7ヶ月目 側にいたいだけ
夏祭りは、思っていた通り賑わっていた。
提灯の灯りが連なり、夜をやわらかく照らしている。
屋台の呼び込みの声。
笑い声。
遠くで鳴る太鼓の音。
全部が重なって、夏の空気を作っていた。
「人、多いね」
唯菜が小さく言う。
「毎年こんな感じだよ」
陽翔が軽く返す。
周りを見渡す。
家族連れ。
友達同士。
カップル。
みんなが楽しそうに歩いている。
自然と、その中に混ざっている。
前の自分なら、
少し離れた場所から見ていたはずなのに。
ネメシスたちも、それぞれ屋台を見て回っている。
「陽くん、あれ食べよ」
「あとで」
そんなやり取りが聞こえる。
賑やかな空間。
明るい声。
笑顔。
全部が、ちゃんと“楽しい”はずなのに。
胸の奥だけ、
少しだけ静かなままだった。
「じゃあ、ちょっと親のとこ行ってくるね」
ネメシスが軽く手を振る。
久世庵の当主であるエーテルと、女将のかやの方へ向かっていく。
「またあとで合流しよ」
そのまま人混みに消える。
ひなたも、神谷の腕を軽く引く。
「私たちも回ろっか」
「そうだな」
穏やかな会話。
そのまま、別の方向へ歩いていく。
気づけば。
周りの人たちが離れていく。
残るのは。
唯菜と、陽翔。
少しだけ、静かになる。
周りは賑やかなのに。
この距離だけ、空気が違う。
何を話せばいいのか、わからない。
でも。
嫌な感じじゃない。
横を見る。
陽翔。
いつもと同じ顔。
少しだけ、疲れているのはわかる。
視線が合う。
すぐに逸らす。
「……どこ行く?」
陽翔が、先に口を開く。
「……任せる」
短く返す。
「じゃあ」
少しだけ考える。
「適当に回ろう」
「……うん」
頷く。
並んで歩く。
人混みの中。
肩が触れそうな距離。
何も特別なことはない。
ただ、一緒に歩いているだけ。
それだけなのに。
この時間が、
やけに大事に感じた。
屋台が並ぶ通りを歩く。
甘い匂いと、焼ける音が混ざる。
「何食べる?」
陽翔が軽く聞く。
「……なんでもいい」
適当に返す。
「じゃあ、これ」
すぐに決める。
たこ焼き。
「……」
少し待って、受け取る。
「ほら」
そのまま差し出してくる。
「……自分で食べれるけど」
思わず言う。
「いいから」
あっさり返される。
一瞬だけ迷う。
でも。
口を開ける。
そのまま食べさせられる。
「……熱っ」
小さく声が漏れる。
「大丈夫?」
少しだけ笑っている。
「……普通に食べる」
軽く睨む。
でも。
強くはない。
「はいはい」
次の屋台に向かう。
焼きそば。
りんご飴。
次々に買ってくる。
「ほら」
また差し出される。
「……だから」
言いかけて止まる。
結局、食べる。
繰り返し。
気づけば、
さっきより距離が近い。
当たり前みたいに。
横を見る。
陽翔。
少しだけ楽しそうな顔。
「……」
(……なんなの)
小さく思う。
でも。
悪くない。
むしろ。
この時間が、
終わらなければいいのにと、
少しだけ思ってしまった。
「もうすぐ花火だね」
遠くで、ざわめきが少し強くなる。
「いい場所ある」
陽翔がそう言って、歩き出す。
「……どこ」
「ついてきて」
短く返す。
そのまま後ろを歩く。
人混みを抜ける。
少しずつ、音が遠くなる。
たどり着いたのは、
少し開けた場所。
灯りも少なくて、落ち着いている。
「ここ」
陽翔が指さす。
ベンチが一つだけ置いてある。
二人で座る。
自然に。
隣同士で。
少しだけ距離が近い。
でも、離れない。
周りの音は遠い。
人の声も、
屋台の音も、
全部ぼやけている。
代わりに。
静けさがある。
横を見る。
陽翔。
さっきと同じ顔。
でも。
少しだけ、疲れている。
何か言おうとする。
でも。
言葉が見つからない。
沈黙が続く。
嫌じゃない。
むしろ。
このままでいいと思ってしまう。
遠くで、
最初の花火の音が鳴る。
遠くで花火の準備の音が響く。
夜の空気が、少しだけ張り詰める。
唯菜は、隣を見る。
陽翔は前を向いたまま。
何も言わない。
胸の奥がざわつく。
このままじゃいけない。
そう思う。
「……ねえ」
小さく声をかける。
「これからも」
言葉を選ぶ。
「ずっと一緒だよね」
一瞬、間ができる。
それでも続ける。
「絶対、私から離れないでね」
言い切る。
強く。
願いというより、
縋るように。
陽翔は、すぐには答えない。
少しだけ目を細める。
それから。
「……うん」
短く返す。
それだけ。
否定もしない。
