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6/8

6ヶ月目 加速

 この日から、陽翔は動き出した。

迷いはなかった。

止まる選択肢が、最初からないみたいに。


部屋の前を通る。

ドアは少しだけ開いている。

中から、キーボードの音。

一定のリズムで鳴り続けている。



ちらっと覗く。

陽翔は画面に向かっていた。

背中が、前よりも固い。


顔色は、良くない。

少し青い。

それでも。

手は止まっていない。



机の上に、空の缶。

エナジードリンク。

一本じゃない。

何本も並んでいる。


一つ手に取る。

開ける音。

そのまま、一気に飲む。


それから、また画面に戻る。

何もなかったみたいに。



違和感しかない。

さっきまで、病院にいたはずなのに。


声をかけようとする。

でも。


やめる。

今の空気は、

それを拒んでいる気がした。



そのまま、ドアの前から離れる。

足音を立てないように。


胸の奥が、ざわつく。

進んでいる。

確かに。


どこか、

無理をしているようにしか見えなかった。




 玄関に、大きな箱が届く。

衣装。

さっき選んだものが、そのまま入っている。


箱を開ける。

黒を基調にした服。

並べてみると、現実感が増す。


部屋の前。

ドアをノックする。

「陽翔」


「……入って」

すぐに返事が来る。

ドアを開ける。


「これ」

箱を軽く持ち上げる。

「衣装、届いた」

「……ありがと」


画面から目を離さないまま答える。

「どれ着るか、決めといて」

それだけ言う。


「……」

もう会話は終わりみたいな空気。

そのまま戻ろうとする。


でも。

足が止まる。

「……ねえ」

思わず呼び止める。 


「……」

陽翔が、少しだけ手を止める。

それから振り返る。

「……どうしたの」

さっきまでとは違う声。 

少しだけ柔らかい。



顔を見る。

さっきまでの、あの鋭い表情はない。

穏やかで。

優しくて。


でも。

「……」

無理してるのが、はっきりわかる。

目の奥が疲れている。

色も、まだ悪い。


言葉が出ない。

何か言いたかったはずなのに。

ただ、その顔を見てしまって。


「……なんでもない」

小さく言う。



陽翔は少しだけ首を傾げる。

それでも、深くは聞かない。

「そっか」

それだけ言って、また画面に戻る。


「……」

ドアを閉める。

静かに。

手の中の衣装。

さっきより、少しだけ重く感じた。




 夜。

部屋の明かりを消す。

ベッドに横になる。


目を閉じても、眠れない。

頭の中が、落ち着かない。


昼のこと。

病院。

陽翔の顔。

全部が残っている。



その時。

隣の部屋から、声が聞こえる。

小さく。

壁越しに。 


耳を澄ます。

陽翔の声。

誰かと話している。


「……ネメシス?」

なんとなく、そう思う。 

完全には聞き取れない。

でも、断片だけ届く。


『そろそろ近いんだね』

ネメシスの声。

落ち着いたトーン。


一瞬、呼吸が止まる。

何が、近いのか。



続いて、陽翔の声。

『俺が——』

少し途切れる。

『〜なる前に』

そこだけ、はっきり聞こえる。


「……」

胸の奥がざわつく。


『お姉ちゃんの土台を作ってみせます』

その言葉だけ、くっきり残る。


それ以外は、聞き取れない。

音が途切れる。

声も、小さくなる。


静かになる。

天井を見つめる。

何も見えない暗闇。


「……」

(……何、それ)

意味が繋がらない。 


でも。

「……」

嫌な予感だけは、残る。


“なる前に”

