二百年前の身体所見
エルフ×探偵×魔法ミステリです。
日常と事件が交差する、連作短編風の物語になります。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
治安院の建物は、朝の光の中でも薄暗かった。
石造りの廊下は湿気を含んで冷たく、歩くたびに靴音が跳ね返る。私は書類の束を抱えて、先生の半歩後ろを歩いていた。
「先生、本当に会わせてもらえるんでしょうか」
「無理でしょうね」
あっさりと言われて、私は足を止めそうになった。
「無理、ですか」
「正面から頼めばね」
先生は前を向いたまま言った。
「だから、正面からは頼まないの」
受付で来院を告げると、待つほどもなく、廊下の奥から重い靴音が近づいてきた。
現れたのは、小太りの男だった。詰襟の制服が腹のあたりで窮屈そうに張っている。現場担当の管理官、ボルツ。この付近で事件が起きれば必ず顔を出し、そして必ず先生と衝突する男だ。
私たちを認めた瞬間、その顔が露骨に歪んだ。
「……またお前たちか」
開口一番がそれだった。先月の屋敷の一件——使用人の女性を現行犯だと決めつけ、先生に覆された事件——のことを、この人はまだ引きずっているらしい。
「ご機嫌よう、ボルツ管理官」
先生は平然と笑った。挑発ではなく、本当に何とも思っていない顔だった。それがこの人を最も苛立たせるということを、先生は分かってやっている節がある。
「用件は」
「ギルド・ロウェンに会わせてほしいの」
ボルツの眉が跳ね上がった。
「ロウェン……ああ、あの偽名の男か」
「偽名?」
私が思わず口を挟むと、ボルツはじろりとこちらを見た。
「魔力が二百年前の脱走犯と一致した。ならばあの男はヴァルド・ケインだ。ロウェンなどという名は、七十年かけて作り上げた偽装に過ぎん」
「七十年」
先生が繰り返した。
「ずいぶん気の長い偽装ね」
「エルフには七十年など短かろうよ」
嫌味を投げつけてから、ボルツは腕を組んだ。
「とにかく、会わせるわけにはいかん。魔力照合は完了している。手続きは正当だ。お前たちが口を挟む余地はない」
「魔力照合は絶対、と?」
「当たり前だ」
ボルツは胸を張った。そこには、彼なりの誇りがあった。
「魔力登録制度は二百年前に作られた。魔術を修めた者が犯罪に走ったとき、必ず辿れるようにするためにな。この二百年、制度が誤ったことは一度もない。一度もだ。魔力は指紋と同じ、いや、それ以上に個人に固有のもの。同じ魔力を持つ人間が二人いるなど、ありえん」
その言い分は、正しかった。私が学院で習ったことと、一言一句違わない。
「制度を作ったのが誰か、忘れたわけじゃないでしょうね」
先生の声は静かだった。
ボルツの顔が、わずかに強張る。
「……知っている」
魔力登録制度を国に提案し、制定させたのは、他ならぬ先生だった。二百年前、ある事件に巻き込まれた先生が、犯人の魔力から個人を特定するために作らせた仕組みと聞いている。今この国のすべての魔術犯罪捜査は、その上に成り立っている。
「だからこそだ」
ボルツは吐き捨てるように言った。
「お前が作った制度を、お前自身が疑うというのか」
「疑っているのは制度じゃない」
先生は首を振った。
「結論のほうよ」
そして、一歩前に出た。
「ボルツ管理官。あなたの理屈でいきましょう。魔力照合は絶対。誤りはありえない。──ならば、あの照合結果も絶対ということになるわね」
「当然だ」
「ヴァルド・ケインが脱走したのは二百年前」
「そうだ」
「ギルド・ロウェンは七十二歳」
ボルツの口が、開いたまま止まった。
「つまりあなたは、二百年前に脱走した犯人が、その百三十年後に生まれた、と報告書に書くわけね」
廊下の空気が、しんと冷えた。
「……年齢を偽っているのだろう」
「戸籍は? 村の記録は? 幼馴染の証言は? 七十年連れ添った奥さんは?」
先生は畳みかけた。
「全部偽装だと書くの? それとも、エルフでもない人間が二百年生きたと書くの? どちらでもいいけど、その報告書を上に出すのはあなたよ」
ボルツの額に、汗が滲んでいた。
この人は、無能ではない。決めつけが早く、圧が強く、そして手柄に貪欲だが、二百年間誤らなかった制度を信じているという一点においては、実直ですらある。だからこそ、その信頼が自分の首を絞める形になったとき、逃げ道がなかった。
「……何が言いたい」
