第一幕 ④ ~苦悩する光秀と浅井三姉妹~
安土の城下は雪解けの泥濘も乾き、山々は燃えるような新緑に覆われていた。その光に導かれるように、北の庄よりお市の方が三人の姫君を連れて里帰りを果たしていた。
信長は姪たちを前に、珍しく快活な声を響かせた。
「おお、しばらく見ぬ間に皆、大きくなったのう。茶々、そなたは一段と市に似てきた」
城下を案内させようという叔父の言葉に、茶々、初、江の三人は顔を見合わせて声を上げた。お市は微笑みながら静かに頭を下げ、娘たちを送り出した。その背中には、言葉にならぬものが滲んでいた。
翌日。徳川家康を迎えての饗応の宴が催されようとしていた。好奇心に抗えぬ三姉妹は、お供の目を盗んで調理場の勝手口へと忍び寄った。
人目を避けて立つ影があった。惟任光秀である。
「惟任様……?」
茶々の清らかな声が届いた瞬間、光秀は雷に打たれたように肩を跳ね上げた。右手の銀色の小瓶を、狂ったような手つきで懐へとねじ込む。振り向いた額からは、脂汗が滲み出ていた。
「……こ、これは、姫君様方。しばらく拝見せぬ間に、何と大きゅうなられましたことか」
光秀の視線は、無意識のうちに茶々へと注がれる。
「茶々様、そなた様は一段と、お市様に似てこられましたな。一瞬、時が戻ったかと思いましたぞ」
言葉は穏やかであった。だが指先は、微かに震えていた。
「惟任様、何をそのようにうろたえておいでなのですか」
茶々が不思議そうに首を傾げ、顔をのぞき込んだ。
「もしかして、大事な食材がまだ届いていないとか……何か手違いでも?」
「……いえ、そのようなことは。実はこの鯛のことでございます。三河は海に近く、三河殿は鯛の味にうるさいお方。海の遠いこの安土で出す鯛が、もし三河の品より劣っているなどと言われては、上様の面目に関わると」
懐の小瓶から目を逸らすように、光秀は言葉を重ねた。茶々は微笑み、励ますように続けた。
「惟任様ともあろうお方が。上様の城で出されるものに間違いはございませんわ。自信をお持ちなされ」
その言葉が、かえって光秀の喉を締め上げた。この鯛は今朝早く大坂より取り寄せた、これ以上ない新鮮な品である。それを今まさに、死の器へと変えようとしていた。
三女の江が、くんくんと空気を鼻で探る。
「……お味噌の焼ける良い香りがいたしますこと。でも、何か別の……甘くて不思議な匂いも混じっておりますわ」
「おお、そうでございます。間もなく宇治丸の山椒味噌焼きが仕上がる頃。宜しければ少し味見でもなさいますか」
「まあ! 宇治丸ですって!」
三姉妹の歓声が調理場に弾けた。炙り出された味噌の香ばしさと山椒の鮮烈な香りに包まれ、江の感じた違和感は霧散した。
姫君たちが去った後、光秀の膝はがたがたと震えた。
懐の小瓶は、まだそこにある。
一滴。たった一滴で、この宴の行方は変わる。だがその一滴を落とす手が、どうしても動かなかった。戦場の血ではない。饗応の膳に忍ばせる、声もなく匂いもない死——それは、光秀がこれまで守り続けてきた何かを、取り返しのつかぬかたちで壊すことだった。
宇治丸の強い香気を、光秀は鯛の皿の方へ必死に仰ぎ寄せた。懐から漏れ出すかもしれぬ、あの隠微な匂いを封じ込めるために。
だが、もう一滴。
熱い雫が頬を伝い、毒と同じ皿へと落ちた。
「……これは、三河殿の御膳である。くれぐれも、間違えてはならぬぞ。決してな」
光秀は、自らの喉を締めるような低い声で膳を運ぶ者へ言い聞かせた。その膳が、やがてあの宴へと運ばれていく。