その言葉が、頭から離れなかった。




 翌朝。

久世庵のスタジオ。

扉を開けると、いつもの空気が流れている。


機材の音。

人の気配。

変わらない風景。


「おはよー」

ネメシスの明るい声。

そのまま、自然に陽翔に近づく。


「陽くん、昨日の続きやろ」

軽い調子で話しかける。

距離が近い。

当たり前みたいに。


唯菜はその様子を見ている。


「うん」

陽翔が短く返す。

そのまま、すぐに画面に向かう。

動きに迷いがない。



昨日のことが、嘘みたいだった。

倒れたこと。


病院。

あの会話。

全部。 


表情も変わらない。

あの疲れた顔も、

無理してる感じも、

今は見えない。 


ただ、いつも通りに作業している。

正確に。

速く。



ネメシスが、横から画面を覗く。

「ここいいね」


「もう少し詰める」

短いやり取り。

息が合っている。


「……」

完全に、仕事の空気。

唯菜は、その中に立っている。


でも。

どこか、入れていない気がする。


昨日、聞いた言葉。

頭の奥に残っている。


同じ場所にいるはずなのに。

少しだけ、

遠く感じた。




 「じゃあ、唯菜さんのパートからいこうか」

ネメシスが軽く言う。


空気が切り替わる。

完全に、作業の時間。


マイクの前に立つ。

ヘッドホンをつける。

外の音が少し遠くなる。


「大丈夫?」

ネメシスが横から覗き込む。


「……うん」

短く答える。

本当は、全然大丈夫じゃない。


「一回通してみよ」

ネメシスが合図を出す。

音が流れる。



息を整える。

前と同じはずの場所。

同じマイク。

同じ空間。


「……」

でも、違う。

頭の中が静かじゃない。


それでも、声を出す。

最初の一音。

少しだけ、揺れる。


「ストップ」

すぐに止められる。


ネメシスが、優しく言う。

「力抜いていいよ」

手で軽くジェスチャーする。

「考えすぎてる」


図星だった。


「もっとシンプルでいい」

ネメシスが続ける。

「前みたいに、ぶつける感じで」


「……」

頷く。


もう一度、構える。

音が流れる。

今度は、少しだけ意識を変える。


考えない。

ただ出す。

声が、さっきよりまっすぐ出る。


「いいね」

ネメシスが小さく言う。

「そのまま」



少しずつ、揃っていく。


音と。

呼吸と。

声が。



でも。

その裏で。

別のことが、頭から消えない。


視線の端。

陽翔。

いつも通りに作業している。

何もなかったみたいに。


その姿が、

少しだけ遠く感じた。




 「少し外す」

陽翔が、短く言う。

席を立つ。

そのままスタジオを出ていく。


無意識に、目で追う。

ドアが閉まる。


少しだけ間。

胸の奥がざわつく。

足が動く。

追いかけようとする。



その瞬間。

「唯菜さん」

ネメシスの声。

すぐ後ろから。

「まだ終わってないよ」

やわらかい声。

でも、止める力ははっきりしている。


「……」

足が止まる。

「……ちょっと」

言いかける。

「陽翔、さっき顔色——」


「大丈夫」

被せるように言われる。

「すぐ戻るから」


違和感。

言葉の速さ。

間のなさ。 


ネメシスが一歩近づく。

視線を合わせる。

「今は、こっちに集中しよ」

優しく言う。


でも。

逃がさない。



振り返る。

閉まったドア。

向こう側。

戻るしかない。


マイクの前に立つ。

でも。

さっきより、少しだけ息が乱れている。


ヘッドホンをつける。

音が流れる。

声を出す。


でも。

さっきみたいに、うまくいかない。

意識が、向こうに残っている。



ネメシスが、小さくため息をつく。

「ほら」

軽く言う。

「集中して」 


言い返せない。

でも。

胸の奥のざわつきは、

消えなかった。




 「……よし、今日はここまで」

ネメシスが軽く手を叩く。

音合わせが終わる。


「……」

ヘッドホンを外す。

少しだけ、肩の力が抜ける。


そのタイミングで。

ドアが開く。


「戻った」

陽翔が、いつも通りの声で入ってくる。



視線が向く。

顔色は、さっきより少し落ち着いている。

表情も変わらない。


何事もなかったみたいに、

席に戻る。

そのまま、画面に向かう。


「……」

違和感だけが残る。


さっきのこと。

消えた時間。

何をしていたのか。

何も説明はない。 


聞こうとする。

でも。

言葉が出てこない。



そのまま、作業が再開される。

ネメシスも、何も言わない。

当たり前みたいに。


時間が過ぎる。

「少し外す」

また、陽翔が立ち上がる。



今度は、誰も止めない。

そのまま出ていく。

ドアが閉まる。

静かになる。


また。

戻ってくる。

また作業する。

また消える。


繰り返し。

何度も。


そのたびに、

胸の奥がざわつく。


でも。

周りは誰も気にしていない。


まるで、

それが普通みたいに。


「……」

(……おかしい)

