2ヶ月目 すれ違い
アイツが家にいることには、慣れた。
朝、物音がしても驚かないし、
リビングにいても、いちいち意識しなくなった。
最初みたいな違和感は、もうない。
——ただ。
それとこれとは、別の話。
「……」
キッチンに立ちながら、小さく息を吐く。
背後に、気配。
振り返らなくてもわかる。
陽翔だ。
(また来た)
慣れたはずなのに、
やっぱり、少しだけ不愉快になる。
「……何」
振り返らずに言う。
少し間があって、
「……あの」
いつもの、小さい声。
変わらない。
「……水、取っていい?」
「……勝手にどうぞ」
即答だった。
許可なんていらない。
でも、聞いてくる。
その感じが、少しだけ引っかかる。
「……ありがとう」
小さく言って、冷蔵庫を開ける音。
それだけのこと。
それだけのはずなのに。
なんとなく、落ち着かない。
(……なんで)
前より、距離は近いはずなのに。
むしろ、前より意識してる気がする。
「……」
ふと、視線が動く。
机の上。
あのイルカのぬいぐるみ。
あの日から、捨ててない。
隅に置いたまま。
(……別に)
理由なんてない。
ただ、そこにあるだけ。
水を飲む音がする。
陽翔は、それ以上何も言わない。
無理に話しかけてくることもない。
ただ、同じ空間にいる。
「……」
(……ほんと、意味わかんない)
慣れたはずなのに。
距離はあるままなのに。
——完全には、無視できない。
それが、一番面倒だった。
パートを終えて、家に帰る。
「……ただいま」
誰もいないリビングに、声だけが落ちる。
返事はない。
いつものこと。
靴を脱いで、リビングに入る。
——そこで、足が止まった。
机の上。
見慣れない箱。
きれいにラッピングされている。
「……なにこれ」
近づく。
その上に、小さな紙。
文字が書いてある。
『姉さん、よかったら食べて』
「……は?」
一瞬、意味がわからなかった。
誰が、なんて。
考えるまでもない。
(……あいつ?)
箱を見る。
また、あの感じ。
直接じゃない。
置いてあるだけ。
(……なんで)
そこで、ふと思い出す。
——今日。
ホワイトデー。
「……」
手が、止まる。
(いや、待って)
バレンタイン。
何もあげてない。
チョコなんて、渡してない。
そもそも、会話もまともにしてない。
「……意味わかんないんだけど」
小さく呟く。
箱を、じっと見る。
(なんで返してくるの)
返す理由なんて、ないのに。
(……気使ってる?)
その考えが浮かんで、少しだけ苛立つ。
(いらないって言ってるのに)
(そういうの)
でも。
開けるかどうか、少しだけ迷う。
触れたら、何かが変わりそうで。
指先が、箱に触れる。
軽い。
そっと持ち上げる。
ラッピングの感触。
——あのぬいぐるみが、頭に浮かぶ。
「……」
ゆっくり、リボンをほどく。
自分でも理由はわからない。
ただ、そのまま戻すことはできなかった。
中を開ける。
甘い匂いが、少しだけ広がる。
「……」
しばらく、何も言えなかった。
(……なんなの)
嬉しいとかじゃない。
でも。
嫌とも、言い切れない。
「……ばかみたい」
小さく呟く。
でも。
その箱を、捨てることはできなかった。
しばらく、箱を見つめたまま動かなかった。
(……どうするの、これ)
食べる理由もない。
でも、放っておくのも落ち着かない。
「……」
小さく息を吐く。
一つだけ、取り出す。
警戒しながら。
少しだけ匂いを確かめて、
問題ないことを確認してから、
口に入れる。
「……」
甘さが、ゆっくり広がる。
思っていたより、ちゃんとしてる。
市販っぽいけど、安っぽくはない。
「……普通に、美味しい」
ぽつりと呟く。
(……なんなの)
また、その言葉。
なんで、こんなちゃんとしてるのか。
なんで、こんなことするのか。
意味がわからない。
もう一口、食べる。
さっきより、少しだけ警戒が薄い。
甘さが、少しだけ強く感じる。
——ふと。
別の記憶が、浮かぶ。
元カレ。
バレンタインの日。
自分から渡したチョコ。
少しだけ頑張って選んだやつ。
でも——
『ありがと』
それだけ。
ホワイトデーは、何もなかった。
