器と、七十年
エルフ×探偵×魔法ミステリです。
日常と事件が交差する、連作短編風の物語になります。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
王都の中央図書館の地下、閲覧許可が必要な区画に、私たちはいた。
しばらくここに人が入っていないのか、整然と本は並んでいるものの、所々埃っぽい匂いがする。
その中で、私たちが向かったのは二百年前の魔法師団の研究記録が保管されている棚だった。先生は端から順に背表紙をなぞり、ときどき一冊を抜いては、床に座り込んで読んだ。私も隣で、指示された年代の綴じ込みを開いていく。
「先生。何を探しているんですか」
「わたしが、見落としたもの」
先生は顔を上げずに答えた。
「二百年前、わたしはあの人の研究をずっと隣で見てた。見てたつもりだった。──でも、見せてもらっていたものだけを見てたのかもしれない」
ページをめくる音が、しばらく続いた。
やがて先生の手が止まった。私が覗き込むと、それは研究申請の記録だった。魔法師団が国に提出する、正式な書式のもの。
申請者の欄に、名前があった。
オルディス・ヴェルナー。
私は、その名を初めて見た。
「この人が、先生の同僚ですか」
「オルドよ」
先生は言った。
「わたしは、そう呼んでた」
申請の内容は、細胞の保存と再生に関する基礎研究、とだけ書かれていた。錬金術の一分野として、当時はさほど珍しいものでもなかったのだろう。承認印も、すんなりと押されている。
けれど、その次の綴じ込みから先が、なかった。
「継続申請が出ていません」
私は言った。
「一度きりで途切れています」
「そうね。──でも、研究は続いてた」
先生は、その一枚をじっと見ていた。
「あの人はね、エフィ。人族なの」
「はい」
「わたしと出会ったとき、三十いくつだったかしら。優秀だった。本当に優秀だったのよ。話していて、あんなに楽しい相手はそういなかった」
先生の指が、申請者の欄をなぞった。
「あるとき言われたの。『君はいいな』って。『何を始めても、終わりまで見届けられる』って」
私は、何と返していいか分からなかった。
「わたしは笑ったのよ。当たり前でしょ、エルフだもの、って。……それで終わりにした」
その声には、悔いも自責も滲んでいなかった。ただ、事実だけを置いていくような話し方だった。それがかえって、聞いていて苦しかった。
「あの人が欲しかったのは、権力でも名声でもないの。時間だけ。研究を最後まで見届けるための時間。それだけだった」
先生は、記録を閉じた。
「……それだけのために、人を使ったのよ」
*
ヴァルド・ケインの記録を、私たちはもう一度、最初から追った。
彼は魔術を用いた強盗で捕まっていた。風の魔術の使い手で、犯行時に被害者と揉み合いになり、自分の放った魔術で脇腹を切っている。左脇腹。長さ十二センチ。
拘留中の記録には、彼を訪ねた者の名が残っていた。面会記録は、当時から几帳面に取られている。
オルディス・ヴェルナー。研究協力の打診、との記載が三度。
そして四度目の面会の翌週に、ヴァルドは脱走している。
「手引きしたのね」
先生は淡々と言った。
「牢から出してやる代わりに、研究に協力しろとでも言ったんでしょう。ヴァルドは乗った。……匿ってもらえると思ったのよ」
「実際は」
「実験に使われた」
先生は、捜索打ち切りの通達を私に見せた。二週間で捜索が終わった、あの一枚。決裁印の主は、当時の魔法師団の上位者だった。オルディスの直属の上官にあたる人物だという。
「圧力があったのか、それとも便宜を図られたのか。今となっては分からない。でも、捜す必要がないと知っていた人間がいたのは確かね」
「捜す必要がない、というのは」
「もう死んでたから」
私は、口をつぐんだ。
「脱走なんてしてないの。連れ出されて、そのまま実験に使われて、死んだ。……治安院の記録には、二百年間ずっと『脱走中』と書かれたままだった。とっくに死んでる人間が」
