第一幕 ② ~三河の衆 涙の説得~
天正十年、春の終わり。名残の桜が風に舞い、三河の空はどこまでも青く透き通っていた。しかし岡崎城の大広間に満ちる空気は、その春の光を拒むかのように凍てついていた。
「行けば、もはや戻れませんぞッ!」
本多信正の叫びが、板張りの天井を揺るがした。武田を滅ぼし、天下をその手に掴もうとする織田信長から届いた「安土への招待状」——それは、従属に近い同盟を強いられてきた徳川家にとって、主君を丸呑みにせんとする大蛇の顎に見えた。信正の眼光は、主君を死地へ送るまいとする必死の覚悟で鋭く光っていた。
傍らでは榊原康政が、悔しさを噛み締めるように拳を畳へ叩きつけた。
「武田が滅びた今、あのお方にとって徳川はもはや用済み……。むしろ我ら三河武士の精強さを、おそがゃあと疑っておいでだ。安土への招待、刺客が待ち構えておるに相違ありませぬ!」
それを合図に、控えていた重臣たちが堰を切ったように声を上げた。
「行かせてはなりませぬ!」「殿、お考え直しを!」
無骨な男たちが家康の袴の裾にすがりつき、面を涙で濡らしながら翻意を促す。広間を揺らす慟哭は、主君と運命を共にせんとする一蓮托生の絆そのものであった。
だが、家康は微動だにしない。
開け放たれた縁の先、吸い込まれるような青空をただ静かに見つめていた。やがてその唇から、静謐な、しかし芯の通った声がこぼれた。
「……わしが行かねば、織田の牙はそのままこの三河へ向けられよう。強大な軍勢を前に、わが領民がどれほど持ちこたえられようか。わし一人の首でお主たちが助かるのであれば、それでよいではないか」
足元で泣き崩れる信正と康政を、家康は幼子を慈しむような眼差しで見つめた。
「わしが行くことで、於義丸や竹千代……徳川の種は残る。いつの日か彼らが、わしの積み上げてきた石垣のように、揺るがぬ泰平の国を築いてくれるはずだ。時を待て。……後は、任せたぞ」
その瞳に、死への恐怖はなかった。圧倒的な力の前に自らを礎として次代へ命を繋ごうとする——鋼のごとき、静かな意志だけが宿っていた。