何も言われなかったし、
何も返ってこなかった。
「……」
口の中の甘さが、少しだけ変わる。
(……ばかみたい)
あの時の自分。
期待してた自分。
視線が、箱に戻る。
ラッピングの紙。
置かれていたメモ。
『姉さん、よかったら食べて』
「……」
比べるつもりなんてなかったのに。
勝手に、浮かぶ。
何もしてくれなかった人と、
何もしてないのに、何かしてくるやつ。
「……意味わかんない」
小さく呟く。
気づけばもう一つ、手に取っていた。
廊下に出る。
足は、そのままあのドアの前で止まった。
「……」
ノックするか、一瞬だけ迷う。
でも——
コンコン。
軽く、叩いた。
すぐに返事はなかった。
「……ねえ」
少しだけ、声を張る。
「いるんでしょ」
沈黙。
そのまま、続ける。
「なんなの、あれ」
言葉が、少しだけ強くなる。
「なんであんなの置いてんの」
ドア越し。
顔は見えない。
でも、それで十分だった。
少しの間。
それから——
「……ごめん」
かすれた声。
遅れて、返ってくる。
「……は?」
思わず、眉が寄る。
「なんで謝るの」
意味がわからない。
「……」
向こうは、少し黙る。
それから、
「……嫌だったかなって」
小さく、途切れながら。
「……思って」
「……」
言葉が、一瞬詰まる。
(……なにそれ)
「別に、そういうことじゃない」
すぐに否定する。
でも、言い方は少しだけ強いまま。
「なんで、ああいうことするのって聞いてるの」
沈黙。
少しだけ、長い。
「……その」
また、言葉を探してる気配。
「……この前」
かすれた声が、続く。
「イルカ、好きって……言ってたから」
「……」
思考が、一瞬止まる。
——車の中。
ぬいぐるみ。
『普通』
それだけの会話。
「……それだけで?」
思わず、出る。
「……うん」
短い返事。
それだけ。
「……」
(……意味わかんない)
そんな理由で?
そんなことで?
「……別に、あげてないし」
小さく呟く。
「バレンタインとか」
「……」
少しの沈黙。
それから、
「……知ってる」
かすれた声。
「……でも」
一瞬、止まる。
それでも、続ける。
「……あげたかったから」
——その一言。
廊下の空気が、少しだけ変わる。
「……」
何も言えなかった。
否定しようとして、
言葉が出ない。
向こうも、何も言わない。
ただ、そこにいる気配だけがある。
「……もういい」
やっと、それだけ言う。
少しだけ、声が弱くなっていた。
「……ありがと」
小さく付け足す。
ほとんど聞こえないくらいの声。
言った自分でも、驚くくらいに。
「……」
一瞬、間があって。
「……うん」
かすれた返事。
それだけ。
それ以上、続かない。
ドアは、閉じたまま。
夜。
リビングの電気は少しだけ落としてあった。
テレビの音が、小さく流れている。
母はソファに座って、何かを見ていた。
「……ねえ」
声をかける。
母が顔を上げる。
「どうしたの?」
いつも通りの、やわらかい声。
少しだけ、言いにくい。
「……あいつのこと」
言葉を選ぶ気はなかった。
でも、続きは少しだけ詰まる。
「……今日」
短く息を吐く。
「なんか、置いてあった」
母は、すぐに理解したみたいだった。
「お菓子?」
「……うん」
「ホワイトデーだもんね」
当たり前みたいに言う。
「いや、だから」
思わず、少しだけ強くなる。
「何もあげてないし」
「……うん」
母は、否定しない。
ただ、聞いている。
それが、少しだけ落ち着かない。
「なのに、なんでああいうことするの」
「……」
少しの間。
母はすぐに答えなかった。
「優しいんだと思うよ」
静かに言う。
「……は?」
反射的に、眉が寄る。
「そういうのじゃないでしょ」
「そういうのだよ」
母は少しだけ笑う。
「不器用だけどね」
「……」
言い返そうとして、言葉が出ない。
「唯菜のこと、ちゃんと見てるんだと思う」
「……別に」
すぐに否定する。
でも、さっきみたいな強さはない。
「たまたまでしょ」
「うーん」
母は曖昧に頷く。
「でも、嫌じゃなかったんでしょ?」
「……」
一瞬、止まる。
(……は?)
