4ヶ月目 非日常
久世庵に到着する。
門をくぐった瞬間、空気が変わる。
静かで、でも張り詰めてるわけじゃない。
落ち着いてるのに、どこか特別な感じ。
「……」
思わず、足が止まる。
(……すご)
言葉には出さない。
でも、はっきり思う。
画面で見てた場所。
でも、実際はそれ以上だった。
「お姉ちゃん」
陽翔が、小さく声をかける。
「……何」
少しだけ遅れて返す。
「……こっち」
軽く手を引かれる。
「……」
そのまま、ついていく。
違和感は、もうほとんどない。
奥へ進む。
砂利の音が、静かに響く。
その時。
「お待ちしておりました」
落ち着いた声。
顔を上げる。
そこにいたのは——
久世庵当主、エーテル。
その隣に、
女将であり妻の、かや。
一瞬、言葉が出ない。
(……え)
完全に、想像の中の人。
それが、目の前にいる。
「遠いところ、ようこそ」
かやが、やわらかく微笑む。
「……」
反応が遅れる。
(……やば)
どうすればいいかわからない。
「……あ、えっと」
言葉がうまく出ない。
軽く頭を下げる。
それが精一杯。
ふと、横を見る。
陽翔は——
少しだけ前に出ていた。
さっきまでの感じと、少し違う。
「来たよ」
短く言う。
自然に。
「ああ」
エーテルが、静かに頷く。
「待っていた」
その一言。
「……」
(……は?)
頭が追いつかない。
(……なにこの空気)
明らかに、知ってる感じ。
それも、ただの知り合いじゃない。
「……」
視線が、陽翔に向く。
陽翔は、こっちを見ない。
でも。
その立ち方が、
少しだけ違って見えた。
(……なにそれ)
胸の奥が、少しだけざわつく。
ここに来てまた一つ、
知らなかった“あいつ”が見えてきた。
部屋へ案内される。
廊下を歩く。
木の床が、静かに音を立てる。
「……」
隣を歩く陽翔。
さっきまでと同じはずなのに、
少しだけ、違って見える。
「陽翔くん、元気?」
前から来たスタッフが、声をかける。
「……うん」
短く返す。
でも、その声。
少しだけ自然だった。
「陽ちゃん、今日のご飯楽しみにしといてね」
別のスタッフが、笑いながら言う。
「……うん」
また、同じ返事。
でも——
「……」
(……陽ちゃん?)
引っかかる。
さっきまでの呼び方と、違う。
「陽翔!あとで庭の手入れ手伝ってくれんか?」
少し年配のスタッフが、気軽に声をかける。
「……あとで行く」
迷いなく答える。
「助かるわ」
そのやり取り。
自然すぎる。
「……」
足が、少しだけ止まりそうになる。
(……なにこれ)
知らない。
こんなの、知らない。
横を見る。
陽翔は、普通に歩いてる。
気にした様子もない。
当たり前みたいに。
「……」
胸の奥が、少しだけざわつく。
(……なんで)
家では、
ほとんど部屋にいて、
あまり話さなくて、
小さい声で。
なのに、ここでは——
普通に話して、
普通に頼まれて、
普通に返してる。
「……」
(……誰?)