「照合が正しいなら、結論のほうが間違ってる。結論が正しいなら、照合のほうが間違ってる。どっちにしても、このまま送検したら、二百年間無敗だった制度に、初めて傷がつくわ」
先生は、そこで初めて声を和らげた。
「三十分でいい。会わせて」
長い沈黙のあと、ボルツは背を向けた。
「……三十分だ。監視はつける」
歩き出しながら、彼は誰にともなく唸った。
「言っておくが、貴様のためではない。制度のためだ」
「ええ」
先生は素直に頷いた。
「それでいいわ」
*
面会室は、鉄格子の向こうに小さな木の椅子がひとつあるだけの部屋だった。
連れてこられた老人を見て、私は少し面食らった。
もっと影のある人物を想像していたのかもしれない。けれどそこにいたのは、日に焼けた顔にいくつもの皺を刻んだ、どこにでもいる農夫だった。背は丸く、手は節くれ立って太い。長く土に触れてきた手だった。
「ギルド・ロウェンさんですね」
私が声をかけると、老人はおずおずと頷いた。
「はあ……。あの、うちのが、何かご迷惑を」
「奥さんから依頼を受けたの」
先生が言った。
「マーサさんから」
その名前を聞いた瞬間、ギルドさんの顔が、くしゃりと崩れた。
「……そうですか。あいつが。……そうですか」
何度も同じ言葉を繰り返し、彼は膝の上で手を握りしめた。
「あの、先生方。わしは……」
言いかけて、言葉が続かなかった。
「わしは、何もしとらんつもりです。でも」
その先を、彼はとても言いにくそうにした。
「でも、お役人様が、魔力っちゅうもんは絶対だと言うんです。指紋みたいなもんで、間違えることはないと。……そうすると、証拠がそう言うとるなら、わしのほうが間違っとるのかもしれん」
私は、思わず息を呑んだ。
「自分の記憶より、証拠のほうが正しいと?」
「わしは学がありませんから」
ギルドは力なく笑った。
「難しいことは分からんのです。でも、偉い人たちがみんなそう言うなら、わしが知らんうちに、何かとんでもないことをしたんじゃなかろうかと。……夜になると、そんな気がしてくるんです」
牢の中で、この人は七十二年生きてきた自分自身を疑い始めていた。それがどれほど恐ろしいことか、私には想像することしかできない。
「ギルドさん」
先生の声は、驚くほど優しかった。
「あなたが自分を疑うのは、あとにして。今は、わたしが疑うから」
ギルドが、ゆっくりと顔を上げた。
「そのかわり、いくつか調べさせてもらうわ。嫌なことも聞くかもしれない」
「……はい」
「まず、名前を書いてもらえる?」
*
紙とペンが差し入れられた。
ギルドは、ペンを握るのにも少し苦労していた。指が太く、関節が固まっているのだろう。それでも彼は、慎重に、一文字ずつ自分の名前を書いた。
ギルド・ロウェン。
文字は決して上手くない。線は震え、大きさも揃っていない。けれど一箇所だけ、妙に堂に入った箇所があった。
「ド」の最後の一画。
跳ねるでもなく、止めるでもなく、くるりと内側に巻き込むように収めてある。他の文字が拙いぶん、そこだけが異様に手慣れて見えた。
「これ、いつからこう書いてるんですか?」
「はあ、若い頃からです。マーサに笑われましてな。村じゃ誰もこんな書き方はせんと」
「誰かに教わったことは?」
「いいや。字はほとんど独学ですわ。名前だけ書ければ十分でしたから」
先生は頷いて、私に目配せをした。私は抱えていた書類の束から、一枚を取り出す。
治安院の資料室から借り出した、二百年前の記録だった。
拘留時の署名。ヴァルド・ケイン。
私は、二枚の紙を並べた。
筆跡は、まるで違う。ヴァルド・ケインの字は流麗で、明らかに教育を受けた者の手だった。ギルドの字は、たどたどしい農夫の字だ。
けれど。
「ド」の字だけが、同じだった。
最後の一画が、同じ角度で、同じ深さで、内側に巻き込まれている。癖というより、指の動きそのものが同一だとしか思えない一致だった。
*
「次は、体を診せてもらうわ」
治安院付きの医務官が呼ばれた。老齢の、無口な男だった。拘留者の健康状態を診るのが仕事だという。彼は面倒くさそうにやってきたが、先生が広げた資料を見た途端、表情を改めた。
「……二百年前の身体所見記録ですな。よく残っていた」
「保存が良かったの」
先生が言った。
「拘留者の身体的特徴は、脱走時の手配のために詳細に取る決まりだった。当時わたしが、そう提案したから」
記録には、図まで添えられていた。人体を正面から描いた略図に、傷跡や痣の位置が細かく記入されている。