否定しようとして——
言葉が出ない。
「……普通」
やっと、それだけ言う。
「普通に食べただけ」
「そっか」
母は、それ以上追及しなかった。
それが逆に、引っかかる。
沈黙。
テレビの音だけが流れる。
(……なんなの)
胸の奥が、少しだけざわつく。
嫌じゃない。
でも、素直に受け取れない。
ふと、思い出す。
ドア越しの声。
『あげたかったから』
「……」
小さく息を吐く。
「……意味わかんない」
そう呟いた。
でも。
前みたいに、完全に否定する感じじゃなかった。
部屋に戻る。
ドアを閉めて、鍵はかけない。
ベッドに少しだけ体を預けて、
そのまま起き上がる。
(……なんか、疲れた)
理由はわかってる。
でも、考えたくない。
机に向かう。
PCを開く。
いつもの動作。
慣れた手つきで配信サイトを開く。
推しの配信が、ちょうど始まったところだった。
「……あ、きた」
少しだけ、気持ちが軽くなる。
イヤホンをつけて、画面を見る。
明るい声。
テンポのいいトーク。
コメントが流れていく。
「……」
自然と、肩の力が抜ける。
(やっぱこれだわ)
何も考えなくていい。
面倒なこともない。
距離も、感情も、全部ちょうどいい。
——こういうのでいい。
画面に集中する。
笑い声が聞こえる。
自分も、少しだけ笑う。
でも——
ふと、視界の端に入る。
机の隅。
イルカのぬいぐるみ。
一瞬だけ、視線が止まる。
すぐに、戻す。
(……関係ない)
そう思うのに。
さっきの言葉が、頭に浮かぶ。
『あげたかったから』
配信の声が、少しだけ遠くなる。
(……なんなの)
また、その言葉。
無理やり、画面に集中する。
コメントを読む。
流れについていく。
笑う。
——でも。
さっきより、少しだけ。
集中できてなかった。
配信は、いつも通り続いている。
コメント欄が流れて、笑い声が重なる。
画面を見ながら、ぼんやりと思う。
さっきより、少しだけ集中できてない。
理由はわかってる。
でも、認めたくない。
——その時。
コンコン。
小さな音。
「……何」
イヤホンを片耳だけ外して、返す。
少しの間。
それから、
「……あの」
聞き慣れた、かすれた声。
(……また?)
軽くため息をつく。
「用があるなら言って」
ドアは開けない。
開ける気もない。
「……その」
言葉が続かない。
いつも通り。
「……何」
少しだけ強めに言う。
「……今」
途切れ途切れに、声が続く。
「……配信、見てる?」
「……は?」
一瞬、意味がわからなかった。
「何それ」
思わず、眉が寄る。
「……ネメシスの……」
その名前が出た瞬間。
「……え?」
手が、止まる。
画面を見る。
間違いなく、今見てる配信。
「……なんで」
自然と、口から出る。
ドア越し。
陽翔は少しだけ間を置いて、
「……さっき」
小さく言う。
「……聞こえたから」
イヤホン。
完全に音は漏れてないと思ってた。
でも、少しは聞こえてたのかもしれない。
「……で?」
少しだけ警戒したまま聞く。
「……俺も」
少し、息を吸って。
「……見てる」
沈黙。
(……は?)