思わず、そんな言葉が浮かぶ。
違う人みたい。
でも。
同じ人。
頭が、追いつかない。
部屋の前で、足が止まる。
「こちらです」
スタッフが、扉を開ける。
中に入る。
広い部屋。
落ち着いた空間。
でも。
それよりも。
さっきの光景が、
頭から離れなかった。
部屋の中。
静かな空気。
でも——
唯菜の中だけ、落ち着かない。
さっきの光景が、頭から離れない。
陽翔。
スタッフ。
“陽ちゃん”。
あの自然な会話。
「……」
横を見る。
陽翔は、いつも通りの顔。
でも、さっきと同じ人には見えない。
気づいたら、口が動きかけていた。
「……ねえ」
少しだけ、声が出る。
「さっきの——」
その瞬間。
「……」
指が、唇に触れる。
「……っ」
一瞬、言葉が止まる。
近い。
思ってたより、距離が近い。
「……」
陽翔の指。
静かに、でもしっかりと。
言葉を止めるように。
「……ここでは」
小さな声。
誰にも聞こえないくらい。
「……言わないで」
目が合う。
さっきより、少しだけ真剣な目。
言い返そうとして、
止まる。
(……なんで)
聞きたい。
でも。
今はダメって、はっきり伝わる。
ゆっくり、指が離れる。
でも、その距離はまだ近いまま。
「……あとで」
陽翔が、小さく言う。
「……ちゃんと話すから」
その一言。
少しだけ、引っかかる。
でも——
さっきみたいに、
完全に閉ざされてるわけじゃない。
「……」
小さく、息を吐く。
「……わかった」
短く、そう返す。
少しだけ、不満は残る。
でも。
無理に聞き出そうとは思わなかった。
陽翔は、少しだけほっとした顔をする。
ほんの少しだけ。
その表情を見て。
さっきの違和感が、
少しだけ変わる。
まだ、わからない。
でも。
“知らないまま”じゃなくなりそうな気がした。
部屋で一息ついたあと。
「じゃあ、私たちは少し回ってくるね」
母が、いつもの調子で言う。
「久世庵、久しぶりだから」
父も、少し楽しそうに続ける。
「……」
嫌な予感がする。
「唯菜は——」
母の視線が、こっちに向く。
「陽翔くんと一緒に回ってきなさい」
「……は?」
思わず、声が出る。
「なんで」
「いいじゃない」
軽く笑う。
「せっかくなんだから」
「……」
納得できない。
でも。
「じゃ、後でね」
それだけ言って、
あっさり出ていく。
「……」
止める間もなかった。
ドアが閉まる。
静かになる。
二人きり。
気まずい。
——はずなのに。
前みたいな重さはない。
「……」
ちらっと横を見る。
陽翔が、こっちを見ていた。
目が合う。
少しだけ、逸らす。
でも、完全には外さない。
少しだけ、間。
「……行く?」
陽翔が、小さく言う。
「……どこ」
少しだけ警戒を残したまま聞く。
「……いろいろ」
相変わらず、曖昧。
「……」
(……ほんと、雑)
心の中で思う。
でも。
「……」
さっきの“あとで話す”が、頭に残る。
小さく息を吐く。
「……案内して」
ぶっきらぼうに言う。
でも。
前みたいな拒絶じゃない。
「……うん」
陽翔が、少しだけ嬉しそうに頷く。
そのまま、並んで歩き出す。
さっきより、
少しだけ近い距離で。
久世庵の中を歩く。
砂利の音。
風の音。
遠くで水が流れる音。
「……」
静かで、でも退屈じゃない。
「こっち」
陽翔が、少し前を歩きながら振り返る。
「この庭、朝と夕方で雰囲気変わるんだよ」
「……へえ」
適当に返す。
正直、そこまで興味はない。
「あと、この道」
また続く。
「雨の日だと、音がちょっと違って」
「……ふーん」
また、適当な相槌。
それでも。
陽翔は、気にしない。
むしろ——
「……」
少しだけ、嬉しそう。
「……」
(……なんなの)
思わず、そう思う。
適当に返してるのに。
話、ちゃんと聞いてるわけでもないのに。
でも、止まらない。
次から次へと、説明してくる。
でもそれは、
押し付ける感じじゃなくて。
ただ、
“知ってることを共有したい”みたいな。
横顔を見る。
少しだけ、表情が明るい。
家にいる時より、はっきりしてる。
「……」
(……ほんとに同じ人?)