「ヴァルド・ケイン。左脇腹に線状の瘢痕あり。長さおよそ十二センチ。臍の高さより指二本ぶん上、正中線より左へ手のひら一枚ぶん。走行は斜め上外方。──断面は薄く、切創に類するが、刃物特有の起点・終点の深度差なし。風の魔術による裂傷と推定される」
医務官が読み上げると、ギルドは何か心当たりがあるのか、ギョッとしたような顔をした。
「ギルドさん」
先生が言った。
「服を上げてもらえる?」
ギルドは戸惑いながらも、言われたとおりにシャツをまくった。
そこに、傷があった。
左脇腹に、細く長い線が走っている。古い傷で、周囲の皮膚と同じように日に焼け、皺に紛れかけていた。
医務官が、無言で近づいた。定規を当て、記録の図と見比べ、また定規を当てる。何度か繰り返してから、彼は手を止めた。
「……位置、完全に一致」
声が、少しかすれていた。
「長さ、十二センチ。走行、斜め上外方。瘢痕の形状も──これは刃物によるものではありませんな。縁が均一で、深さも一定だ。風の魔術で切られた傷が治った跡と、寸分違いません」
「ギルドさん」
先生が静かに聞いた。
「この傷、どうしたの?」
「それが……分からんのです」
ギルドは、自分の脇腹を見下ろした。
「気がついたときには、もうありました。物心ついた時分にはもう」
「若い頃に鎌で切った、と奥さんには言っていたそうだけど」
「ああ……そう言ったかもしれません。いつも聞かれるもんで、そのうち適当に答えるようになってしもうて。ほんとは、覚えとらんのです」
彼は、困ったように笑った。
「母から聞いた話じゃ、生まれたときからあったそうです」
私は、耳を疑った。
「生まれたとき、から?」
「へえ。難産だったそうで、生まれてきたときには、もうこの傷があったと。うちの婆さんも、同じことを言うとりました」
医務官が、先生を見た。先生は何も言わなかった。
二百年前の男が風の魔術で負った傷と、寸分違わぬ位置に、寸分違わぬ形の傷を持って、この老人は生まれてきた。
説明のつく言葉が、私の中に一つもなかった。
「あの、先生方」
ギルドさんが、シャツを直しながら遠慮がちに口を開いた。
「わしのような者を、どうしてそこまで調べてくださるんですか。……マーサが、無理を言ったんでしょう」
「無理は言われてないわ」
先生が言った。
「依頼を受けただけ」
「そうですか。……あいつは、昔から言い出したら聞かん女でしてな」
ギルドさんは、少し笑った。牢の中で初めて見せた、自然な表情だった。
「うちは、村じゃ新しいほうでしてな。婆さんの代に、王都のほうから流れてきたそうで。マーサの家は昔からある家ですから、最初は釣り合わんと言われましたわ」
「反対されたの?」
「そりゃあもう。……それでも、あいつが折れんかったんです。七十年前ですわ」
彼は、自分の手のひらを見下ろした。土仕事で厚くなった、節くれ立った手だった。
「わしには、それくらいしかありません。畑と、あいつと。あとは何も」
その言い方があまりに静かで、私は胸が詰まった。
この人は今、自分が七十二年かけて積み上げてきたものを、丸ごと疑われている。それでも、恨み言ひとつ言わない。
*
最後に、寝言のことを尋ねた。
「ああ、あれですか」
ギルドは恥ずかしそうに頭を掻いた。
「マーサによく言われます。同じことばっかり言うと」
「何て?」
「それが、わしにも分からんのです。自分じゃ聞けませんからな」
マーサの証言では、こうだった。──ここではない。ここではない。
先生は、私に目で合図を送った。私は、もう一枚の資料を取り出す。
二百年前の拘留記録。看守が日々の様子を記した、日誌のような書類だった。その一節に、こうあった。
『当該者、就寝中に譫言を発すること多し。文言は概ね同一。「ここではない」と繰り返す』
私は、その行を指でなぞった。インクは褪せていたが、文字ははっきりと読めた。
ギルドは、私たちのやり取りを不思議そうに見ていた。彼には、自分が何を突きつけられているのか、まだ分かっていないのだろう。
それが、せめてもの救いのように思えた。
*
面会を終えたあと、私はもう一度、治安院の資料室に寄った。
ヴァルド・ケインに関する記録を、最初から順に追い直すためだった。逮捕、取り調べ、拘留、身体所見、看守日誌。どれも二百年前のものとは思えないほど丁寧に綴じられている。
けれど、脱走の一件から先が、妙に薄かった。
脱走当日の報告書が一枚。翌日の捜索指示が一枚。その二週間後に、捜索の打ち切りを通達する書面が一枚。それだけだった。