頭が、追いつかない。
「……なんで」
また、同じ言葉。
「……好きだから」
それだけ。
シンプルすぎる答え。
言葉が、出ない。
まさか。
そんなところで、かぶるとは思ってなかった。
画面を見る。
コメント欄。
同じ時間。
同じ配信。
ドアの向こうにも、同じ画面がある。
そう思った瞬間。
少しだけ、距離の感覚が狂う。
(……なにそれ)
さっきまで、別の世界だったのに。
急に、同じ場所にいるみたいな感じ。
何か言おうとして、
やめる。
「……じゃあ」
とりあえず、それだけ言う。
「邪魔しないで」
いつもの言い方。
でも、さっきより少しだけ弱い。
「……うん」
かすれた返事。
それだけ。
足音が、少し離れていく。
イヤホンをつけ直す。
画面を見る。
配信は、変わらず続いてる。
でも——
さっきまでと、少しだけ違って見えた。
イヤホンを外す。
配信はまだ続いている。
でも、さっきから内容が全然入ってこない。
(……なんで)
同じ配信を見てる。
そんな偶然、ある?
立ち上がる。
気づいたら、部屋のドアを開けていた。
廊下に出る。
あのドアの前まで、迷いなく歩く。
コンコン。
今度は、少しだけ強く。
「……何」
すぐに声が返ってくる。
さっきより、少しだけ早い。
「……ねえ」
間を置かずに言う。
「なんであの配信者知ってるの」
沈黙。
「……は?」
少しだけ苛立ちが混ざる。
「聞いてる?」
「……聞いてる」
小さな声。
「……なんで?」
重ねる。
「どこで知ったの」
ドア越し。
少しだけ長い間。
「……ネットで」
「それはわかる」
即答だった。
「そういうことじゃなくて」
自分でも、少し強いと思う。
でも止まらない。
「なんでそれ見てるのって聞いてるの」
沈黙。
空気が少しだけ張る。
「……」
(……なんでこんな)
自分でも、理由がはっきりしない。
ただ。
なんとなく、嫌だった。
同じなのが。
「……その」
向こうが、やっと口を開く。
「……最初は」
言葉を探すみたいに、ゆっくり。
「……たまたま見つけて」
「……」
「……でも」
少し、間。
「……面白かったから」
それだけ。
シンプルな理由。
「……」
言葉が、詰まる。
(……それだけ?)
「……じゃあ」
無意識に、続ける。
「いつから見てるの」
「……結構前」
「……」
それを聞いた瞬間。
少しだけ、胸がざわつく。
(……なにそれ)
自分より先?
同じくらい?
わからないけど——
言葉が、続かない。
さっきまでの勢いが、少しだけ落ちる。
「……別に」
小さく呟く。
「どうでもいいけど」
明らかに、どうでもよくない。
でも、そう言うしかなかった。
向こうは、何も言わない。
ただ、そこにいる。
「……もういい」
それだけ言って、背を向ける。
部屋に戻る。
ドアを閉める。
少しだけ、息を吐く。
(……なんなの)
さっきから、そればっかり。
夕食。
テーブルには、四人分の皿が並んでいた。
「いただきます」
父の声に合わせて、箸を取る。
いつも通りの食卓。
母と父が、軽く会話をしている。
テレビの音も流れている。
——でも。
今日は、少し違った。
「……ねえ」
箸を止める。
視線は、上げないまま。
向かい側。
陽翔に向けて。
空気が、少しだけ止まる。
陽翔も、手を止めた気配。
「……何」
小さな声。
少し警戒してるのがわかる。
「……あのさ」
少しだけ、言葉を選ぶ。
でも、結局そのまま出る。
「なんであの配信見てんの」
一瞬、静まる。
父と母の会話が、止まる。
「……」
陽翔は、何も言わない。
「聞いてる?」
少しだけ強くなる。
「……聞いてる」
かすれた声。
でも、視線は上げない。
「……別に」
少し間があって、
「……たまたまって言った」
小さく返す。
「それは聞いた」
すぐに被せる。
「そうじゃなくて」
「……」
沈黙。
空気が、少しずつ重くなる。
「……なんで、それ見てるのって聞いてるの」
「……」
陽翔は、箸を少しだけ動かす。
でも、食べてない。
「……その」
言葉を探す気配。
「……面白いから」
