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5/8

5ヶ月目 日常

 二泊三日の久世庵での時間は、あっという間に終わった。

気づけば、いつもの家。

いつもの道。

いつもの生活に戻っていた。



玄関のドアを閉める。

聞き慣れた音。

見慣れた景色。


変わっていないはずなのに、

少しだけ違って見える。


「……ただいま」

自然に口から出る。

前より、少しだけ軽い声。


靴を脱いで、部屋に向かう。

途中で、足が止まる。



あの部屋。

ドアの前。

前なら、特に何も思わなかった場所。


軽くノックする。

「陽翔」

名前を呼ぶ。

自然に。


「……どうぞ」

中から声が返る。


ドアを開ける。

いつもの部屋。

でも。

そこにいるのは、

前と同じじゃない気がした。


「何」

陽翔が振り返る。


「……別に」

反射的に返す。

でも、少しだけ間を置いて。

「……ちょっと話そうと思って」

自分でも少し驚く。

前なら、絶対に言わなかった。



陽翔は、少しだけ目を見開く。

それから、小さく頷く。

「……うん」


部屋に入る。

静かな空間。

でも、前みたいな重さはない。



少しだけ間。

「……あのさ」

言葉を探す。

「……動画」

短く言う。

「見た?」


「……見た」

陽翔が、すぐに答える。


少しだけ視線を逸らす。

「……どうだった」

聞くのが、少しだけ怖い。



陽翔は、少しだけ考える。

それから。

「……良かった」

短く、でもはっきり。



その一言。

胸の奥に、静かに落ちる。

「……そっか」

小さく返す。


それだけなのに、

少しだけ安心する。



少しの沈黙。

でも。

前みたいに、気まずくない。


ふと、思う。

(……なんか)


この感じ。

悪くない。

小さく息を吐く。

それから。

「……ありがと」

ぼそっと言う。


陽翔が、少しだけ驚いた顔をする。

「……何が」


「……いろいろ」

曖昧に返す。

ちゃんと伝わってる気がした。



陽翔は、少しだけ笑う。

ほんの少しだけ。


その表情を見て。

自分も、少しだけ肩の力が抜ける。




 ネメシスと一緒に歌った動画は、想像以上に広がった。

一日も経たないうちに、再生数は跳ね上がる。


コメントも、止まらない。

スマホの画面を見つめる。

数字が増えていく。

現実感がない。


ネメシスの名前が並ぶ中に、

自分の声も、確かにある。

でも、それだけじゃなかった。



「誰、この子」

「ネメシスの隣の子うまくない?」

「新人?」

「声好きなんだけど」



指が止まる。

スクロールする。


考察。

噂。

勝手な予想。


「久世庵の関係者?」

「裏方の人?」

「実は新人歌手説ある」

「顔出ししないの逆に気になる」



胸の奥が、ざわつく。

知らない人たちが、

好き勝手に言っている。

自分のことを。



息が、少し浅くなる。

嬉しいはずなのに。

認められたはずなのに。

落ち着かない。


スマホを伏せる。

画面が消える。


静かになる。

でも、頭の中は静かじゃない。


(……こんなの)

知らなかった。

声が届くって、

こういうことなんだ。


ふと、視線を上げる。

リビング。

いつもの場所。


でも、

もう前と同じ気持ちではいられなかった。




 スマホが震える。

画面を見る。

ネメシスからのメッセージ。


少しだけ、指が止まる。

それから開く。


『おめでとう』

短い一言。


そのあとに続く文章。

『唯菜さん、もう歌手デビューしたね』



目が止まる。

デビュー。

その言葉が、やけに重い。

スクロールする。


『また撮影したかったらさ』

『陽くんと一緒に久世庵に来るといいよ』


『スタッフには話つけておくから』

『自由に来てね』



読み終える。

スマホを持ったまま、動けない。


自由に。

何度でも。

あの場所に。


頭の中に浮かぶ。

スタジオ。

マイク。

あの時の感覚。


楽しかった。

それは、間違いない。



でも。

同時に浮かぶ。


コメント。

知らない人の言葉。

勝手な想像。


胸の奥が、少しだけざわつく。

スマホを強く握る。

「……」

(……どうするの)