小さく思う。


でも。

その“おかしさ”を、

言葉にできなかった。


  


 歌は完成した。

録音も終わった。

残るのは、編集だけ。


「ここ少し削ろうか」

森野ひなたが画面を見ながら言う。


ネメシスも横で頷く。

スタッフがそれぞれ動く。

手際がいい。

無駄がない。


「……」

モニターに映る波形。

自分の声と、ネメシスの声。

重なって、形になっていく。


「……」

少し前なら、

それだけで嬉しかったはずなのに。

視線が、自然と逸れる。

スタジオの端。



陽翔がいた。

ネメシスと、少し離れた場所で話している。

声は聞こえない。


でも。

表情は見える。

真剣な顔。

さっきまでの、仕事の顔とも違う。


ネメシスも同じ顔をしている。

軽さがない。

二人だけの空気。

完全に、閉じている。


距離はそんなに遠くないのに。

入れない。


呼べば届くはずなのに。

その一歩が、遠い。



モニターに視線を戻す。

音が流れる。


「いい感じ」

ひなたが言う。

「これ、バズるよ」

軽く笑う。 


「……」

頷く。

形は、できている。

確実に、前に進んでいる。


「……」

なのに。

胸の奥に残るのは、

別の感覚だった。




 「唯菜さん」

ネメシスが、いつの間にか近くに来ていた。

さっきまで陽翔と話していたはずなのに。

少しだけ視線を上げる。


「どうかした?」

軽い調子。 

いつもの声。


「……別に」

短く返す。



ネメシスは少しだけ様子を見る。

それから、手に持っていたものを差し出す。

「これ」

小さな機材。

マイクと、簡単な録音セット。


「……何これ」

思わず聞く。


「曲、作るならさ」

ネメシスが笑う。

「ここでもいいけど」

少しだけ肩をすくめる。

「もしよかったら、これ使ってみて」


「……」

言葉が止まる。


「ちょっと前のやつだけど」

気にしない様子で続ける。

「一曲、自分で作ってみたら?」


その一言。

静かに落ちる。


“自分で”

その言葉が、引っかかる。 



今までは。

陽翔がいて。

ネメシスがいて。

作ってもらっていた。



でも、これは違う。

視線が、無意識に動く。

スタジオの端。


陽翔。

また誰かと話している。

遠い。

さっきより、もっと。



ネメシスが、小さく言う。

「誰かに作ってもらうのもいいけど」

少しだけトーンが落ちる。

「自分で作ると、見えるもの変わるよ」



その言葉。

優しいのに。

どこか、突き放している。


手に持った機材を見る。

軽いはずなのに、

少しだけ重く感じる。


「……」

(……どうするの)

問いが、また増える。




 「それとね」

ネメシスが、軽く付け加える。

「その機材」

手元のセットを指で示す。

「音声入力ソフト入ってるやつだから」


「……」

唯菜は、もう一度それを見る。


「自分の声じゃなくても」

ネメシスが続ける。

「言葉を打てば、歌ってくれるよ」



一瞬、理解が遅れる。

「……それって」

視線を上げる。

「誰の声でも?」


「ある程度はね」

ネメシスが頷く。


「あと」

少しだけ笑う。

「僕の声も入ってるから」

軽い調子で言う。

「自由に使っていいよ」


言葉が止まる。

手の中の機材。

さっきより、違う意味で重くなる。


自分の声じゃなくてもいい。

歌える。

作れる。


それは。

逃げ道にもなる。

同時に。

自分の声じゃなくても成立する、ということ。


胸の奥が、少しだけざわつく。

ネメシスが、軽く肩をすくめる。

「どう使うかは、唯菜さん次第」

それだけ言う。


「……」

選択が、また一つ増える。




 「……でもね」

ネメシスが、少しだけ声を落とす。

さっきまでの軽さとは違う。


「やっぱり」

一度言葉を切る。

「こうやって一緒に歌ったり、編集したりするほうが」

少しだけ視線を逸らす。

「僕は好きなんだけど」


「……」

唯菜は何も言えない。

その言葉が、少しだけ救いに聞こえる。



でも。

「陽くんがさ」

ネメシスが続ける。

「唯菜さんに言ってほしいって頼まれてたから」


「……」

一瞬、空気が止まる。

「……は?」

思わず声が漏れる。


ネメシスは、困ったように少しだけ笑う。

「ごめんね」

軽く肩をすくめる。

「余計なお世話かもしれないけど」


「……」

言葉が出ない。

頭の中で、繋がる。

昨日の会話。

“土台を作る”