私は、思わず手を止めた。
これほどの大事のはずなのに、捜索の経過報告がない。目撃情報の記録もない。関係者への聴取も、追跡の足取りも、何ひとつ残っていない。まるで、探す前から探すのをやめていたような綴じ方だった。
「先生」
資料室の入口で待っていた先生に、私は書面を差し出した。
「脱走のあとの記録が、これだけしかありません。捜索が二週間で打ち切られています」
先生は、その三枚をゆっくりと繰った。表情は変わらなかった。ただ、最後の一枚——打ち切り通達の下部に押された決裁印を、しばらく見つめていた。
「……そう」
それだけ言って、先生は書面を私に返した。
「先生。二週間というのは、短いのでしょうか」
「短いわね」
先生は言った。
「脱走犯の捜索が二週間で終わるなんて、聞いたことがない。当時のわたしなら、絶対に承認しなかった」
「では、なぜ」
「わたしが知らないところで、誰かが承認したのよ」
先生の声には、何の感情もこもっていなかった。それが、かえって不穏だった。
*
資料室を出て、私たちは廊下に戻った。
ボルツが待っていた。腕を組み、壁にもたれている。
「どうだった。何か掴めたか」
その声には、先ほどまでの敵意がわずかに薄れていた。この人も、内心では引っかかっているのだろう。
「掴めたわ」
先生は言った。
「掴みすぎたくらいに」
「……というと」
「魔力が一致する。筆癖が一致する。傷の位置と形が、二百年前の記録と寸分違わない。寝言まで同じ」
先生は、指を折りながら数え上げた。
「でも、本人には何の自覚もない。演技じゃないわ。あの人は本当に、何も知らない」
「では、どういうことになる」
「同一人物ではない」
先生は断言した。
「あれは、ヴァルド・ケインじゃない。──でも、同じ何かを共有してる」
ボルツが眉をひそめた。
「共有、だと」
「魔力も、癖も、傷も。人が生まれ持つものが、まるごと二百年前から運ばれてきてる。運んだのは本人じゃない。本人は器だっただけ」
先生の声が、そこで一度途切れた。
私は、その横顔を見た。
先生の目は、ボルツを見ていなかった。私を見ているわけでもない。廊下の先の、何もない空間を見ていた。千年を生きた人が、ずっと昔のどこかを見るときの目だった。
「こんな現象、わたしは一度しか知らない」
その一言が、思いのほか静かに落ちた。
「一度?」
ボルツが聞き返す。
「どこでだ」
先生は答えなかった。
「先生」
私は思わず口を開いた。
「一度、というのは——」
「……行きましょう」
先生は踵を返した。
その背中に、私は何も言えなかった。ただ、先生の指が、無意識のように親指の付け根を押さえているのに気づいた。この人が何かを堪えているときの癖だと、私は最近になって知ったばかりだった。
*
外に出ると、日はもう高かった。
治安院の門を抜けたところで、先生は立ち止まった。空を見上げ、しばらくそうしていた。
「エフィ」
「はい」
「二百年前ね」
先生は、空を見たまま言った。
「わたしには、同僚がいたの。魔法師団の研究部門にいて、腕は良かった。話も合った。……よく議論したわ。何日も、何週間も、飽きもせずに」
私は、黙って聞いていた。先生が自分から昔の話をするのは、めったにないことだった。
「あの人、いつも言ってた。時間が足りない、って」
風が吹いて、先生の金髪が揺れた。
「わたしにはね、その言葉の意味が、本当のところ分かってなかったのよ。当時は」
それきり、先生は口を閉じた。
名前は、出てこなかった。
私は聞かなかった。聞いてはいけない気がした。ただ、その人が今どこにいるのか、なぜ先生が「いた」と過去形で語ったのか、そして先ほどの「一度しか知らない」と、この話がどう繋がるのか。
訊きたいことは山ほどあったのに、ひとつも言葉にならなかった。
「お腹すいた」
突然、先生が言った。
「……先生」
「ドロッとしたカレー。昔からのカレーが食べたいわ」
こちらを振り返った先生は、いつもの軽い調子に戻っていた。戻したのだと、私には分かった。
「奢ってくださるんですか」
「この件が終わったらね」
そう言って歩き出す背中を、私は追いかけた。
風が、少し冷たかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回更新は8月4日(火) 20:00更新を予定しています。
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