また、あそこに行くのか。

また、歌うのか。

嬉しいはずなのに。

素直に飛びつけない。



ふと、思う。

この話。

陽翔は、

どう思ってるんだろう。




 廊下を歩く。

足取りは、少しだけ重い。


考えても答えが出ない。

だから、聞くしかない。


コンコン。

軽くノックする。

「陽翔」

名前を呼ぶ。


「……どうぞ」

すぐに返事がくる。

ドアを開ける。



部屋の中。

いつもの光景。

でも、自分の中は落ち着かない。


「……どうしたの」

陽翔が振り返る。


「……ちょっと」

言葉を探す。

「……相談」


その一言で、陽翔の表情が少し変わる。

「……うん」

短く頷く。



少しだけ間を置く。

「……あのさ」

視線を逸らす。

「……コメント」

それだけで、伝わる気がした。


陽翔は、すぐに答えない。

少しだけ考えてから、口を開く。

「……最初」

ゆっくり話し始める。

「俺も、同じ感じだった」

思わず顔を上げる。



「動画編集、任された時」

淡々と続ける。

「コメント、結構きつかった」


少しだけ、間。

「下手って言われた」

短く言う。

「安い下請けに出したのかって」


胸が、少しだけ締まる。

陽翔は、止まらない。


「ネメシスの株が下がったら、お前のせいだって」

言葉が、重く落ちる。



想像する。

その画面。

その言葉。

今の自分と、重なる。


陽翔は、視線を画面に戻す。

「最初は、結構あった」

淡々とした言い方。


でも。

その中にある重さは、ちゃんと伝わる。

言葉が出ない。


ただ一つ、わかること。

自分だけじゃない。


同じ場所を、

もう通ってる人が、目の前にいる。




 言葉が続かない。

さっきの話が頭の中で回り続ける。

わかってる。


陽翔も同じだったこと。

それでも続けたこと。


でも。

「無理かも」

小さく漏れる。

自分でも驚くくらい弱い声だった。

陽翔が少しだけ顔を上げる。


視線が合う。

逸らせない。


「怖い」

言葉が止まらなくなる。

「知らない人に勝手に言われて、見られて」

息が少し乱れる。


「なんか……」

そこで言葉が詰まる。


うまく説明できない。

気づいたら目が潤んでいた。

手で押さえようとする。


でも止まらない。

ぽつりと涙が落ちる。

こんなの、誰にも見せたことがない。

どうしていいかわからない。



「お姉ちゃん」

陽翔の声が近くなる。

気づいたら距離が縮まっていた。


肩に手が置かれる。

強くはない。

でも、離れない。


「お姉ちゃんは」

陽翔は少しだけ間を置く。

「俺が支えるから」

その言葉がまっすぐ落ちる。


顔を上げる。

陽翔は逸らさない。

ちゃんとこっちを見ている。


「だから」

少しだけ声が柔らぐ。

「お姉ちゃんのやりたいこと、して」

言葉が出ない。

不安が消えたわけじゃない。


それでも。

一人じゃないと、初めて思えた。


小さく息を吐く。

「ばか」

涙声のまま呟く。

それでも、少しだけ笑っていた。




 「お姉ちゃんを泣かすやつは、俺が許さない」

陽翔が、はっきり言う。

迷いのない声だった。


さっきまでの涙が、少しだけ引く。

その言葉に、変に安心している自分がいる。


「それに」

陽翔が続ける。

「もうすぐ夏が来る」

視線が少しだけ外に向く。

「本格的に始めるなら、この六月で準備しよう」


現実的な言い方。

でも、ちゃんと先を見てる。



言葉が出ない。

ただ、聞いている。

「今ならまだ間に合う」

陽翔が、少しだけ柔らかく言う。


「無理しすぎなくていいけど」

一瞬だけ間を置く。

「やるなら、ちゃんと支える」


胸の奥が、じわっと温かくなる。

さっきまでの不安とは違う感覚。


小さく息を吐く。

「……ほんと、勝手」

ぼそっと言う。

でも、声は弱くない。


陽翔は少しだけ笑う。

何も言い返さない。



視線を落とす。

考える。

怖さは消えていない。


それでも。

少しだけ、前を見る。


「……やる」

小さく言う。

でも、はっきりと。

「ちゃんと、やってみる」


陽翔が、静かに頷く。