約束もしない。
ただ、受け止めるだけ。
その返事が。
優しいのに、
どこか遠く感じた。
最初の花火が上がる。
夜空に大きく開く光。
少し遅れて、音が響く。
唯菜は空を見上げる。
色が広がる。
重なるように、次の花火が上がる。
そのまま手を伸ばす。
隣にいる陽翔の手を掴む。
指先が触れる。
そのまま、強く握る。
少しだけ冷たい。
一瞬だけ、意識がそこに向く。
でも、考えるのをやめる。
今はいい。
ただ、花火を見る。
光が夜を塗り替えていく。
隣に陽翔がいる。
それだけでいい。
この時間を大切にしたい。
そう思った瞬間、
それ以上、考えるのをやめた。
花火が夜空に広がる。
光が何度も重なっていく。
その中で。
「お姉ちゃん」
陽翔が、静かに呼ぶ。
さっきよりも弱い声。
かすれている。
「……何」
唯菜が小さく返す。
視線は、まだ空に向いたまま。
「恋人になること」
一度、言葉を区切る。
呼吸が少し乱れている。
「決まった?」
「……」
時間が止まる。
花火の音だけが響く。
「そろそろ」
陽翔が続ける。
「お姉ちゃんの返事が欲しい」
その声は、はっきりしていない。
でも。
逃げていない。
「……」
唯菜は動けない。
さっきまでの時間。
手の温度。
全部が重なる。
答えを出さないといけない。
もう、先延ばしにはできない。
夜空の光が、ゆっくり消えていく
「ねぇ」
陽翔が、もう一度だけ呼ぶ。
声は弱い。
それでも、待っている。
唯菜はすぐに答えられない。
言葉が出てこない。
時間だけが過ぎる。
花火の音が遠くで響く。
長い沈黙のあと。
「……陽翔なら」
小さく息を吸う。
逃げないで言う。
「いいよ」
はっきりと告げる。
その瞬間。
大きな花火が上がる。
夜空いっぱいに広がる光。
強い音が響く。
隣を見る。
陽翔が、笑っている。
やわらかく。
安心したみたいに。
「愛してるよ」
口が、そう動いた。
声は花火の音にかき消される。
でも。
ちゃんと分かった。
花火が続く。
夜空に光が広がる。
その横で。
陽翔が、少しだけ体を預けてくる。
肩に重みが乗る。
「少し借りるね」
かすれた声。
力が抜けている。
「……」
唯菜は何も言わない。
ただ、受け止める。
「いいよ」
小さく返す。
それから。
「ずっと借りてても」
言葉にする。
優しく。
静かに。
陽翔は何も言わない。
ただ、そのまま寄りかかっている。
「……」
花火の音が響く。
光が何度も空を埋める。
肩にある重み。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
変わっていく。
唯菜は、目を閉じない。
空を見たまま。
何も言わない。
ただ、その時間を受け止める。
陽翔は、何も話さなかった。
ただ。
唯菜の肩に寄りかかったまま、
動かない。
眠っているみたいに。
花火の音が響く。
夜空は、変わらず綺麗で。
何も知らないみたいに光っている。
肩の重みは、そのまま。
でも。
さっきとは違う。
唯菜は動かない。
動けない。
こらえていたものが、
ゆっくり崩れる。
涙がこぼれる。
一滴。
また一滴。
「ねぇ」
声が震える。
「起きてよ」
小さく呼びかける。
返事はない。
「ねぇ、陽翔」
もう一度。
少しだけ強く。
「……」
それでも。
何も返ってこない。
花火が上がる。
大きな音。
光が広がる。
その中で。
唯菜の声だけが、
どこにも届かなかった。
唯菜は、そっと動く。
肩に預けられていた顔を、
ゆっくりと支える。
崩さないように。
丁寧に。
そのまま、自分の膝の上に乗せる。
眠っているみたいだった。
さっきと同じ顔。
穏やかで、
何も変わっていないみたいに。
指先で、そっと髪に触れる。
乱れた前髪を整える。
「ありがとう」
小さく言う。
声は、もう震えていない。
「私をここまで連れてきてくれて」
言葉にする。
一つずつ。
噛みしめるように。
「……」
返事はない。
分かっている。
それでも。
ちゃんと伝えたかった。
花火が上がる。
夜空に広がる光。
その下で。
唯菜は、ただ静かに、
陽翔を見ていた。
その後、葬式が行われた。
静かな会場。
白い花の匂い。
線香の煙が、ゆっくりと上に昇っていく。
父が、前に立っている。
何も言わない。
ただ、まっすぐ見ている。
母は、その隣で静かに涙を拭っていた。
唯菜は、一歩後ろに立つ。
視線の先。
棺の中。
陽翔が、眠っている。
あの日と同じ顔。
穏やかで、
