを拾い上げて読んでみると、書きなぐったような字が並んでいた。


記憶の再生の研究に協力するため、子を連れてきた。

だが聞いていた話と違い、脳に細胞を注入しようとした。

拒否すると、表情も口調も別人のようになり、命の危険を感じた。

誰を信用していいか分からない。

所長が戻るまで、子を児童保護院に預ける。

万が一、私たちに何かあったら、迎えに行ってほしい。


なお、一人だけ冷静な男がいて、記憶再生の研究員ではなかった。


「先生。これ、両親の事件についての書き置きです」

「そう。読んでもいい?」


紙を渡すと、先生は神妙な顔で目を落とした。

私は少しだけ期待していた。私に宛てた言葉が、どこかにあるのではないかと。

けれど、なかった。

字の乱れを見る限り、相当に焦って書いたのだろう。それでも二人は、自分たちがすぐにどうにかなるとは思っていなかったはずだ。だからこれは、別れのための紙ではなかった。

──迎えに行ってほしい。

その一行だけを、私はもう一度読んだ。

自分たちが戻れないかもしれないと考えたとき、二人が最初に書き残したのは、私を迎えに行けと頼む言葉だった。

それで充分だった。


「……ありがと。これはエフィが持っておいて」


先生が紙を差し出した。


「何か分かりましたか」

「大体は、こっちで調べた通りだわ」


先生は椅子の背に手を置いた。


「ご両親は、詳しい内容は伏せたまま、同じ研究室の同僚に所長への言伝を頼んでいたの。その同僚も、二人の様子がおかしいことと、記憶再生の研究員たちが外で妙な振る舞いをしていたことに気づいた。所長が戻ったところで連絡が入って、私も一緒にすぐ向かったわ」


先生はそこで一度、言葉を切った。


「……間に合わなかったけどね」


自分たちの研究に近い研究員がおかしかったのだ。同じ研究室の同僚でさえ、完全には信じきれなかっただろう。

それでも両親は、危険を承知で言伝を託した。そのおかげで、私だけは助かった。


「先生。この紙に、拒否すると表情も口調も別人のようになった、と書いてあります」 「ええ」

「捕まった研究員たちが話せる状態じゃないのは、捕まってからおかしくなったからだと思っていました」


先生が、ゆっくりとこちらを見た。


「でもこれだと、事件のときには、もう」

「そう。壊れたんじゃなくて、壊された後だったってことになるわね」

「この書き置きの最後の『冷静な男』からも、話は聞けなかったんですか」

「ん……」


先生は答えなかった。

話すこと自体に問題があるのか、それともどこまで話すかを選んでいるのか。しばらく間が空いた。


「事件の後、別の研究室に所属していた研究員が一人、姿を消しているわ」


先生は窓の方を向いたまま言った。


「研究所には魔力登録のある人間しか入れない。だからその『冷静な男』は、消えた研究員だと思う」


身元は確かな人物だったという。

優秀だったにもかかわらず、成果はすべて他人の手柄にして、自分は陰に引っ込んでいた。目立たないことを選び続けた男。

最初から、記憶の再生の研究に入り込むことだけが目的だったのだろうと見られている。

先生はそれ以上、その男について語らなかった。

代わりに、こう言った。

「犯人は、絶対に捕まえる」

短い言葉だった。


私の両親を殺した男。

そしておそらく、先生が探偵を始めることになった男。

二百年追って、まだ捕まっていない。

私はもう一度、写真立てを見た。川辺で笑っている三人を見て、それから机の上に戻した。

先生の背中に向かって、私は言った。


「先生。私にもできることがあれば、何でも言ってください」


先生はしばらく黙っていた。


「……そうね。まずは、その紙を失くさないことからかしら」


振り返った顔は、いつもの先生のものだった。

けれど窓の外を見ていた数秒の間だけは、私の知らない誰かの顔をしていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました。


次回更新は9月24日(木) 20:00更新を予定しています。


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