第一幕 ⑤ ~饗応の宴 壊れる光秀 逃げる家康~
安土城の大広間は、壁一面の金碧障壁画が放つ目が眩むような黄金の光に満ちていた。座する者すべてを圧殺せんとする、織田信長の権勢そのものである。信長の傍らには森蘭丸が微動だにせず、冷徹な眼差しで座中を睥睨していた。
調理場から次々と御膳が運び込まれ、徳川家康の前には、瑞々しくもどこか異質な冷たさを湛えた鯛の刺身が置かれた。鈍い銀色に光るその身からは、潮の香りに混じって、どこか甘く隠微な芳香が漂っている。
家康は静かに箸を置き、無意識のうちに親指の爪を噛み始めた。深い思案に落ちた時の癖である。やがて隣の穴山梅雪へ、柔和な笑みを向けた。
「梅雪殿。此度、武田を滅ぼすことが叶いましたのも、ひとえに貴殿の働きがあってこそ。自分は鯛が大好物でござるが、どうにも私の方の身が大きく見栄えもええようだ。三河者のせめてもの気遣い、受け取ってくだされ」
梅雪など、武田を崩すための道具に過ぎない。もし毒を喰らいここで果てれば、不手際を犯した光秀を葬り、織田に貸しを作る格好の材料になる。柔和な笑みの裏に、底知れぬ非情が隠されていた。
「おお、かたじけない! 我ら甲斐の人間にとって鯛は夢にまで見る海の宝。喜んで交換いたそう!」
梅雪が毒の皿へ手を伸ばした瞬間、遅れて入室した明智光秀の血の気が引いた。
(……待て。もし梅雪殿がこの一切れを口にし、この場で倒れでもみろ……!)
「これ、梅雪殿! なんと無作法なッ!」
光秀の声は恐怖で上ずった。皿を奪い取るようにして家康の前へ戻す。背を不浄な脂汗が伝う。
家康は震える光秀を淵へと追い込む一手を打った。
「……日向殿。どうやら私の鯛は少しばかり時を失したようでござる。饗応の責任者であるお主が、この鯛が傷んでおらぬことを確かめてくだされば、私も安心して箸が進むというもの」
箸先の銀色の身を、光秀の口元へゆっくりと差し出す。
「さあ、召し上がれ。お主の用意した逸品だ」
その瞳が迫っていた——お主の仕組んだ死を、今ここで自分で飲み込んでみせよ、と。
「光秀えッ! 何やっとるんだわッ!」
落雷のような怒号。信長が床を蹴り、光秀の髻を掴んでその顔を畳に叩きつけた。腰の鉄扇を引き抜き、逃げ惑う光秀の頭を鈍い音を立てて打ち据える。
「このとろくさい奴がッ! 貴様の無能のせいで、わしの面目は丸潰れだわッ!」
あえて家康の耳に届くよう苛烈に光秀を罵り続ける。自らが毒を命じたことなど微塵も感じさせぬ、凄まじい共犯者への弾圧であった。やがて信長は、肩で息をしながら鉄扇を蘭丸へ放り投げた。
「……腕が疲れた。お蘭、代われ」
「はっ」
蘭丸は無表情のまま鉄扇を手に取り、光秀の背後へと回り込んだ。
その凄絶な光景を前に、信長は何事もなかったかのように家康へ向き直った。
「……三河殿。此度の不手際、申しわきゃあない。宴はここらでお開きとさせてもらおう。詫びにはならんが、安土の楽市を案内させよう」
信長の命により家康たちが広間を後にした。廊下を歩む家康の足取りは、いつものように静かで乱れがなかった。だがその胸中では、織田信長という男の底知れぬ狂気への嫌悪が渦巻いていた。
(……見事な猿芝居よ。光秀殿、お主が仕掛けた毒は刺身の鮮度などではない。お主自身の迷いだ。……案ずるな。お主が食わそうとした死の味は、私が忘れずにとっておく)
「お蘭、襖を閉めてこい」
信長の命が響く。すでに襖は閉まっていた。しかし「すでに閉まっております」と答えれば主君の言葉が偽りとなる。蘭丸は迷うことなく襖を一度大きく開け放つと、再びピシャリと鋭い音を立てて閉め直した。主君の呼吸を読み、その言葉を現実に変える——こうした機転こそが蘭丸が最も寵愛される所以であった。
織田の者だけになった広間で、光秀は畳に額を擦りつけたまま絞り出した。
「……上様、申し訳ございませぬ。腹を切ってお詫びを……」
震える手で懐の脇差しに手をかけた瞬間、信長はその手を力ずくで踏みつけた。
「誰が死んでええと言ったんだわ! ……腹を切るだと? おみゃあの腐りきった腸で、この安土を汚すんじゃねぇ」
さらに耳元で、這い寄る蛇のような低音が囁いた。
「……なぜ、雉汁に入れなんだ。あの汁に入れりゃあ、熱さに紛れて喉を焼き、飲み干すほかねぇ。この、とろくさい奴がッ」
凄絶な驚愕が光秀の全身を貫いた。
「とっとと失せろ!」
信長は絶望に硬直する光秀を捨て、大広間を後にした。
翌朝。安土の台所裏では、昨夜の残飯を漁った野良猫たちが、苦悶に歪んだ姿のまま息絶えていた。その傍らで、まだ毒を口にしていない子猫が、力なく鳴き続けている。動かぬ親を懸命に起こそうとするその姿は、死臭の中で、あまりに惨たらしかった。
城を去る直前、その光景を目の当たりにした光秀は、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
(……あれは、私だ。そして、あの子猫は……私の家族だ)
毒を盛るという大罪を犯しながら、死ぬことさえ許されず、主君の狂気の掌で生かされ続ける己。坂本へと馬を走らせる光秀の脳裏には、主君の呪いのような声と、子猫の鳴き声が、いつまでも響き続けていた。