*
残りは、細い糸をたぐるような作業だった。
オルディスがどこで研究を続けたのか。誰が資金を出したのか。何人が使われたのか。先生は古い名簿と会計記録を突き合わせ、王都の外れにあった一軒の施設に行き着いた。
名目上は、産科の診療所だった。
「産科?」
私は思わず声を上げた。
「身寄りのない妊婦を受け入れる施設ね。当時はそういう慈善施設が、いくつかあったの」
先生の声は、いつになく硬かった。
「そこで何をしていたか、記録には残ってない。残すわけがないもの」
「先生。それは、つまり」
「……おそらく……」
先生は、それきり口を閉じた。
*
施設の名簿は、廃止のときに大半が焼かれていた。それでも先生は、残った断片を根気よく突き合わせていった。
やがて、一枚の紙片が出てきた。
施設の運営費の請求控えだった。裏面に、走り書きのような入所者の一覧が残っている。ほとんどの名は判読できなかったが、その中に一つ、読み取れるものがあった。
ロウェン。
私は、その四文字を何度も見返した。
「ギルドさんの……」
「お祖母さんね」
先生は静かに言った。
「マーサさんに聞いたわ。ギルドさんの家は、代々あの村にいたわけじゃない。お祖母さんの代に、王都のほうから移ってきたそうよ。身寄りのない人で、赤ん坊を一人抱えて村に来たと」
「その赤ん坊が」
「ギルドさんのお父さん」
私は、指先が冷たくなるのを感じた。
「……先生。ということは」
「ええ」
先生は、その紙片を丁寧に畳んだ。
「二百年前に実験に使われたのは、ギルドさんじゃない。ギルドさんのお祖母さん」
*
「オルドが欲しかったのは、記憶だったのよ」
図書館の階段を上りながら、先生は言った。
「体をいくら作り直しても、中身がなければ意味がない。あの人が知りたかったのは、記憶が別の肉体に移るかどうか。それだけ」
「だから、ヴァルド・ケインを」
「脳の細胞を使ったんでしょうね。それを妊婦に移して、赤ん坊に、ヴァルドの記憶を持って生まれてこさせようとした」
先生の足取りは、いつもより重かった。
「ヴァルドは三人目だったわ。名簿を見る限り、その前に二人いる」
私は、何も言えなかった。
「そして生まれてきた子には、記憶がなかった。ヴァルド・ケインとして目覚めることはなかった。──ただの、赤ん坊だった」
「それで」
「捨てた」
先生は、そこで立ち止まった。
「失敗だと判断して、母親ごと放り出したの。何の関心もなくなったから。……その母子が、行き着いた先が、あの村だった」
*
事務所に戻ってから、私はどうしても分からないことを尋ねた。
「記憶が移らなかったのなら、なぜギルドさんに、あんなものが現れたんでしょうか。魔力も、傷も、癖も。お父さんの代を飛び越えて」
「分からない」
先生は、あっさりと言った。
「本当に分からないのよ。血が繋がっていれば、何かが受け継がれることはある。それが一代飛ぶこともある。……でも、傷まで受け継がれるなんて、わたしは聞いたことがない」
先生は、天井を見上げた。
「オルドも、たぶん知らない。あの人は、生まれた子に記憶がないと分かった時点で、それ以上見なかったから。その子の体に何が残っていたかも、孫にどう出るかも、確かめてない。──確かめる気がなかったのよ」
「見ていれば、分かったかもしれないのに」
「そうね」
先生は薄く笑った。
「あの人が知りたかったのは、成功したかどうかだけ。それ以外のことは、全部どうでもよかったの」
*
治安院に、先生は一枚の報告書を出した。
その内容を、私はよく覚えている。技術的な、ひどく素っ気ない文書だった。
ギルド・ロウェンの魔力は、後天的に獲得されたものではなく、出生時から保持されていたものである。魔力の性質には、通常の個体発生では生じ得ない特徴が認められる。よって、ヴァルド・ケインとの照合結果は、同一人物であることを意味しない。魔力登録制度は、生得の魔力を識別する制度であり、この事例はその前提の外にある。