また、それだけ。
同じ答え。
イラつく。
さっきと同じ。
踏み込んでるのに、返ってこない。
「……それだけ?」
思わず、声が強くなる。
「……」
陽翔の肩が、少しだけ揺れる。
「……うん」
短い返事。
それ以上、続かない。
「……はぁ」
小さくため息が漏れる。
(なんなの、ほんと)
ふと、視線が上がる。
一瞬だけ、目が合う。
——すぐに逸らされる。
逃げるみたいに。
その瞬間。
少しだけ、引っかかる。
(……なんで逃げるの)
責めてるつもりは、なかった。
——いや、少しはあったかもしれない。
「……別に」
小さく呟く。
「答えられないなら、いいけど」
少しだけ、トーンを落とす。
でも、完全に優しくはできない。
「……」
陽翔は、何も言わない。
ただ、黙って頷いた。
それで終わり。
会話は、続かない。
母が少しだけ気まずそうに話題を変える。
父も、それに乗る。
食卓は、また動き出す。
——でも。
さっきまでとは、少し違う空気だった。
箸を動かしながら、思う。
(……なんであんな聞き方したんだろ)
自分でも、よくわからなかった。
ただ。
気になって。
踏み込んで。
——逃げられた。
それだけのことなのに。
妙に、引っかかっていた。
風呂上がり。
まだ少しだけ体が熱いまま、リビングに出る。
ソファに座って、軽く息を吐く。
「……あつ」
エアコンの風が、ちょうどいい。
ぼんやりと天井を見ていると、
気配がした。
視線を向ける。
そこに、陽翔がいた。
珍しく、リビングにいる。
手に、何かを持っている。
一瞬、思考が止まる。
(……は?)
それ。
見間違いじゃない。
「……ちょっと待って」
思わず、声が出る。
陽翔がびくっとする。
「……それ」
立ち上がる。
近づく。
「それ、どこで手に入れたの」
視線が、完全に一点に固定される。
推しのアクスタ。
しかも——
「……限定のやつじゃん」
声が、少しだけ低くなる。
自分でもわかるくらい。
「……なんで持ってんの」
陽翔は、少しだけ視線を落とす。
「……その」
言葉が、すぐに出てこない。
「……ネットで」
「どこ」
被せる。
間を与えない。
「どこで買ったの」
「……通販」
「……は?」
思わず、眉が寄る。
「それ、すぐ売り切れたやつなんだけど」
陽翔は、何も言わない。
ただ、少しだけ手を握る。
アクスタを、落とさないように。
(……なにそれ)
胸の奥が、ざわつく。
欲しかったやつ。
買えなかったやつ。
それを、こいつが普通に持ってる。
「……」
手が、少しだけ伸びる。
「見せて」
短く言う。
陽翔は、一瞬だけ迷って。
それでも、差し出す。
受け取る。
間違いない。
本物。
状態もいい。
しばらく、言葉が出ない。
(……なんで)
「……いいでしょ、それ」
ぽつりと呟く。
自分でも、少し驚くくらい素直な声。
「……」
陽翔は、何も言わない。
ただ、静かに見ている。
「……なんで」
もう一度。
今度は、少しだけ違う意味で。
「なんで持ってんの」
問い詰める感じじゃない。
でも、完全に柔らかくもない。
「……その」
少しだけ間。
「……好きだから」
また、それ。
シンプルな答え。
「……」
言い返せない。
(……ずる)
心の中で、そう思う。
同じ“好き”なのに。
手に入れてるのと、手に入れてないの。
「……」
視線が、アクスタから離れない。
その時。
「……あげる」
小さく、落ちる声。
「……は?」
顔を上げる。
陽翔は、少しだけ視線を逸らしていた。
「……いいよ、それ」
「……は?」
意味がわからない。
「なんで」
「……」
少しだけ、間。
「……喜ぶと思って」
それだけ。
また、それ。
——シンプルすぎる理由。
「……」
言葉が、出ない。
嬉しいとか、そういうのじゃない。
でも——
拒否もしきれない。
「……ばかじゃないの」
小さく呟く。
でも、アクスタは手に持ったままだった。
「……いいの」
小さく、呟く。
自分でも、よくわからないまま。
手に持ったままのアクスタを見下ろす。
「……」
返そうとは、思わなかった。