何も変わっていないみたいに。
現実なのに、
どこか遠く感じる。
ネメシスが来ていた。
黒い服。
いつもの軽さはない。
静かに、頭を下げる。
その後ろに、
森野ひなたと神谷。
久世庵の人たちも、揃っていた。
誰も、大きな声は出さない。
ただ、それぞれの形で
陽翔を見送っている。
唯菜は、動かない。
泣かない。
ただ、見ている。
その時間が、
ゆっくりと、
確かに終わっていった。
葬式は終わった。
そのまま、久世庵に戻る。
静かな座敷。
料理が並べられる。
湯気がゆっくり立ち上る。
「……」
父と母が座る。
その隣に、唯菜も腰を下ろす。
「いただきます」
誰かが小さく言う。
それぞれが箸を取る。
ネメシスもいた。
ひなたと神谷も。
久世庵の人たちも揃っている。
いつもより静かで、
でも、誰も無理に明るくしようとはしない。
「陽くんさ」
ネメシスがぽつりと口を開く。
少しだけ笑う。
「編集めちゃくちゃ細かかったよね」
「そうそう」
ひなたが頷く。
「一フレーム単位でこだわるの」
「……」
小さな笑いがこぼれる。
ほんの少しだけ。
「庭の手入れも真面目だったよ」
久世庵の人が言う。
「頼むと、最後までやり切る子だった」
言葉が続く。
一つずつ。
それぞれの中にある陽翔が、出てくる。
唯菜は、黙って聞いている。
知らなかった一面。
知っている癖。
全部が、少しずつ繋がっていく。
目の前の料理に手をつける。
味は、ちゃんとする。
温かい。
それでも。
胸の奥にあるものは、
消えないままだった。
でも、それでいいと思った。
食事が一段落した頃。
「唯菜さん」
ネメシスが、静かに声をかける。
「少し、いい?」
「……うん」
短く頷く。
「二人で話したいんだ」
そのまま立ち上がる。
「ついてきて」
「……」
唯菜も立つ。
何も聞かずに後を追う。
廊下を歩く。
人の気配が少しずつ遠くなる。
たどり着いたのは、
久世庵の地下にあるスタジオ。
あの日と同じ場所。
「ここでいい」
ネメシスが足を止める。
扉が閉まる。
静かになる。
機材の音だけが、微かに響く。
ネメシスは、すぐには話さない。
少しだけ視線を落とす。
それから。
ポケットに手を入れる。
「これ」
取り出したのは、
小さな箱。
見覚えがある。
あの時。
陽翔が渡していたもの。
「陽くんから」
ネメシスが静かに言う。
「預かってた」
「……」
唯菜は、すぐに手を伸ばせない。
ネメシスは続ける。
「もし、って言ってた」
一瞬だけ言葉を選ぶ。
「その時が来たら、渡してほしいって」
「……」
時間が止まる。
差し出された箱。
それが、
現実を突きつけてくる。
唯菜は、ゆっくりと手を伸ばす。
震えないように。
しっかりと。
受け取る。
箱を開ける。
中に入っていたのは、小さなUSB。
それだけ。
「……」
一瞬、意味が分からない。
「前にさ」
ネメシスが静かに言う。
「音声入力ソフトの機材、渡したよね」
その言葉で、繋がる。
「あれ、使えるから」
「……」
唯菜の手が、わずかに動く。
視線がUSBに落ちる。
スタジオのPCに向かう。
椅子に座る。
震えそうになる手を押さえて、
USBを差し込む。
画面が変わる。
一つのデータ。
名前が表示される。
クリックする。
「陽翔」
唯菜は、動けない。
「それ」
ネメシスが静かに言う。
「陽くんが作ってたやつ」
「……」
言葉が入ってこない。
「唯菜さん専用の音声入力ソフト」
少しだけ間を置く。
「“陽翔”だよ」
「……」
息が詰まる。
「ずっと一緒にいるには」
ネメシスが続ける。
声は、優しいまま。
「これしかないって言ってた」
画面を見る。
そこにあるのは、
確かに“陽翔”の声。
触れれば、再生できる。
入力すれば、歌う。
話す。
応える。
でも。
それは。
もう、
本人じゃない。
唯菜の指が、少しだけ震える。
画面の上で止まる。
「これで」
ネメシスが、静かに言う。
「陽くんを」
少しだけ間を置く。
「唯菜さんの旅に、連れて行ってよ」
「……」
言葉が、まっすぐ届く。
「これから」
ネメシスは続ける。
「長い長い人生の」
視線を少しだけ上げる。
「歌手としての旅に」
「……」
唯菜は、何も言えない。
画面に映る名前。
“陽翔”
そのまま、消えない。
あの日の花火。
あの言葉。
全部が重なる。
それでも。
前に進まないといけない。
唯菜は、ゆっくりと息を吸う。
そして。
キーボードに指を置く。