あの部屋にいる時と、
全然違う。
「……」
気づいたら、
少しだけちゃんと聞いてた。
「……それ、いつ覚えたの」
ぽつりと、聞く。
自分でも少し驚く。
「……え?」
陽翔が、少しだけ嬉しそうに反応する。
「前から」
短く答える。
でも、その声は少しだけ弾んでる。
また話し始める。
さっきより、少しだけ早口で。
「……」
(……わかりやす)
心の中で思う。
でも——
「……」
さっきほど、嫌じゃない。
むしろ、
少しだけ。
「……」
悪くない、と思ってしまった。
「……なんなの」
小さく呟く。
その意味は、
もうさっきとは少しだけ違っていた。
「陽くん!」
後ろから、明るい声。
一瞬、足が止まる。
(……今の)
聞いたことある。
何度も。
配信で。
ゆっくり、振り向く。
心臓の音が、少しだけ速くなる。
そこにいたのは——
ネメシス。
「……は?」
声が、勝手に漏れる。
思考が、止まる。
(……え)
目の前。
画面越しじゃない。
本物。
「陽くん、来てたんだ!」
ネメシスが、自然に笑う。
そのまま、陽翔に近づく。
「……」
距離が近い。
普通に話してる。
「久しぶり」
陽翔が、短く返す。
その声。
さっきまでと同じ。
でも——
状況が、全然違う。
「……」
(……なにこれ)
理解が追いつかない。
ネメシスの視線が、こっちに向く。
「あれ?」
少しだけ首を傾げる。
「もしかして——」
一歩、近づく。
「お姉さん?」
「……」
完全に固まる。
(……無理)
距離が近い。
顔が近い。
推しが、近い。
言葉が、出ない。
「……あ」
ネメシスが、少しだけ柔らかく笑う。
「初めまして」
自然な声。
配信と同じ。
でも、もっと近い。
「ネメシスです」
「……」
(……知ってる)
心の中でしか言えない。
「……」
視線が、陽翔に向く。
(……なんで普通なの)
この状況で。
さっきまでの“あいつ”が、
完全に別の存在に見える。
胸の奥が、強くざわつく。
驚きと混乱と
少しだけ——
置いていかれる感じ。
「……」
(……なにそれ)
その言葉の意味が、
また変わった気がした。
「緊張してるのかな?」
ネメシスが、少しだけ顔を覗き込む。
距離が、近い。
「……」
言葉が出ない。
逃げたいのに、動けない。
その時。
「……俺のお姉ちゃん」
(……は?)
嫌な予感。
「ネメシスさんの大ファンなんです」
「……は!?」
一気に顔が熱くなる。
「ちょっと——!」
思わず、陽翔の方を見る。
「何言ってんの!?」
声が、完全に素。
「……」
陽翔は、特に気にした様子もなく立ってる。
(……こいつ)
「違うし!」
反射的に否定する。
でも。
「え、そうなの?」
ネメシスが、少しだけ嬉しそうに反応する。
詰む。
完全に。
「……いや、その」
言葉が、まとまらない。
(……無理)
「……」
視線を逸らす。
でも、すぐ戻る。
目の前にいるから。
ネメシスが、少しだけ近づく。
「嬉しいな」
やわらかく笑う。
その表情。
配信で何度も見たやつ。
でも——
今は、目の前。
頭が、真っ白になる。
陽翔の方を見る。
(……後で覚えてろ)
完全に目で訴える。
でも。
「……」
ネメシスがいる。
逃げられない。
小さく、息を吸う。
「……まぁ」
諦めたみたいに、呟く。
「……好きだけど」
声は小さい。
でも、ちゃんと出た。
一瞬、沈黙。
それから——
「ありがとう」
ネメシスが、少しだけ優しく笑う。
「……」
もう、無理だった。
「陽くんはね」
ネメシスが、自然な調子で続ける。
「僕のアシスタントしてるんだよ」
「……」
一瞬、言葉の意味が遅れて入ってくる。
「……は?」
小さく漏れる。
ネメシスは気にせず、笑ったまま続ける。
「いつもはLINEでやり取りしててさ」
軽く指を動かしながら。
「動画の編集お願いしたりしてる」
「……」
(……ほんとに?)
頭が、追いつかない。
「でもね」
少しだけ楽しそうに。
「たまにこうやって来てくれて」
横にいる陽翔を見る。
「僕と遊んでくれるんだ」
その言葉。
妙に、軽くて。
でも——
重く刺さる。
「……」
視線が、陽翔に向く。
陽翔は、特に否定しない。
ただ、少しだけ視線を逸らしてる。
「……」
(……遊ぶ?)