それだけで十分だった。




 「まずはキャラ決めからだね」

陽翔が、画面を見ながら言う。

さっきまでの空気とは少し違う。

完全に、作る側の声。


「キャラって」

唯菜が眉を寄せる。

「そんなのいる?」


「いる」

即答だった。

「声だけでもいけるけど、それだと埋もれる」

視線は画面のまま。

「見た目も含めて“誰か”になる方がいい」


言い方が、少しだけ引っかかる。

でも、間違ってない気もする。



「お姉ちゃんの場合」

陽翔が少しだけこっちを見る。

「元々ダウナー寄りだから」

淡々と分析する。

「黒を基調にした方が合う」


「……黒」

小さく繰り返す。


「少し露出あった方が、映えると思う」


「は?」

思わず顔を上げる。

「なんでそうなるの」


「理由ある」

陽翔は真顔のまま続ける。

「視線を引く要素が必要」

「ただ暗いだけだと弱い」



ぐうの音も出ない。

「……なんか」

腕を組む。

「やたら詳しくない?」 


「仕事だから」

あっさり返される。


「……」

一瞬だけ言葉に詰まる。

でも。

否定はできない。


「……」

少し考える。

「黒は……まあいいけど」

ぼそっと言う。

「露出は考える」


「うん、それでいい」

陽翔がすぐに頷く。

押し付けない。

でも、ちゃんと方向は示してくる。



画面を見る。

ラフ案がいくつか並んでいる。

さっきまでの不安とは違う。

少しだけ、現実味が出てきた。


(ほんとにやるんだ)

小さく、そう思った。




 「じゃあ、次」

陽翔が画面を閉じる。

「実際に揃えよう」


「……は?」

唯菜が顔を上げる。

「揃えるって」


「衣装とか」

当たり前みたいに言う。

「さっき言ったやつ」



一瞬、止まる。

頭の中で、言葉が追いつく。

「……買うの?」


「買う」

即答だった。

「見た目も含めて作るなら、ちゃんとやる」


逃げ道がない。

少しだけ考える。


外に出る。

店に行く。

選ぶ。

現実味が一気に増す。

「……今から?」


「今じゃなくてもいいけど」

陽翔が軽く言う。

「早い方がいい」


「……」

視線を逸らす。

(……めんどくさ)

正直な気持ち。


でも。

やるって言った。

さっき、自分で。


「……」

小さく息を吐く。

「……行く」

短く言う。

ぶっきらぼうに。


陽翔が少しだけ頷く。

「じゃあ、準備して」


「……はいはい」

適当に返す。



でも。

立ち上がる。

部屋を出る。

足取りは重くない。


むしろ。

少しだけ、

前に進んでる感じがした。




 店の中を歩く。

照明が明るい。

鏡が多い。


「これ」

陽翔が迷いなく一着取る。

黒を基調にした服。

シンプルだけど、ラインがはっきりしている。

「着てみて」


「……は?」

反射的に返す。

「なんでそんな即決なの」


「合いそうだから」

あっさり言う。


納得はできない。

でも。

「試すだけでいい」

そう言われると、断りにくい。


「……わかった」

小さく返す。

試着室に入る。

カーテンを閉める。


「……」

服を広げる。

さっき選ばれたやつ。


着る。

鏡を見る。

思っていたより、悪くない。


でも。

落ち着かない。


「どう?」

外から声がする。


「……別に」

とりあえず返す。


「出てきて」


「……」

少しだけ迷う。

でも、そのままカーテンを開ける。


陽翔の視線が向く。

じっと見る。

なんか、落ち着かない。


「……どうなの」

少し強めに言う。


「……いい」

短く返ってくる。

でも、その声。

少しだけ満足そうだった。



そのまま、別の服を差し出される。

「次これ」


「ちょっと待って」

思わず言う。

「多くない?」


「まだ足りない」

真顔で返される。


また試着室に戻る。

着替える。

出る。

また見る。


「次」


「……」

繰り返し。

完全に、着せ替え人形みたいだった。

何回目かわからなくなる。


ふと、陽翔を見る。

表情が少しだけ明るい。

いつもより、わかりやすい。


「……」

(……なんか)