あの言葉。



つまり。

これは。

陽翔が、用意したもの。

自分のために。


でも。

同時に。

離すための準備にも見える。

胸の奥が、強くざわつく。


視線が、自然と向く。

スタジオの端。

陽翔。

また画面に向かっている。

何も知らない顔で。


「……」

(……なんなの、それ)

小さく思う。


でも。

その言葉の意味は、

さっきまでとは全然違っていた。




 作業の合間。

スタジオの端。


「……」

陽翔が、ネメシスに何かを渡している。

小さな箱。

手のひらに収まるくらいの大きさ。


無意識に、視線がそっちに向く。

声は小さい。

でも。

距離が近いせいで、断片だけ届く。



「これ」

陽翔の声。

低くて、落ち着いている。

「預かってて」


「……」

ネメシスが、少しだけ表情を変える。

軽さが消える。


次の言葉。

はっきり聞こえる。


「もし」

一瞬だけ間があく。

「……俺が——になった時」

そこだけ、途切れる。

聞き取れない。


でも。

「……」

嫌な予感だけが残る。


「これ、唯菜に渡してほしい」


時間が止まる。


ネメシスは、すぐには答えない。

箱を見つめる。

それから、ゆっくり頷く。

「……わかった」

短く返す。 


そのやり取り。

あまりにも自然で。

あまりにも重い。


心臓が、強く鳴る。

(……何それ)

頭が追いつかない。



“もし”

“その時”

全部、繋がりそうで。

繋げたくない。


視線を逸らす。

見なかったことにしたくて。


でも。

もう、無理だった。




 「なんで」

声が、先に出ていた。

自分でも止められない。


「なんで私に隠そうとするの!」

スタジオに響く。

空気が一瞬で凍る。



陽翔が振り返る。

少しだけ目を見開く。

「お姉ちゃん——」


「誤魔化さないで!」

被せる。

もう止まらない。


「さっきのも聞こえた」

一歩、近づく。


「“もし”って何」

「“渡す”って何」



ネメシスが動く。

「唯菜さん、ちょっと——」

間に入ろうとする。

でも。

止まらない。


「どいて」

短く言う。 

そのまま。

陽翔の前まで行く。


胸ぐらを掴む。

布を強く握る。


「ちゃんと説明してよ」

顔を近づける。

「何隠してるの」

声が震えている。


怒りなのか、

怖さなのか、

自分でもわからない。 


陽翔は、抵抗しない。

ただ、見ている。



その目が。

余計に腹立たしい。

「なんで黙ってるの!」

力が強くなる。

「私だけ知らないの、おかしいでしょ!」


ネメシスが、少し強めの声で言う。

「唯菜さん、落ち着いて」


「落ち着けるわけないでしょ!」

振り返りもせずに返す。


空気が張り詰める。

誰も動けない。



陽翔が、ゆっくり口を開く。

「……ごめん」

それだけ。


一瞬、思考が止まる。


「……は?」

力が抜けそうになる。

でも。

納得なんてできるわけがない。


「それじゃ意味わかんない!」

もう一度、強く言う。

「ちゃんと話してよ!」



陽翔は、視線を逸らさない。

でも。

何も、言わない。




 「……ごめん」

陽翔が、もう一度小さく言う。


「ちゃんと説明してよ!」

唯菜の声は止まらない。

「何隠してるの!」

胸ぐらを掴む手に、力が入る。


一瞬だけ、沈黙。


それから。

「……僕には」

陽翔が、ゆっくり口を開く。


声は弱い。

でも、はっきりしている。

「時間がないんだ」


「……」

空気が止まる。


「……は?」

理解が追いつかない。

「何それ」

言葉にする。


でも。

意味は、ちゃんと届いている。

手の力が、少しだけ揺れる。


ネメシスが、一歩近づく。

「唯菜さん」

静かな声。


さっきまでとは違う。

「陽くんを、離してあげて」


「……」

その一言。

優しいのに、拒絶みたいに聞こえる。


唯菜は、陽翔を見る。

逃げない視線。 

でも。

どこか、遠い。


“時間がない”