制度は誤っていない。制度が想定していない事例が存在した。
そういう書き方だった。
ボルツは、それを三度読み返した。
「……制度に、傷はつかんということか」
「つかないわ」
先生は言った。
「あなたの言うとおり、魔力照合は正確だった。ただ、照合が正確であることと、結論が正しいことは、別だっただけ」
ボルツは、しばらく黙っていた。それから、報告書を机に置いた。
「なぜ、そう書いた」
「事実だからよ」
「そうではない」
ボルツは言った。
「貴様は、もっと書けたはずだ。この老人がなぜそんな魔力を持って生まれたのか。誰がそうしたのか。書けば、貴様の手柄はもっと大きくなった」
先生は答えなかった。
「……いや」
ボルツは首を振った。
「いい。聞かなかったことにする」
彼は立ち上がり、部下に釈放の手続きを指示した。ドアの前で一度だけ立ち止まり、こちらを見ずに言った。
「あの老人は、七十二年、何もしていない」
「ええ」
「ならば、それでいい」
この人のことを、私は少しだけ見直した。
*
真相は、そこから先へは進まなかった。
先生は、ギルドの出生に関する記録の一切を、王都の上層部に直接引き渡した。私は同席を許されなかったので、何が話されたのかを知らない。
ただ、事務所に戻ってきた先生は、ひどく疲れた顔をしていた。
「封をされたわ」
ソファに沈み込みながら、先生は言った。
「二百年前の魔法師団が、犯罪者を実験に使って殺した。それを上が握り潰した。──表に出せる話じゃないでしょう」
「でも、それでは」
「うん」
「ギルドさんは、何も知らないままです」
「そうね」
先生は、天井を見上げていた。
「エフィ。あなたなら、どうする?」
「……え」
「あの人に、教えてあげる? あなたのおばあさんは、身寄りがなくて施設に頼るしかなかった人で、そこで実験に使われたんですよ、って。あなたのお父さんは、二百年前に殺された男の記憶を入れるための器として産まされたんですよ、って」
私は、答えられなかった。
「知る権利はあるでしょうね」
先生は言った。
「でも、知って、あの人の七十二年がどうなる。マーサさんとの七十年が、どうなるの」
答えは、出なかった。今も出ていない。
「わたしは選んだの。──あの人には、無実だったことだけを渡す。それ以外は、わたしが持っておく」
先生は、そこでようやくこちらを見た。
「間違ってるかもしれない。でも、間違えるなら、わたしが間違えたい」
*
ギルドが釈放されたのは、その三日後だった。
治安院の門の前で、マーサが待っていた。ずいぶん早くから来ていたらしく、門番に何度も時間を尋ねていたと聞いた。
門が開いて、ギルドが出てきた。
二人は、駆け寄りもしなかった。抱き合いもしなかった。
マーサは、ただ「おかえりなさい」と言った。ギルドは「うん」と答えた。それだけだった。
七十年連れ添うと、こうなるのだろうか。私には、まだ想像もつかない。
けれどマーサが、ギルドの節くれ立った手を取って、両手で包んだとき——その手が、細かく震えているのが見えた。ギルドは何も言わず、その震えが止まるまで、じっとしていた。
「先生方」
ギルドが、こちらに向き直った。深く、深く頭を下げた。
「ありがとうございました。何と言っていいか……」
「仕事だもの」
先生は軽く言った。
「あの、それで」
ギルドは頭を上げ、困ったように尋ねた。
「わしの魔力が、どうしてその人と同じだったのか、というのは」
私は、息を詰めた。
「制度の想定外だったの」
先生は、まっすぐに答えた。
「珍しいことが、起きただけ。とても珍しいことだけど、あなたのせいじゃない。あなたは何もしていないし、何とも関係ない」
「はあ……」
「もう一度言うわ。あなたは、何も悪くない」
ギルドは、ぽかんとしていた。それから、目の縁を赤くした。
「……そうですか」
彼は、そればかりを繰り返した。