嬉しそう。

ただ服を選んでるだけなのに。


理由はわからない。

でも。

さっきより、

少しだけ悪くないと思っている自分がいた。




 「これでいいかな」

陽翔が、選んだ服をまとめる。


数着。

黒を基調にしたコーデ。

方向性ははっきりしている。


「……」

唯菜は鏡を見る。

さっきまで何度も着替えた服。

その中で選ばれたもの。


似合っているとは思う。

でも。

少しだけ、引っかかる。


「どうしたの」

陽翔が気づく。


「……別に」

反射的に返す。

でも、視線は鏡のまま。



少しだけ間を置く。

「……なんかさ」

ぼそっと言う。

「こんなに着替えたのに」


振り返る。

「何もないの?」 

少しだけ不満が混じる。


陽翔が一瞬だけ止まる。

それから。

「あるよ」

あっさり言う。


「この服とは別に」

少しだけ視線を向ける。

「好きなの買っていい」


「……は?」

思わず聞き返す。

「なんで」


「頑張ったから」

短い答え。


言葉に詰まる。

「……別に頑張ってないし」

一応、否定する。


でも。

少しだけ嬉しい。

「何でもいい?」

少しだけトーンが変わる。


「いいよ」

迷いのない返事。



視線を店内に向ける。

さっきまではただの服だった場所。

でも今は、

少しだけ違って見える。



歩き出す。

気づけば、

さっきより足取りが軽くなっていた。




 気づけば、袋が増えていた。

一つや二つじゃない。


「……買いすぎ」

小さく呟く。

自分でもわかってる。


「いいんじゃない」

陽翔があっさり言う。

「必要なものだし」


「……」

必要かどうかは、怪しい。

でも。

否定はしない。


レジに向かう。

「全部でこちらになります」

店員の声。

金額を聞いて、少しだけ固まる。


「……」

横を見る。

陽翔は、迷わずカードを出す。

「これで」

淡々とした動き。


「……いいの?」

思わず聞く。


「いいよ」

短く返ってくる。

それ以上は何も言わない。



会計が終わる。

袋はそのまま配送に回される。

手ぶらになる。


外に出る。

空気が少しだけ軽い。

さっきまでの緊張が、少しだけ抜ける。


歩きながら、ふと口が動く。

「……甘いの食べたい」

ぼそっと言う。


陽翔が少しだけこっちを見る。

「どこ行く?」

すぐに返してくる。



一瞬、考える。

でも。

「……任せる」

軽く言う。

さっきより、少しだけ自然に。


陽翔が頷く。

「じゃあ、いいとこある」


「……ほんとに?」

少しだけ疑う。


「ある」

迷いのない返事。

そのまま歩き出す。

隣をついていく。 


気づけば、

さっきまでよりずっと軽い気持ちで歩いていた。




 案内された店の前で足が止まる。

落ち着いた外観。

木の看板。

地元でも有名な、老舗の和菓子店。


「ここ」

陽翔が短く言う。


「……知ってる」

思わず返す。

「並ばないと入れないとこじゃん」


「今日は空いてる」

タイミングがいいらしい。



中に入る。

甘い香り。

静かな空気。

少しだけ、背筋が伸びる。


席に案内される。

メニューを見る。

どれも美味しそうで迷う。


「これいいな」

小さく呟く。


「じゃあ、それにしよ」

陽翔がすぐに決める。

注文を終える。


その時。

店員が少しだけ微笑む。

「カップル割、適用されますがいかがされますか?」


「……」

空気が止まる。


「……は?」

思わず声が出る。 

「カップル割?」

聞き返す。


「はい、二名様でのご利用で適用可能です」

丁寧な説明。


でも。

横を見る。

陽翔は、特に驚いた様子もない。


「……」

一瞬だけ考える。

(……どうするの)