その言葉が、引っかかる。
家での姿。
静かな部屋。
ほとんど動かない日常。
なのに。
ここでは。
推しと。
普通に。
「……」
胸の奥が、少しだけざわつく。
(……なにそれ)
理解できない。
でも。
全部、繋がってる。
ネメシスが、ふとこっちを見る。
「陽くん、すごいんだよ」
さらっと言う。
「センスあるし、丁寧だし」
「……」
続く言葉。
「僕、結構頼ってる」
「……」
その一言。
静かに、でも強く落ちる。
「……」
言葉が出ない。
(……知らなかった)
そんな顔。
そんな関係。
さっきまでの“あいつ”が、
また少し、
遠くに見えた気がした。
「陽くんのお姉さんなんだよね?」
ネメシスが、やわらかく笑う。
「……」
何も言えない。
ただ、頷くのが精一杯。
「じゃあ」
少しだけ、嬉しそうに。
「僕のお友達だね」
「……は?」
思考が、完全に止まる。
(……何言ってんの)
意味が、追いつかない。
「ね、LINE交換しよ?」
軽い調子で、スマホを取り出す。
「……」
(……無理)
頭が、処理できない。
推し。
目の前。
会話してる。
しかも——
「……LINE?」
かろうじて出た言葉。
「うん」
当たり前みたいに頷く。
「連絡取りたいし」
「……」
(……無理無理無理)
心の中で、連呼する。
でも。
断れる空気じゃない。
というか——
断りたくない。
「……」
手が、少しだけ震える。
ポケットからスマホを取り出す。
画面が、うまく見えない。
横を見る。
陽翔が、少しだけこっちを見ていた。
何も言わない。
でも——
どこか、面白がってるような顔。
(……後で絶対言う)
心の中で決める。
ネメシスが、少しだけ覗き込む。
「大丈夫?」
優しい声。
それで、余計に無理になる。
「……だいじょうぶ」
全然大丈夫じゃない。
でも、なんとか言う。
QRコードを出す。
手が、少しだけ震える。
「ありがとう」
ネメシスが、軽く読み取る。
「これで繋がったね」
「……」
画面を見る。
本当に、追加されてる。
推しの名前。
現実に。
「……」
頭が、追いつかない。
ただ一つだけ、わかること。
(……なんなの、これ)
現実がさっきからずっと、
おかしい。
「じゃあ、あとでね」
ネメシスが、軽く手を振る。
「新曲の撮影あるから」
そのまま、少しだけ振り返って。
「会おうね、陽くん」
自然に名前を呼ぶ。
それから——
一瞬だけ、こっちを見る。
「……唯菜さん」
「……」
呼ばれる。
名前を。
推しに。
何も言えない。
ただ、見てるだけ。
「じゃあね」
軽く笑って、
そのまま去っていく。
足音が遠ざかる。
気配が、消える。
静かになる。
風の音だけが、残る。
数秒。
何も考えられない。
やっと、息を吐く。
「……」
ゆっくり、現実が戻ってくる。
LINE。
会話。
名前。
全部。
「……」
(……なにこれ)
小さく、呟く。
さっきと同じ言葉。
でも、意味が全然違う。
「……」
隣に、陽翔がいる。
さっきと同じはずなのに。
もう、同じには見えない。
視線を向ける。
言いたいことが、ありすぎる。
でも。
何から言えばいいかわからない。
少しだけ、間。
その中で、
一番最初に出てきたのは——
「……なにそれ」
小さく、でもはっきりした声。
驚きでも、
怒りでも、
全部混ざった言い方。
でも。
その奥にある感情は、
