灯を継ぐ者
エルフ×探偵×魔法ミステリです。
日常と事件が交差する、連作短編風の物語になります。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
老人の名は、ようやくわかった。
治安院の古い記録をたどり──先生が顔を出すと露骨に嫌がられたが、それでも記録は引き出せた──通り道の家々を丹念に訪ね、断片をつなぎ合わせていった結果だった。
名を、オルトといった。
かつては腕利きの魔道具技師だったという。ただし、店を構えて名を上げるでもなく、工房に属して財を成すでもなく、ただ市井を歩いては、壊れた魔道具を無償で直して回る、風変わりな男だったらしい。頼まれれば直し、頼まれなくても直し、礼を言われる前に立ち去る。だから彼に助けられた者は多くいたが、彼の名を知る者はほとんどいなかった。
「数年前に、大きな病をしたそうです」
私は集めた話を先生に伝えた。
「それをきっかけに、記憶が少しずつ抜け落ちていった、と。身寄りもなく、今は一人で暮らしていて……もう、自分の名前も、たぶん、わからない」
先生は、静かに聞いていた。
「でも、道だけは覚えてる」
先生が言った。
「頭が忘れたあとも、体が、あの人の生き方を覚えてた」
*
私たちは、ひとつの試みをすることにした。
オルトが回る道筋──街灯、井戸、祠、軒下。その一つひとつで彼に助けられた人々を、先生が訪ねて回った。あなたを助けたのは、あの老人かもしれない、と。
最初、人々は半信半疑だった。顔もろくに覚えていない、名も知らぬ相手のことだ。けれど、通り道を地図の上に描き出し、それぞれの「助けられた覚え」を重ねていくと──点と点が、一本の線でつながった。枯れた井戸を直した魔法使い。消えた街灯を灯した誰か。祠の壊れた魔道具灯を、いつのまにか点し直していた手。橋の欄干の照明を、夜ごと確かめていた影。
すべて、同じ道の上にあった。すべて、オルトの回る道の上に。
「本当に……あのおじいさんが」
仕立て屋の女が、口元を押さえた。井戸の老婆は、濡れた目元を前掛けで拭った。人々は、自分がずっと昔に受け取っていた、名も知らぬ親切の正体を、今になって知った。
「あの人、そんなに前から……ずっと……」
誰かが呟いた。誰にともなく。
*
その日の夕暮れ、オルトは、いつものように道を回っていた。
街灯に手を当て、路地の井戸を確かめ、祠のそばで立ち止まる。うつろな目で、決められた道を、足の記憶だけを頼りに。
その道の先々に、人が立っていた。
井戸の老婆がいた。仕立て屋の女がいた。乾物屋の女将がいた。橋のたもとの家の者たちがいた。かつてオルトに、名も知らぬまま助けられた人々が、彼の通り道の一つひとつに立って、待っていた。
オルトが、井戸のそばで足を止める。老婆が、そっと歩み寄った。
「あんたが、直してくれたんだね」
老婆は言った。
「うちの井戸。……ずっと昔。名前も聞かせてくれないまま、行っちまって」
オルトは、うつろな目で老婆を見た。何もわかっていない目だった。けれど老婆は構わず、しわだらけの手で、オルトの手を握った。
「ありがとう。──遅くなって、ごめんね。ずっと、言えなかった」
オルトは、きょとんとしていた。次に街灯のそばへ来ると、仕立て屋の女が待っていた。
「おかげで、夜が怖くなくなりました」
女は頭を下げた。
「うちの前の、あの灯り。あなたが点けてくれたんですね。──ありがとうございました」
道の先々で、人々がオルトを待っていた。そのたびに、彼らはオルトの手を取り、頭を下げ、礼を言った。ずっと言えないままだった言葉を、今、ひとつずつ。
オルトは、何もわかっていないようだった。名も、顔も、自分が何をしたのかも。ただ、次から次へと手を握られ、頭を下げられるうちに──その落ち窪んだ目に、うっすらと、透明なものが滲んだ。
理由は、わからなかったのだと思う。なぜ自分が礼を言われているのか。なぜ、見知らぬはずの人々が、こんなにも温かく自分を迎えるのか。それでも、体のどこか奥のほうが、覚えていたのかもしれない。手が覚えていた優しさを、心の残り火が、かすかに思い出したのかもしれない。
オルトの、乾いた頬を、一筋の雫が伝った。
*
私たちは、少し離れたところから、それを見ていた。
私は、うまく息ができなかった。眼鏡の奥が、じわりと熱くなる。それを見られたくなくて、私は少しだけ顔を伏せた。声を出せば、崩れてしまう気がした。だから、何も言わなかった。ただ、通りの向こうの光景を、目に焼き付けるように見ていた。
「エフィ」
先生が、隣で言った。
「記憶はね、消えることがある。人は、自分がしてきたことを、忘れてしまうことがある」
夕日が、通りを、人々を、オルトを、金色に染めていた。
「でもね」
先生は続けた。
「その人がしたことは、消えない。忘れた本人の頭からこぼれ落ちても──助けられた誰かの中に、ちゃんと残ってる。あの人が誰なのか、あの人自身がもう思い出せなくても、この街の人たちが、代わりに覚えてる」
先生は、千年を生きた目で、その光景を見つめていた。
「一人の人間が生きた意味は、その人が覚えているものじゃない。その人が、誰の中に何を残したか。それだけなの。……だから、あの人の一生ぶんの手仕事は、ちゃんと、ここに残ってる」
私は、頷くこともできずに、ただ立っていた。
オルトは、人々に囲まれて、まだきょとんとしていた。けれどその目からは、透明な雫が、止まらずにこぼれていた。理由もわからないまま。それでも確かに、何かを受け取ったように。
*
その後、オルトの世話は、あの通りの人々が交代で引き受けることになったと聞いた。
彼が回っていた道は、今度は人々が引き継いだ。街灯に魔力を充填し、井戸を確かめ、祠の灯りを点す。オルトがずっと一人で、名も告げずに続けてきたことを、今は街のみんなが、少しずつ分け合ってやっている。
オルトも、相変わらず道を回っているという。ただ、もう一人ではない。誰かが必ず、その道のどこかにいて、彼に声をかける。おかえり、と。ありがとう、と。
「先生」
事務所に戻ってから、私は言った。
「あの人は、もう、自分が誰かを思い出せないかもしれません」
「そうね」
「それでも──あの人がしてきたことは、消えないんですね」
先生は、ソファに沈み込んで、また林檎を宙に放っていた。いつもの、だらしない格好で。
「消えないわよ」
先生は林檎を受け止めて、かじった。
「わたしが保証する。……千年ぶん、いろんなものが消えていくのを見てきたけど。人が誰かに残した優しさだけは、しぶといの。びっくりするくらい」
窓の外は、もう夜だった。
どこか遠くで、街灯が一つ、静かに灯っている。誰かが、今日も点したのだろう。オルトかもしれないし、彼の道を継いだ、名も知らぬ誰かかもしれなかった。
どちらでも、よかった。灯りは、ちゃんと点いている。それで、じゅうぶんだった。
私はそっと眼鏡を外し、レンズを拭いた。まだ少し、滲んでいた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回更新は7月23日(木) 20:00更新を予定しています。
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