否定するのは簡単。 


変な沈黙が続く。

店員は、待っている。


小さく息を吐く。

「……どうするの」

小声で聞く。


陽翔にだけ聞こえる距離で。

「どっちでもいい」

あっさり返ってくる。



丸投げ。

少しだけ、考える。

ほんの数秒。

「……」

それから。

「……適用で」

ぼそっと言う。 


店員に向けて。

「かしこまりました」

すぐに返ってくる。



顔が少しだけ熱い。

視線を逸らす。


横を見る。

陽翔は、何も言わない。

ただ、少しだけ表情が緩んでいた。

「……」

(……なんなの)

小さく思う。


でも。

さっきとは少しだけ違う意味だった。




 運ばれてきた和菓子。

上品な甘さ。

見た目も綺麗で、崩すのが少しもったいない。


「……いただきます」

小さく呟く。

一口食べる。

「……おいしい」

思わず本音が出る。


「でしょ」

陽翔が少しだけ満足そうに言う。


しばらく無言で食べる。

静かな時間。

落ち着くはずなのに、

どこか、さっきの空気が残っている。



陽翔が、ふと口を開く。

「唯菜と俺さ」


名前で呼ばれる。

自然に。


「姉弟だけど」

そこで一瞬だけ言葉を区切る。

「血は繋がってないから」


「……」

手が止まる。

視線が、少しだけ揺れる。


続く言葉を、待ってしまう。

「……いいと思うよ」

静かに言われる。


意味が、すぐには飲み込めない。

でも。

わかる。

心臓が、少しだけ強く鳴る。


「……なにが」

あえて聞く。

わかっているのに。


「……」

陽翔は、少しだけ視線を逸らす。

「……そのまま」

曖昧な返し。


でも。

それで十分だった。

空気が変わる。

さっきまでの甘さとは違う。

少しだけ、重い。


「……」

唯菜は視線を落とす。

和菓子。

形は綺麗なまま。 


何も言えない。

否定も、

肯定も。


ただ。

さっきまでとは違う意味で、

落ち着かなかった。


  


 「僕はさ」

陽翔が、少しだけ声を落とす。

さっきよりも静かなトーン。


「もし、お姉ちゃんと付き合っても」

一瞬だけ言葉を区切る。

「全然構わないし」


視線を外したまま続ける。

「むしろ、嬉しい」


「……」

胸の奥が、強く鳴る。

冗談じゃない。

軽い感じでもない。

ちゃんとした言葉。 


逃げたくなる。

でも、目は逸らせない。

 