さっきまでとは少し違っていた。
部屋のドアを閉める。
「……」
さっきまでの空気が、一気に遮断される。
静か。
でも、頭の中は全然静かじゃない。
「……ねえ」
振り返る。
「なにあれ」
抑えたつもりの声。
でも、少し強い。
陽翔は、特に驚いた様子もなく立っている。
「……説明して」
一歩、近づく。
「なんでああなるの」
少しの沈黙。
それから——
「……お姉ちゃん」
いつもの声。
でも、少しだけ柔らかい。
「……これが」
少しだけ間を置いて。
「サプライズだよ」
「……は?」
一瞬、言葉が止まる。
続けて、
「……リアクション」
少しだけ、口元が緩む。
「……可愛かったよ」
「……っ」
顔が、一気に熱くなる。
「な……!」
言い返そうとする。
でも、言葉が出ない。
(……なにそれ)
悔しい。
恥ずかしい。
でも——
完全に否定できない。
視線を逸らす。
「……最悪」
小さく呟く。
本気の嫌悪じゃない。
少しだけ沈黙。
ふと、思い出す。
団子。
招待状。
ネメシス。
全部。
ゆっくり、顔を上げる。
「……なんで」
もう一度、聞く。
今度は、少しだけ違う意味で。
「なんでこんなことするの」
陽翔は、少しだけ考える。
それから——
「……お姉ちゃんが」
小さく言う。
「……嬉しそうにするの」
一瞬、止まる。
「……見たかったから」
言葉が、止まる。
さっきまでの感情が、
少しだけ、形を変える。
怒りでも、
恥ずかしさでもない。
うまく言えない。
でも。
胸の奥が、少しだけ温かい。
小さく、息を吐く。
「……ほんと」
ぼそっと呟く。
「……意味わかんない」
でも。
その言葉の意味は、
最初とはもう全然違っていた。
「じゃあ、準備いい?」
ネメシスの声。
さっきまでの空気とは、少しだけ違う。
少しだけ、仕事の顔。
ここは、久世庵の地下。
静かな廊下の奥。
扉の向こう。
「……スタジオ?」
思わず、呟く。
「うん」
ネメシスが軽く頷く。
「ここで撮影してるんだ」
ドアが開く。
中は、思っていたより広い。
照明。
カメラ。
機材。
全部、ちゃんと揃ってる。
「……すご」
小さく漏れる。
完全に、別世界。
横を見る。
陽翔は、もう少しだけ前に出ていた。
「これ、チェックした?」
ネメシスが、自然に話しかける。
「……してる」
短く答える。
さっきとは違う声。
仕事の声。
「……」
(……なにそれ)
また、知らない顔。
ネメシスが、こっちを見る。
「唯菜さん」
名前を呼ばれる。
「ちょっとお願いしていい?」
「……は?」
一瞬、固まる。
「今回の新曲、ちょっとした裏方で出てもらえないかなって」
軽く言う。
でも——
内容は軽くない。
「……え?」
思考が止まる。
「……無理」
反射的に出る。
「いや、無理でしょ」
「大丈夫だよ」
ネメシスは、楽しそうに笑う。
「そんな難しいことじゃないし」
「……」
(いやいやいや)
無理。
完全に無理。
横を見る。
陽翔。
「……」
何も言わない。
でも。
少しだけ、こっちを見てる。
さっきの言葉が、頭に浮かぶ。
『楽しませるから』
「……」
小さく息を吐く。
「……何するの」
諦め半分で聞く。
「簡単だよ」
ネメシスが、軽く指を立てる。
「そこに立ってるだけ」
「……は?」
「ちょっとしたカットに使うだけ」
それだけ?
「……」
(……ほんとに?)