その言葉が、頭の中で繰り返される。

 


ゆっくりと。

手の力が抜ける。


掴んでいた服が、離れる。

一歩、下がる。


何も言えない。

さっきまであった怒りが、

別のものに変わっている。


怖い。

ただ、それだけだった。


  


 「……まだ」

陽翔が、ゆっくり続ける。

さっきよりも静かな声。

「僕が支えられるけど」


唯菜は何も言えない。

ただ、聞くことしかできない。


「その時が来たら」

少しだけ間を置く。


「ネメシスさんと」

視線が一瞬だけ向く。

「森野ひなたさんと、ネメシスチームが」

淡々と続ける。

「お姉ちゃんを支えるから」


言葉が、重い。

一つ一つが、現実を押し付けてくる。


“その時”

それが何なのか、

もう聞かなくてもわかる。



陽翔が、少しだけ表情を緩める。

無理やり作ったみたいな笑顔。


「だから」

最後に言う。

「今は、何も考えないで」


その言葉。

優しいはずなのに。

胸の奥が、強く締まる。


何も考えるなって、

どういうこと。


これだけ言われて。

何も知らされなくて。

考えないなんて、無理に決まってる。



視線が揺れる。

言葉が出ない。


ただ。

一つだけ、はっきりしている。

もう、

元には戻れない。




 「お姉ちゃんを、よろしくお願いします」

陽翔がネメシスに向かって言う。

静かな声だった。


まるで、決まっていたことみたいに。


ネメシスは少しだけ視線を落とす。

それから、小さく頷く。

「任せて」

短い返事。


それだけで、全部が決まってしまった。

胸の奥が強く締まる。



嫌だ。


分かってる。

意味も、状況も、全部。

それでも。


嫌だ。


視線が揺れる。

陽翔を見る。

穏やかな顔。

受け入れてるみたいな顔。


「なんで」

声が震える。

一歩、近づく。

「なんでそんなに、この先のことが怖くないの」


言い切る。

逃げないで。

ちゃんと聞く。


陽翔はすぐに答えない。

少しだけ目を伏せる。

それから、ゆっくり口を開く。




 陽翔は、視線を逸らさない。

逃げないまま、言う。


「お姉ちゃんが好きだから」

その一言。

まっすぐで、迷いがない。


「僕の人生なんて」

少しだけ息を吸う。

「これのせいで、めちゃくちゃになると思ってた」

自嘲みたいに、少しだけ笑う。


「でも」

言葉を繋ぐ。

「親が再婚して」

視線が、少しだけ柔らぐ。

「出会ったのが、唯菜お姉ちゃんだったから」


「……」

唯菜は、何も言えない。


「だから」

陽翔は続ける。

「覚悟が決まっただけ」

静かな声。

でも、揺れない。


「……」

それは強がりじゃない。

最初から、決めていた人の言葉だった。


唯菜の胸の奥で、

何かが崩れる。




 「僕は」

陽翔が続ける。

迷いのない声。


「僕が死ぬまで」

一瞬も止まらない。

「お姉ちゃんを支える」


「……」

言葉が、重く落ちる。

逃げ場がないくらい、まっすぐで。


「これまで」

陽翔は視線を逸らさない。

「人間不信で」

少しだけ言葉を選ぶ。

「生きるのが辛いと思ってたお姉ちゃんを」


一歩、近づく。

「絶対、変えてみせる」


言い切る。

強く。

揺れないまま。



胸が、締まる。

優しいはずなのに。

その言葉は、

どこか息苦しい。


支える。

変える。

全部、唯菜のため。

なのに。


どうしてこんなに、

苦しいのか分からなかった。




 七月。

新しい月が始まる。

季節は、勝手に進んでいく。


その流れに乗るように。

唯菜のチャンネルが開設された。

例の曲と一緒に。


公開された動画。

再生数は、ゆっくり伸びていく。


コメントも増えていく。

「声好き」

「ネメシスとの相性いい」

「この人誰?」



画面を見つめる。

現実が、形になっている。


何も止まっていない。

あの日のことも。

あの会話も。

全部、置いていくみたいに。



隣を見る。

陽翔がいる。

いつも通り。

画面に向かっている。


進んでいる。

確かに。

前に。


でも。

その“前”が、

どこに向かっているのかは、

まだ分からなかった。