陽翔が、少しだけ息を吐く。

それから。

「だけど」

短く区切る。

「お姉ちゃんは」


そこで止まる。 

言い切らない。

押しつけない。


問いだけが残る。

視線がぶつかる。

逸らせない。


「……」

言葉が出ない。

何を言えばいいのか、わからない。


ただ一つだけ、わかる。

今までの関係には、

もう戻れない。




 「……血は繋がってないけど」

唯菜が、ゆっくり口を開く。

言葉を選びながら続ける。


「姉弟だから、考えたことなかった」

視線は、テーブルの上。

陽翔を見れない。


「……」

少しだけ息を吸う。

「だから」

そこで一瞬だけ迷う。

それでも。


「今のままで——」

言い切ろうとした、その瞬間。


「……っ」

鈍い音。

椅子が揺れる。


「……?」

顔を上げる。

「……陽翔?」


目の前で、陽翔が体を押さえている。

胸のあたりを、強く。


「ちょっと、何して——」

言いかけて止まる。

様子が、おかしい。


「……っ」

息が荒い。

顔色が、一気に悪くなる。


「ちょっと待って」

立ち上がる。

「陽翔?」


近づく。

手を伸ばす。


「……っ」

そのまま、崩れる。

床に倒れる音。


「……え」

思考が止まる。

「……ちょっと」

声が震える。

「陽翔」


反応がない。


「ねえ」

しゃがみ込む。

肩に触れる。

「……起きて」

返事がない。


「……」

頭が真っ白になる。

さっきまで、普通に話してたのに。


心臓の音だけが、うるさい。

「……誰か」

やっと声が出る。


「誰か!」

店内に、声が響く。


「……」

さっきまでの空気が、

全部、壊れていた。




 サイレンの音が近づく。

店の前に、救急車が止まる。


「こちらです!」

店員の声。

慌ただしく人が動く。


「意識レベル確認します」

救急隊員がしゃがみ込む。

「名前、言えますか」


「……」

返事がない。


「反応弱いですね」

短いやり取り。

そのまま、ストレッチャーに乗せられる。

「搬送します」


「……」

唯菜は動けない。

ただ見ているだけ。


「ご家族の方、同行されますか」

声をかけられる。


「……はい」

反射的に答える。

気づいたら、救急車に乗り込んでいた。



ドアが閉まる。

サイレンが鳴る。

車が動き出す。


狭い空間。

揺れる視界。

「血圧低下してます」

「酸素つけます」

淡々とした声が飛ぶ。


唯菜は、ただ陽翔を見る。

横たわる体。

さっきまで動いていたのに。


顔色が、どんどん悪くなる。

さっきより白い。

明らかに、おかしい。


「陽翔」

呼ぶ。

声がうまく出ない。 


返事はない。

「ねえ」

もう一度。

「聞こえてる?」


手を伸ばす。

冷たい。


指先が、震える。

さっきまでの言葉が頭に残る。


“支えるから”

“やりたいことして”


胸が締まる。

何もできない。


ただ、

見ていることしかできなかった。




 白い天井。

ゆっくりと視界が戻る。

機械の音が、一定のリズムで鳴っている。


「……」

体が重い。

息を吸うと、少しだけ違和感がある。


「……ここ」

小さく呟く。


病室。

すぐに理解する。

記憶が戻る。


店。

言葉。

途中で止まった会話。



ゆっくりと視線を動かす。

ベッドの横。

椅子。


そこに、唯菜がいた。

手を繋いだまま、うつむいている。

眠っているみたいだった。


指先に、ぬくもりを感じる。

しっかり握られている。



顔を見る。

少しだけ乱れた髪。

目元に、乾いた跡。

泣いていたのが、すぐにわかる。


胸の奥が、少しだけ痛む。

さっきとは違う意味で。


手を、少しだけ動かす。

それだけで。

唯菜が、ゆっくり目を開ける。



一瞬、焦点が合わない。

それから。

「……陽翔?」

声が震える。


ちゃんと見ている。

「……起きてる」

小さく言う。



その瞬間。

表情が崩れる。

「……よかった」

かすれた声。



握る力が、少しだけ強くなる。

言葉は少ない。

でも。

それだけで十分だった。




 病室のドアが開く。

「陽翔!」

母の声。

少し遅れて、父も入ってくる。


「……」

二人とも、息を切らしている。

急いできたのがわかる。


「大丈夫か」

父が低い声で聞く。


陽翔は少しだけ視線を向ける。

「……大丈夫」

短く答える。

無理をしているのが、わかる声。


母がベッドのそばに寄る。

安心したように、肩の力を抜く。

「よかった……」

小さく呟く。



その横で。

父は、少しだけ違う顔をしていた。

じっと陽翔を見る。


それから、ぽつりと。

「そろそろなんだな」


「……?」

唯菜は顔を上げる。

意味がわからない。



陽翔が、少しだけ眉を寄せる。

「まだ」

短く言う。

それから、息を整えるようにして。

「……いける」



二人の会話。

噛み合っているのに、

内容がわからない。


唯菜は、母を見る。

でも。

母も、何も言わない。

ただ少しだけ視線を落とす。


空気が、変わる。

さっきまでの安心とは違う。

重くて、

触れちゃいけない感じ。 


唯菜だけが、

置いていかれている。

そんな感覚だった。



 