疑う。
でも。
断る理由も、少しだけ薄れてる。
視線を落とす。
それから——
「……少しだけなら」
ぼそっと言う。
「……やる」
「ほんと?」
ネメシスが、少しだけ嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
何も返さない。
でも。
さっきまでと違う。
ただ見るだけだった世界に少しだけ
足を踏み入れた気がした。
撮影が終わる。
「……はぁ」
思わず、息が漏れる。
思ってたより、疲れる。
でも——
「……」
嫌じゃなかった。
むしろ、
少しだけ。
変な感覚が残る。
「お疲れさま」
ネメシスが、軽く笑う。
「いい感じだったよ」
「……そう」
素っ気なく返す。
でも、少しだけ安心する。
「……」
陽翔が、少しだけ近づいてくる。
「……大丈夫?」
小さく聞く。
「……別に」
反射的に返す。
でも、前ほど尖ってない。
少しだけ、沈黙。
その時。
「ねえ」
ネメシスが、手を軽く叩く。
「次なんだけどさ」
嫌な予感。
「このシーンに合う歌、今から作るんだけど」
さらっと言う。
「……は?」
「一緒に歌ってくれない?」
「……は??」
完全に固まる。
「いや、無理でしょ」
即答。
「無理無理」
手を振る。
ネメシスは、少しだけ考えるようにしてから。
「大丈夫だよ」
また、同じことを言う。
「難しくないし」
「……いや、そういう問題じゃない」
視線が、陽翔に向く。
助けを求めるみたいに。
陽翔は、少しだけ考えて。
それから——
「……やってみたら」
小さく言う。
「……は?」
裏切られた気分。
「なんでそっち側なの」
陽翔は、少しだけ視線を逸らす。
でも。
「……お姉ちゃんの声」
少しだけ、間を置いて。
「……好きだから」
「……」
一瞬、止まる。
言葉が、出ない。
さっきと同じ。
ストレートすぎる。
胸の奥が、少しだけざわつく。
ネメシスが、静かに言う。
「無理にとは言わないけど」
少しだけ優しく。
「きっといいと思うよ」
沈黙。
頭の中で、いろいろ回る。
無理。
恥ずかしい。
やりたくない。
でも——
ここまで来て。
全部、見て。
関わって。
小さく、息を吐く。
「……少しだけ」
ぼそっと言う。
「……なら」
「ほんと?」
ネメシスが、少しだけ嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
「……」
何も返さない。
さっきより少しだけ。
怖くなかった。
「少しだけなら」
そう言ったあとも、落ち着かない。
胸の奥がざわついたまま、視線を逸らす。
「お姉ちゃん」
陽翔の声が、少しだけ真剣になる。
「何」
そっけなく返す。
陽翔は一瞬だけ言葉を止めて、それからゆっくり口を開いた。
「お姉ちゃんが、歌手になりたいって思ってるの」
間を置いて、続ける。
「知ってるから」
思考が止まる。
何も言えない。
「ネメシスに話したら、今回のこと引き受けてくれた」
静かに言われたその一言で、現実が追いついてくる。
「なんで知ってるの」
声が少しだけ震える。
陽翔は視線を落としたまま、短く答える。
「前に」
少しだけ間を置く。
「部屋の外で、歌ってたから」
息が詰まる。
思い出す。
誰もいないと思って、小さく歌っていた夜。
胸の奥が、じわっと熱くなる。
「聞かれてたんだ」
思わず小さく漏れる。
恥ずかしさと、戸惑いと、別の感情が混ざる。
陽翔はそれ以上触れない。
ただ、少しだけ顔を上げる。
「やってみてほしかった」
言葉を選びながら続ける。
「お姉ちゃんが、楽しそうにしてるとこ」
その一言で、胸の奥に何かが落ちる。
さっきまでの迷いが、少しだけ形を変える。
小さく息を吐く。
「ほんと、余計なことする」
ぶっきらぼうに言う。
でも、そのまま否定はしない。
視線を前に戻す。
マイク。
機材。
ネメシス。
逃げる理由が、少しだけ消えていた。
「じゃあ、いこうか」
ネメシスが軽く言う。
マイクの前に立つ。
距離が近い。
さっきまで見ていた存在が、同じ場所にいる。
「大丈夫?」
ネメシスが小さく聞く。
「……うん」
短く返す。
まだ緊張はある。
でも、逃げたいとは思わなかった。