理由は、考えない。
考えたら、多分戻す。
「……じゃあ」
それだけ言って、
そのまま、手元に残した。
「……」
少しだけ、沈黙。
ふと、視線を上げる。
陽翔が、こっちを見ていた。
——いや。
正確には、少しだけ逸らしながら。
でも。
さっきより、ほんの少しだけ。
表情が違う。
(……あ)
気のせいかもしれない。
でも——
少しだけ。
ほんの少しだけ。
緩んで見えた。
「……」
すぐに視線を逸らす。
(……なにそれ)
胸の奥が、少しだけざわつく。
「……別に」
小さく呟く。
「これくらい、普通だし」
誰に向けた言葉でもない。
でも、言わないと落ち着かなかった。
「……うん」
陽翔が、小さく返す。
それ以上は、何も言わない。
リビングの空気が、少しだけ変わる。
さっきまでの気まずさとは違う。
でも、完全に楽でもない。
変な距離。
「……」
アクスタを見る。
やっぱり、欲しかったやつ。
ちゃんと、嬉しい。
——それなのに。
素直にそう思えない。
「……」
ふと、視線を感じる。
陽翔はもうこっちを見ていなかった。
でも——
さっきの表情が、少しだけ残る。
(……なにそれ)
また、同じ言葉。
でも。
さっきより、少しだけ違った。
部屋に戻る。
ドアを閉めると、さっきまでの空気が少し遠くなる。
パジャマに着替える。
いつも通りの動き。
何も変わらないはずなのに、
少しだけ落ち着かない。
「……」
ベッドに座る。
手の中。
さっきもらったアクスタ。
(……ほんとにいいの、これ)
小さく息を吐く。
机の上に置く。
ぬいぐるみの隣。
少しだけ、眺める。
やっぱり、嬉しい。
欲しかったやつ。
それは間違いない。
——なのに。
ふと、別の考えが浮かぶ。
(……なんで)
視線が、少しだけ細くなる。
「……あいつ」
小さく呟く。
(引きこもり、だよね)
ほとんど部屋から出てこない。
買い物にも行ってない。
それなのに。
「……通販?」
さっきの言葉を思い出す。
『通販』
「……」
そんな簡単に手に入るものじゃない。
あれ、すぐ売り切れたやつ。
タイミングも、情報も、必要。
(……なんで知ってるの)
ただの偶然じゃない気がする。
胸の奥に、少しだけ違和感が残る。
さっきまでの気持ちとは、少し違う。
嬉しさとは別の、
小さな引っかかり。
(……なにそれ)
また、その言葉。
でも今度は、
少しだけ重い。
「……」
ベッドに倒れ込む。
天井を見る。
考えないようにしようとしても、
頭から離れない。
(……別に)
そう思う。
どうでもいいこと。
気にする必要もない。
——なのに。
「……なんで」
小さく、もう一度呟いた。
夜。
部屋の電気は消して、スマホの光だけが残る。
ベッドに寝転びながら、画面を眺める。
久世庵の公式ページ。
落ち着いた雰囲気の外観。
和室、庭、料理。
どれも、画面越しでもわかるくらい丁寧で。
「……いいな」
小さく呟く。
スクロールする。
宿泊プラン。
予約状況。
——空き、なし。
「……やっぱり」
軽く息を吐く。
知ってた。
人気なのは。
簡単に取れないのも。
それでも、確認してしまう。
(……一応、ってやつ)
指が止まる。
料金のところ。
一泊、そこそこな金額。
安くはない。
むしろ、今の自分にははっきり高い。
「……無理でしょ」
小さく呟く。
笑うほどじゃないけど、
軽く諦めるには十分な数字。
(パートじゃなあ……)
働いてないわけじゃない。
でも、余裕があるわけでもない。
画面を見つめたまま、少しだけ黙る。
ネメシスの姿が、頭に浮かぶ。
配信の中の声。
落ち着いた雰囲気。
「……行ってみたい」
ぽつりと、本音が漏れる。
でも。
すぐに消す。
「……まあ、無理か」
スマホを少しだけ下げる。
天井を見る。
現実は、ここ。
静かな部屋。
いつもと同じ天井。
胸の奥に、少しだけ残る。
届かない感じ。
画面の中の世界と、
今の自分の距離。
「……はぁ」
小さくため息をつく。
スマホをもう一度持ち上げる。
閉じようとして——
指が止まる。
(……あいつ)
ふと、浮かぶ。