 七月は、あっという間に過ぎていった。

ネメシスとのコラボ。

一緒に歌って、撮影して。

自然と距離も近くなる。


「ここもう一回いこうか」


「うん」

そんなやり取りが増えていく。



地元の人とのコラボもあった。

久世庵に来る人。

昔から関わりのある人たち。

「唯菜ちゃん、いい声してるね」

気さくに声をかけられる。


「……ありがとうございます」

少しずつ、慣れていく。



気づけば、

人と話すことも増えていた。

前の自分なら考えられないくらいに。


動画も増える。

再生数も伸びる。

コメントも、前よりずっと多い。


全部、順調だった。

ちゃんと、進んでいる。



でも。

その“順調さ”の中で。

一つだけ、

変わらないことがあった。


陽翔。

隣にはいる。

同じ場所にいる。

同じ時間を過ごしている。


なのに。

少しずつ、

遠くなっている気がした。




 「お姉ちゃん」

陽翔が、いつもの調子で声をかけてくる。


「……何」

軽く返す。


「夏祭り、行かない?」


「……」

一瞬、言葉が止まる。

「どこでやってるの」


「久世神社」

あっさり返ってくる。

「久世庵の山の上」



「……」

思わず顔を上げる。

あそこは、地元でも有名な場所。

「毎年やってるやつ?」


「そう」

短く頷く。


少しだけ考える。

人が多い。

騒がしい。

前の自分なら、断っていた。


でも。

目の前の陽翔を見る。

いつも通りの顔。

少しだけ疲れているのは、わかる。


それでも。

普通に誘ってくる。

その“普通”が、

少しだけ、嬉しかった。



小さく息を吐く。

「……行く」

短く答える。


陽翔が、少しだけ笑う。

「よかった」

それだけ言う。


その一言。

やけに、軽くて。

やけに、遠く感じた。




 部屋に広げる。

暗い色の着物。

落ち着いた柄。

派手じゃないのに、目を引く。


「……」

手で触れる。

少しだけ、懐かしい匂いがする。


「それ、お母さんのだよ」

後ろから声がする。

振り返る。


母が、少しだけ笑っている。

「若い頃、よく着てたの」


「……」

もう一度、着物を見る。

「似合うと思うよ」

軽く言われる。



少しだけ、間を置く。


「……借りる」

小さく言う。


「どうぞ」

母が頷く。


着替える。

帯を締める。

鏡の前に立つ。


いつもの自分じゃない。

少しだけ、大人びて見える。


落ち着いているのに。

どこか、強さもある。

視線を逸らす。



ドアを開ける。

廊下に出る。

リビングの前で、

足が止まる。


深く息を吸う。

それから。

扉を開ける。


陽翔が、そこにいた。

一瞬、動きが止まる。

「……似合ってる」

小さく言う。



その言葉。

短いのに、ちゃんと届く。

目を逸らす。

「……ありがと」

ぶっきらぼうに返す。


それでも。

少しだけ、

嬉しかった。




 山道を登る。

提灯の灯りが、一定の間隔で並んでいる。

夜の空気は少しだけ涼しい。


隣を歩く。

陽翔の歩幅に合わせる。

言葉は、ほとんどない。


それでも。

嫌な沈黙じゃなかった。 



やがて、見えてくる。

久世庵。

その先に続く道。

「ここで合流って言ってたよね」


陽翔が小さく言う。

「……うん」

頷く。



視線を向ける。

門の前。

「陽くん!」

明るい声。


ネメシスが手を振っている。

紫の着物。

いつもとは違う、落ち着いた雰囲気。


その隣。

森野ひなた。

そのさらに隣に、見慣れない男性。

「こんばんは」

ひなたが軽く頭を下げる。

「こっちは旦那の神谷」


「どうも」

神谷が穏やかに笑う。


「……」

軽く会釈する。


ネメシスが、こちらに近づく。

「唯菜さん、似合ってるね」

自然に言う。


少しだけ目を逸らす。

「……ありがと」

小さく返す。



ふと、横を見る。


陽翔。

さっきと同じ顔。

穏やかで。普通で。 



みんなが揃う。

賑やかなはずの空気。


でも。胸の奥だけ

少しだけ静かだった。

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