忘れられた道
エルフ×探偵×魔法ミステリです。
日常と事件が交差する、連作短編風の物語になります。
気軽に読んでいただけたら嬉しいです。
次の日も、私たちは通りに出た。
昼の少し前、乾物屋の女将が言っていた「いつもの時間」に合わせて、あの街灯の近くで待つ。先生は近くの喫茶店の軒先を借り、椅子に浅く腰かけて、退屈そうに足を揺らしていた。事件性があるときは凛としているものの、今回は事件性が薄いのだろうか、普段の先生らしくだらしない格好だ。その先生と対照的に、私は隣で通りの人波に目を配っていた。
「来た」
先生が言うより早く、私も気づいていた。
背を丸めた老人が、昨日と同じ道を、同じ歩幅で歩いてくる。街灯の前で立ち止まり、そっと手を当てる。指先からかすかに魔力が流れ、それから満足したように頷いて、また歩き出す。次の角を曲がり、細い路地の奥へ。突き当たりの、もう使われていない古い井戸のそばで立ち止まり、しばらく何かを確かめるように佇む。
私たちは、少し離れて後をついていった。
老人の道のりは、奇妙なほど決まっていた。街灯、路地の井戸、橋のたもとの小さな祠、閉じた店の軒下。順番も、立ち止まる長さも、まるで何度もなぞった道筋のように迷いがない。けれど当人の目は、どこかうつろだった。行き先を覚えているというより、足が勝手に覚えている──そんな歩き方だった。
「先生」
私は小声で言った。
「あの人、自分がどこへ向かってるのか、わかってるんでしょうか」
「わかってないわね」
先生は即答した。
「でも、体は覚えてる。……こういうのを、わたしは何度か見たことがある」
その声が、いつになく静かだった。
*
老人が家に帰るのを見届けてから、私たちは今日も聞き込みに回った。老人の通り道の途中にある家々を、一軒ずつ。
橋のたもとで洗い物をしていた老婆が、私たちの問いに顔を上げた。
「ああ、あの人かい。……昔ね、うちの井戸が枯れかけたことがあってね」
老婆は、濡れた手を前掛けで拭いながら、遠くを見るように話し始めた。
「魔道具の汲み上げが、どうしても直らなくてね。業者を呼ぶ金もなくて、水が出ないまま何日も困ってた。そしたら、通りすがりの魔法使いが、黙って直してくれたのさ。名前も名乗らずにね。……ずいぶん前の話だよ。あの人だったかどうか、今となっちゃ顔もよく覚えちゃいないけど」
次に訪ねた小さな仕立て屋では、店主の中年の女が、ミシンの手を止めて考え込んだ。
「うちの店の街灯……ほら、表のあれね。あれが昔、よく消えてたんですよ。夜、真っ暗で物騒でね。それがある時から、ずっと点くようになって。誰が直してくれたのか、ついぞわからなかったんだけど」
女は、通りの表に立つ街灯へ目をやった。老人が昨日、手を当てていた、あの街灯だった。
「まさか、あのおじいさんが……?」
私は先生を見た。先生は答えず、ただ通りの先を見つめていた。
*
その日の帰り道、先生は珍しく口数が少なかった。
「先生」
私はたまらず尋ねた。
「あの老人は、あの道を回りながら……ずっと、人助けをしていたんでしょうか」
「たぶんね」
「でも、本人は、それを覚えていない」
先生は足を止めた。
「あの人はね、エフィ。記憶を失ってる。自分が誰なのかも、何をしてきたのかも、もう覚えていない。──でも、体だけが覚えてる」
夕暮れの光が、先生の横顔を赤く染めていた。
「魔力を流す指の動き。掃除する手つき。回る道順。立ち止まる場所。……全部、体に染み込んでる。頭が忘れても、手が忘れない。だからあの人は、理由もわからないまま、今も同じ道を回って、同じものを直し続けてる」
「なぜ、そんなことを……」
「わからない」
先生は静かに言った。
「本人にも、もうわからないでしょうね。ただ──長い時間、名乗りもせずに、見返りも求めずに、人知れず誰かのために手を動かし続けた。その積み重ねだけが、記憶が消えたあとにも残った。頭からこぼれ落ちても、体にだけは残るくらい、深く沁み込むまで」
私は言葉が出なかった。
あの、輪郭のぼやけた相槌。うつろな目。何を尋ねても要領を得なかったあの老人が、この街のあちこちで、名も知られぬまま、誰かの暮らしを支えていた。当人がそれを誇ることも、覚えていることもなく。
「先生は」
私はようやく口を開いた。
「最初に会ったとき、『見たことのある顔』って言いましたよね」
先生は、少しだけ黙った。
「……昔ね」
やがて、ぽつりと言った。
「わたしがまだ探偵になる前、魔法師団にいたころ。似た顔の魔法使いを、知っていた気がするの。腕は良かったのに、出世にも名声にも興味がなくて、いつも誰かの困りごとばかり気にしてた変わり者。……でも、確かじゃない。千年も生きてると、顔は覚えても、名前がついてこないことがあるの」
千年を生きた先生ですら、たどりきれない過去がある。まして記憶を失った当人には、もう。
「調べましょう」
私は言った。
「あの人が誰なのか。何をしてきたのか」
先生は、ふっと笑った。いつもの軽い笑みではなく、もっと静かな、どこか祈るような笑みだった。
「そうね。──あの人が忘れてしまったものを、代わりに、拾い集めてあげましょうか」
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
次回更新は7月21日(火) 20:00更新を予定しています。
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