 「……何の話?」

唯菜が、はっきり聞く。

さっきの会話。

聞き流せるものじゃない。


「そろそろって、何」

視線を父に向ける。


「……」

父は答えない。

一瞬だけ目を合わせて、

すぐに逸らす。


「……ねえ」

もう一度、強く言う。

「何かあるなら言ってよ」 



沈黙。

重い空気。

母も、何も言わない。

ただ、手を握ったまま。


苛立ちが混ざる。

「なんで黙るの」

声が少しだけ強くなる。

「私だけ知らないの、おかしくない?」



その時。

「……お姉ちゃん」

陽翔が、静かに呼ぶ。


「……」

視線を向ける。

陽翔は、少しだけ息を整える。

それから。


「……今は言えない」

はっきり言う。


「……は?」

思わず声が出る。

「なんで」

すぐに返す。


「……」

陽翔は、視線を逸らさない。

「……これからの」

言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。

「お姉ちゃんの歌手人生に」


静かに続ける。

「影響が出るかもしれないから」



意味がわからない。

いや、わかりたくない。


「……何それ」

小さく呟く。

「私のためってこと?」


「……」

陽翔は、否定しない。

それが、余計に引っかかる。

胸の奥がざわつく。


守られてる。

でも。

隠されてる。


その二つが、

同時に存在していた。




 軽い点滴だけで済んだ。

大事には至らなかった。

そう説明は受けた。

それでも、安心はできなかった。


父の車に乗る。

誰も、ほとんど話さない。

エンジン音だけが響く。


窓の外を見る。

見慣れた景色が流れていく。

なのに、どこか遠く感じる。


さっきの言葉が頭から離れない。


“そろそろなんだな”

“今は言えない”


「……」

隣を見る。

陽翔は目を閉じている。

眠っているのか、ただ黙っているのかはわからない。


声をかける気にはなれなかった。


家に着く。

車を降りる。

「……ただいま」

誰に向けたわけでもない声。


リビングを通る。

いつもの場所。

でも、空気が違う。

重いまま、残っている。


陽翔は、そのまま自分の部屋に向かう。

足取りが遅い。

呼び止めることもできた。


でも。

何も言えなかった。


ドアが閉まる音。

小さく響く。


その音だけが、

やけに大きく感じた。




 部屋に戻る。

ドアを閉める。

静かになる。


「……」

さっきまでの空気が、まだ残っている。

重くて、息が詰まりそうな感じ。


ベッドに座る。

何も考えたくないのに、

頭は止まらない。



スマホが震える。

短い通知音。

画面を見る。

ネメシスからのメッセージ。


指が少しだけ止まる。

それでも開く。


『来週から夏シーズン始まるんだけど』

軽い調子の文章。

『曲、出さない?』


その一文で、時間が止まる。

さっきまでの現実と、

まるで違う世界の言葉。


「……」


夏。

新曲。

活動。

全部、前に進む話。 


でも。

頭に浮かぶのは別のこと。


病室。

父の言葉。

陽翔の表情。


スマホを握る手に力が入る。

(今、このタイミングで?)

そう思う。


でも。

チャンスだともわかってる。


胸の奥が揺れる。

進みたい気持ちと、

止まりたい気持ち。


画面を見つめる。

返信欄。

まだ、何も打っていない。


どうするか。

決めないといけない。

そんな気がした。


 


 スマホを握ったまま、動けない。

返信欄は空白のまま。


その時。

コンコン、と軽くノックが鳴る。

「お姉ちゃん」

陽翔の声。


「……入って」

短く返す。

ドアが開く。


さっきより顔色は戻っている。

でも、完全じゃない。


視線が合う。

少しだけ間ができる。

「……来てたでしょ」

陽翔が言う。

「ネメシスさんから」


「……」

頷く。


陽翔は少しだけスマホを見てから、顔を上げる。

「やろう」

はっきり言う。


迷いがない。

「このチャンス、物にできれば」

一瞬だけ間を置く。

「進める」



その言葉。

強くて、まっすぐで。

少しだけ、遠く感じる。



唯菜はすぐに返せない。

頭の中に浮かぶのは、

さっきの出来事。


倒れた瞬間。

父の言葉。

同じ通知を見てるはずなのに。

見えてるものが、違う気がする。


小さく息を吐く。

「……そんな簡単に言うけど」

ぽつりと返す。

「今の状態で?」


少しだけ、棘が混じる。

陽翔は黙らない。

「今だからだよ」

すぐに返す。

「止まったら、戻れなくなる」


「……」

その言葉が、刺さる。

でも。

納得はできない。


視線を逸らす。

「……私は」

そこまで言って、止まる。

言葉が出てこない。


やりたい。

でも、怖い。

その二つが混ざっている。


部屋の中に、

微妙な沈黙が落ちる。

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