「そうですか。そうですか」
マーサが、その背中をさすっていた。
*
二人が帰っていく後ろ姿を、私たちは門の前で見送った。
夕暮れの道を、老夫婦がゆっくりと歩いていく。手は繋いでいなかった。並んで歩く速さだけが、長年連れ添った人のそれだった。
「先生」
「なに」
「ギルドさんは、器だったんでしょうか」
我ながら、ひどい言い方だと思った。それでも聞かずにいられなかった。
先生は、しばらく答えなかった。
「器として作られたのは、あの人じゃない。あの人のお父さんよ」
やがて、そう言った。
「そのお父さんだって、結局は器になれなかった。何も入らなかったんだから。……ただの人として生まれて、ただの人として生きて、ただの人として死んだ。ギルドさんは、その人の子供」
先生は、遠ざかる二人を見ていた。
「魔力も、傷も、癖も、寝言も。全部あの人が選んだものじゃない。持たされて生まれてきただけ。──でもね、エフィ」
風が吹いて、道の砂が舞った。
「マーサさんと出会って、七十年一緒にいたのは、あの人よ。畑を耕したのも、字を覚えたのも、あの人。名前を書くとき、あの手が動いたのは、誰かの癖のせいかもしれない。でも、何を書くかを決めたのは、あの人だった」
「器に何を入れるかは、器を作った人間には決められないの。オルドは、それが分かってなかった」
先生の声は、静かだった。
「あの人は、記憶が移らなかったから失敗だと思った。それで全部終わりにした。──でも、そこから百年以上かけて、二人の人間が生まれて、生きて、七十年連れ添う夫婦になったのよ。あの人が捨てたところから」
私は、言葉を失った。
「失敗だったのは、実験のほうじゃないわ」
先生は言った。
「あの人は、器を作れば中身もついてくると思ってた。中身は、生きた時間でしか作れないのに。──百年以上かけてそこに何が生まれたか、あの人は最初から見ようともしなかった」
二人の姿が、道の角を曲がって見えなくなった。
「時間が足りない、って言ってた人がね」
先生の声が、少しだけ揺れた。
「時間だけが作れるものを、いちばん軽く見てたの」
*
事務所に戻ると、マムちゃんが不機嫌そうに鳴いた。餌の時間を過ぎていた。
私が果物を切っている間、先生は机に向かって、何かを書いていた。覗き込むと、それは報告書ではなく、ただの走り書きのようだった。
オルディス・ヴェルナー。
その名前の下に、いくつかの年代と、地名らしきものが並んでいた。
「先生」
「うん」
「その人は、まだ生きているんでしょうか」
先生は、ペンを止めた。
「人族の寿命は、百年もないわ」
「では」
「そうね。普通なら、とっくに死んでる」
先生は、そこで言葉を切った。
「普通なら、ね」
私の背筋が、冷たくなった。
先生は走り書きを畳み、引き出しにしまって、鍵をかけた。それから伸びをして、いつもの調子で言った。
「エフィ。カレー」
「……はい?」
「この件が終わったら奢るって言ったでしょ。終わったわよ」
「私が奢る話でしたよね」
「そうだったかしら」
先生はソファから立ち上がり、上着を掴んだ。その足取りは軽かった。軽くしているのだと、私には分かった。
千年を生きた人が、それでも背負いきれなかったものを、今日ひとつ引き出しにしまったのだと。
「先生」
「なに」
「ドロッとしたやつ、ですよね」
先生は、少し驚いた顔をして、それから笑った。
「よく覚えてたわね」
「秘書ですから」
事務所を出ると、外はもう暗くなっていた。
通りには、街灯がひとつずつ灯り始めている。誰かが魔力を込め、誰かが灯している明かりだった。
その下を、私たちは歩いていった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回更新は8月6日(木) 20:00更新を予定しています。
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