アクスタ。
配信。
同じものを知ってるやつ。
「……」
意味は、ない。
ただの連想。
それだけのはずなのに。
少しだけ、
現実と画面の距離が、
さっきより曖昧になった気がした。
テレビが、ぼんやりと流れている。
特に見てるわけじゃない。
ただ、音があるだけ。
ソファに座って、リモコンを手に持ったまま。
「……」
ふと、画面に映る。
見覚えのある景色。
「……あ」
小さく声が漏れる。
久世庵。
外観と、庭の映像。
ナレーションが流れる。
「地元で有名な人気旅館——」
(……やっぱり)
視線が、自然と止まる。
「こちらの団子がですね——」
次に映るのは、フリースペース。
並んでいる人の列。
手に持ってる団子。
「……」
(あれか)
有名なやつ。
並ばないと食べられないってやつ。
しかも、結構な行列。
「……無理でしょ」
小さく呟く。
地元なのに。
行こうと思えば行ける距離なのに。
あの列を見ると、それだけでやる気がなくなる。
「……」
(どうせ無理)
予約も取れないし、
団子も並ばないと食べられない。
近いのに、
結局は“遠い”。
画面の中では、
楽しそうに食べている人たち。
「……いいな」
ぽつりと漏れる。
少しだけ、羨ましい。
でも。
「……別に」
すぐに打ち消す。
「そこまでして食べたいわけじゃないし」
言い訳みたいな言葉。
誰も聞いてないのに。
リモコンのボタンを押す。
チャンネルを変える。
久世庵の映像が消える。
静かになる。
——でも。
さっきの映像が、頭に残る。
団子。
並んでる人。
楽しそうな空気。
「……」
(……あいつなら)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
すぐに、消す。
(いや、ない)
意味のない想像。
それだけ。
でも。
完全には消えなかった。
翌日。
リビングに入った瞬間、足が止まった。
「……は?」
テーブルの上。
見慣れない箱。
——いや。
見覚えはある。
昨日、テレビで見たやつ。
久世庵のロゴ。
「……」
視線が、そのまま横にずれる。
陽翔が座っていた。
いつもより少しだけ前に出て。
その手には——
団子。
「……は?」
もう一度、同じ声が出る。
(なんで)
頭が、追いつかない。
あんなに並ぶやつ。
簡単に手に入るわけない。
それを。
普通に食べてる。
「……」
足が、勝手に近づく。
「……それ」
声が、少し低くなる。
「どこで手に入れたの」
陽翔が、びくっとする。
箸を持つ手が、少しだけ止まる。
「……」
すぐには答えない。
「……聞いてる?」
少しだけ強くなる。
「それ、久世庵のやつでしょ」
沈黙。
「……」
(……なんなの)
昨日のアクスタが、頭をよぎる。
今回も。
また、普通じゃない。
「……通販?」
自分で言って、否定する。
(いや、無理でしょ)
あれは現地のやつ。
しかも人気商品。
「……」
陽翔は、少しだけ視線を落とす。
それから、
「……並んだ」
小さく、言う。
「……は?」
思わず、顔をしかめる。
「どこに」
「……久世庵」
「……」
一瞬、言葉が出ない。
(……は?)
「……いや、待って」
意味がわからない。
「いつ」
「……朝」
短い返事。
それだけ。
「……」
頭の中で、昨日の映像が浮かぶ。
あの行列。
(……まじで?)
「……なんで」
自然と、口に出る。
問い詰めるというより、
本気で意味がわからない。
「……」
陽翔は、少しだけ間を置いて。
それから、
「……食べたいって、言ってたから」
小さく、言う。
——その一言。
「……」
一瞬、言葉が止まる。
(……言ってないし)
心の中で、反射的に否定する。
でも。
『いいな』って言った。
確かに。
「……」
何も言えなかった。
「……」
陽翔は、それ以上何も言わない。
ただ、団子を持ったまま。
こっちを見ない。
テーブルの上。
団子。
その隣に、もう一つの皿。
明らかに、もう一人分。
「……」
視線が、そこに止まる。
(……なにそれ)
胸の奥が、少しだけざわつく。