「最初は自由でいいよ」
ネメシスが目を細める。
「感じたまま、出して」
小さく頷く。
息を整える。
静寂が落ちる。
それから、音が流れる。
ゆっくりと始まるメロディ。
最初の一音が出るまで、ほんの一瞬だけ迷う。
でも。
声が出た。
少しだけ震えている。
それでも、止まらない。
ネメシスの声が重なる。
柔らかくて、でも芯がある。
その声に引っ張られるように、自分の声も前に出る。
重なる。
ぶつかる。
逃げない。
抑えない。
気づいたら、考えていなかった。
どう聞こえるかも。
うまくやることも。
ただ、出す。
そのまま。
ネメシスの声と、交わる。
ぶつかるたびに、少しずつ揃っていく。
呼吸が合う。
音が重なる。
スタジオの空気が変わる。
誰も、声を出さない。
ただ、見ている。
最後のフレーズ。
息を乗せる。
そのまま、音が途切れる。
静寂が戻る。
すぐには、何も聞こえない。
数秒の空白。
それから——
「……すご」
誰かの小さな声。
その一言で、現実に戻る。
息が少しだけ荒い。
心臓の音が、まだ速い。
ネメシスが、横で笑う。
「いいね」
短く、それだけ。
言葉が出ない。
胸の奥に残っている感覚。
楽しかった。
はっきり、そう思った。
「じゃあ、急ごうか」
ネメシスが軽く言う。
空気が、少しだけ切り替わる。
さっきまでの余韻が、仕事の空気に変わる。
「ひなたさん、データお願い」
「はいはい」
森野ひなたが、慣れた手つきで機材に触れる。
画面が立ち上がる。
撮ったばかりの映像が並ぶ。
その中に、自分がいる。
さっきまで歌っていた自分。
どこか、知らない顔。
言葉が出ない。
「陽翔、ここ繋いで」
ひなたが自然に声をかける。
「わかってる」
陽翔がすぐに返す。
迷いがない。
さっき見た、あの“仕事の顔”。
二人の動きが早い。
無駄がない。
画面が切り替わるたびに、
少しずつ形になっていく。
ただ見ているだけなのに、
目が離せない。
「ここ、もう少し間詰める?」
「いや、このままでいい」
短いやり取り。
それだけで決まる。
さっきまで一緒にいたはずなのに、
少し遠く感じる。
でも。
嫌じゃない。
むしろ。
すごい、と思ってしまう。
「これで一回通す」
陽翔が言う。
音が流れる。
映像が繋がる。
さっきの歌。
ネメシスの声。
自分の声。
重なっている。
ちゃんと、一つの作品になっている。
「……」
息を止めたまま、見ていた。
「よし」
ひなたが軽く言う。
「これでいける」
「アップする」
陽翔が短く答える。
その言葉。
静かに、でも確かに響く。
今日中に。
これが。
外に出る。
現実が、少しだけ追いついてくる。
胸の奥が、少しだけ熱くなる。
自分の声が、
誰かに届くかもしれない。
そんなこと、
考えたことなかったのに。
「アップ、完了」
陽翔が、画面から目を離さずに言う。
その一言で、空気が少しだけ変わる。
静かな達成感。
まだ実感はない。
でも。
確かに、終わった。
少しだけ間を置いて、
陽翔が小さく息を吐く。
それから、ぽつりとこぼす。
「やっと」
声は小さい。
でも、はっきりしている。
「お姉ちゃんの声が、世間に認められる」
その言葉。
胸の奥に、まっすぐ落ちる。
すぐには、何も言えない。
ネメシスが、軽く笑う。
「もしバズったらさ」
気楽な調子で言う。
「もう歌手の仲間入りだね」
冗談みたいな言い方。
でも。
その中に、ちゃんとした意味がある。
視線を落とす。
自分の手。
少しだけ、震えている。
「……」
(……そんなの)
今まで、考えたことなかった。
誰にも聞かれない場所で、
こっそり歌って。
それだけでよかった。
はずなのに。
「……」
スマホを見る。
画面の中。
さっきの動画。
これが、
外に出た。
誰かが見るかもしれない。
知らない誰かが。
怖い。
でも。
それ以上に。
少しだけ、
楽しみだと思っている自分がいた。
小さく、息を吐く。
それから。
「……バズらなくてもいいし」
ぼそっと言う。
「……別に」
強がりみたいな言い方。
でも。
少しだけ間を置いて。
「……届けば、それでいい」
小さく続ける。
その言葉に、
陽翔は何も言わない。
少しだけ、優しく頷いた。




