第一幕 ③ ~家康の挑発 信長の思惑は~
安土へと近づく徳川の行列は、驚くほどに短く、静まり返っていた。
馬の蹄の音だけが、乾いた道に規則正しく響く。鎧の擦れる音すら抑えられ、列はまるで音を殺して進んでいるかのようであった。引き連れてきた手勢は最小限。武威を示すためではない——これ以上削れぬ、というところまで削った数である。
その姿そのものが、「敵意はない」という無言の証であった。同時にそれは、ひとつ誤ればすべてを失うという、捨て身の構えでもあった。
列の先頭を行く家康は、正面を見据えたまま、内側に渦巻く熱を静かに噛みしめていた。
(……これでよい。これ以上連れれば、それは信長公への不信となる)
一歩、また一歩と安土の威容が迫るたびに、首筋を冷たい刃でなぞられるような寒気が走る。ここで命を落とすかもしれぬ。その可能性は、決して低くはない。だが家康の口元には、祈りにも似た微かな決意が宿っていた。
(死ねばそれまで。だが——無防備を晒してなお踏み込んでくるこの三河を、あの男はどう見る)
己が身を極限まで削ぎ落とし、ただの「無」となって近づく。それが、猜疑の塊である織田信長という怪物に対し、もっとも深く食い込む刃となることを、家康は知っていた。
その行列を、安土城天主から見下ろす者がいる。
「……三河守、しぶとい男よ」
信長は低く呟き、手にした扇を膝に打ちつけた。乾いた音が、静かな天主に響く。傍らに影のように森蘭丸が控えている。天主へ吹き上げる風は琵琶湖の湿り気を帯び、春だというのにどこか冷たかった。
眼下の列は、ゆっくりと、しかし止まらずに進んでくる。
「この殺気ん中を、あの人数で踏み込むか」
信長は目を細めた。
「お蘭。あの家臣どもの目ぇを見てみゃあ」
蘭丸は視線だけを落とす。供の者たちの目は前を向いていた。だがその奥にあるものは、明らかだった。
覚悟。逃げぬ覚悟ではない——死ぬ覚悟だ。
「まるで、わしが今すぐ首でも刎ねると決めとるみてゃあだな」
信長は鼻で笑う。だが目は冷えたままだ。
「……ええ度胸しとる。それとも——そう見せたいんか」
空気が、わずかに重くなる。
「わしを鬼にして、あやつを哀れに仕立てる。よう考えとるわ」
口元がわずかに歪む。
「——甘いな」
視線は列の先頭へ。ただ一人、乱れぬ歩みの男。徳川家康。その姿が、信長の瞳に焼き付く。
「削りゃあええ思うとる。そんだけで、わしが収まる思うとるんか」
風が強く吹き抜けた。
信長は、わずかに震える己の指先を見つめ、それを隠すように拳を握りしめた。
「——試してみゃあええ」




