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1ヶ月目 他人

 玄関のドアが開く音がした。

「唯菜、こっち来て」

母親に呼ばれて、ゆっくりと顔を上げる。


——ついに来たか。

そう思いながら、重い足取りで玄関に向かった。

そこに立っていたのは、一人の男。


「この子が陽翔くん」

母親の声が続く。

「今日から一緒に——」

その先は、ちゃんと聞いていなかった。


目の前の相手は、視線を合わせようとしな

い。

俯いたまま、ただ立っている。


(……感じ悪)

そう思いながらも、口を開く。

「橋本唯菜。よろしく」

最低限の礼儀だけ。

それ以上でも、それ以下でもない。


少し遅れて、

「……橋本陽翔です」

小さな声が返ってくる。


それだけ。

会話は、続かない。

沈黙が、そのまま空間に落ちる。




 リビングの電気が、やけに明るく感じた。

静かなはずなのに、落ち着かない。

その理由は、すぐにわかる。

ソファに、人がいる。


——昨日まで、いなかったやつ。

いなくてよかったやつ。


「……」

視線を向けると、陽翔が座っていた。

テレビもつけずに、ただ前を見ている。

存在感だけが、そこにある。


(なんでリビングにいるの)

心の中で吐き捨てる。


別に、リビングは共有スペースだ。

誰がいてもおかしくない。


それでも——

(邪魔)

そう思ってしまう。



「……何」

無意識に、声が出た。


陽翔が少しだけ顔を上げる。

「あ……いや」

言葉が続かない。

また、それだけ。

会話にならない。


(ほんと、なんなの)

小さく息を吐いて、キッチンへ向かう。

冷蔵庫を開ける音だけが、やけに響いた。


背中に、視線を感じる。

——気のせいじゃない。

「……何か用?」

振り返らずに言う。


少し間があって、

「……その」

また、詰まる。


「ないなら話しかけないで」

少し強めに言った。


沈黙。

それ以上、何も返ってこない。

(ほら)

(だから嫌なんだよ)


コップに水を注ぐ音だけが、やけに大きく聞こえた。

リビングに戻る気にはなれなかった。

そのまま、部屋に戻ろうとする。


——すれ違いざま。

「……ごめん」

かすかな声。

足が、ほんの一瞬だけ止まる。

でも、振り返らなかった。


「……別に」

それだけ言って、ドアを閉めた。




 朝は、いつもより少しだけ早く起きた。

理由は特にない。

ただ、あの空気の中に長くいたくなかっただけ。


静かな家。

リビングには、誰もいない。

ソファも、テーブルも、昨日のまま。

——当たり前だ。

あいつは、出てこない。 


「……はぁ」

小さく息を吐く。

冷蔵庫を開けて、適当に朝食を済ませる。

物音は、最小限に。

気を使ってるわけじゃない。

ただ——関わりたくないだけ。


「行ってきます」

誰に言うでもなく、呟く。

返事は、ない。

ドアを閉めた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。



夕方。

パートを終えて帰ってくると、家は変わらず静かだった。


「……ただいま」

言う必要もないのに、口から出る。

やっぱり、返事はない。

(ほんと、なにしてんのあいつ)

靴を脱ぎながら、思う。


自分は外に出て、働いて、疲れて帰ってきて。

それなのに。

(同じ家にいるのに、何もしないで)

ドアの向こうで、ただ引きこもってるだけ。


「……意味わかんない」

小さく吐き捨てる。

キッチンに立って、夕飯の準備を始める。

包丁の音が、やけに響く。 


——ふと。

廊下の奥、あの部屋のドアが頭に浮かぶ。

閉じたままのドア。

一度も開いてるところを見ていない。


(……ほんとに、いるの?)

そんなことを考えて、すぐに打ち消す。


いるに決まってる。

昨日、そこにいた。

ソファに座って。


「……」

手が、少しだけ止まる。

——なんで、私が。

そこまで考えて、首を振った。


(関係ない)

火をつける。

ジュッ、と音がして、現実に引き戻される。

(あいつのことなんて)

(どうでもいい)


  


 その日の夕食は、陽翔抜きだった。

最初から、席は三人分しか用意していない。


「いただきます」

父の声に合わせて、箸を取る。

いつもと同じはずの食卓。


母が今日のことを話して、父が適当に相槌を打つ。

テレビの音も、いつも通り流れている。


「今日、ちょっと忙しくてさ」

「そうなの?大変だったね」


普通の会話。

何も変わらない日常。

——一人、いないだけ。

味が、よくわからなかった。



「唯菜はどう?」

急に話を振られて、顔を上げる。


「別に」

短く返す。

それ以上、話す気はなかった。


「無理しないでね」

母がやわらかく言う。

その言葉に、少しだけ苛立つ。


(誰のせいだと思ってるの)

そう言いそうになって、飲み込む。


視線が、ふと廊下の方へ向いた。

あのドアは、閉まったまま。

「……」


「唯菜?」


「なんでもない」

すぐに視線を戻す。

箸を動かす。


会話は、続く。

まるで最初から、四人なんていなかったみたいに。

——それが、少しだけ気持ち悪かった。




 夜中。

ふと、目が覚めた。

理由はわからない。

ただ、なんとなく意識が浮かび上がる。


——カタン。

小さな音。

一瞬だけ、静寂が揺れる。


「……」

目を閉じたまま、耳だけが冴える。


もう一度。

今度は、少しだけはっきりと。

廊下の奥。

あの部屋の方向。


(……起きてるんだ)

ぼんやりと、そんなことを思う。


時計は見ていない。

でも、たぶん遅い時間。

普通なら、寝てる時間。


——カチャ。

何かを動かす音。

(……別に)

布団の中で、小さく息を吐く。

(どうでもいいし)


あいつが何してようが、関係ない。

そう思って、寝返りを打つ。

音は、まだ続いている。


規則的じゃない。

何かを探してるみたいな、不揃いな音。


(うるさいわけでもないし)

(気にするほどじゃない)

そう、思ったはずなのに。

耳は、勝手に拾ってしまう。


——なんで、夜中に。

そこまで考えて、止める。


(知らない)

布団を少しだけ深くかぶる。

音を遮るみたいに。


「……」

それでも、完全には消えなかった。




 朝。


今日はパートが休みだった。

目覚ましもかけずに起きて、適当に顔を洗って。

何もする気が起きない。

ソファに沈み込んで、そのまま時間を潰す。


テレビもつけない。

ただ、ぼんやりと天井を見ていた。



——コンコン。

小さな音。

一瞬、何の音かわからなかった。


「……は?」

ここ、私の部屋だよね。


もう一度。

コンコン。

間違いなく、ドア。


(……誰)

考えるまでもない。

この家で、わざわざノックしてくるやつなんて一人しかいない。


「……何」

ドア越しに、少しだけ強めに言う。


少しの間。


それから、

「……あの」

聞き慣れないくらい小さな声。

陽翔だった。


(なんで)

一気に、面倒くささが込み上げる。

「用があるなら、そこで言って」


ドアは開けない。

開ける理由もない。


「……その」

また、言葉が途切れる。


(ほんと、イライラする)

「ないなら戻って」

そう言おうとした、その前に。



「……ご飯」

一言だけ、落ちてきた。


「……は?」

思わず、聞き返す。


「朝ご飯、……その」

言い切れないまま、黙る。


「……は?」

もう一度、同じ言葉が出る。

意味がわからない。

(なんで、あいつが)


「……作ったから」

ドアの向こうで、かすれる声。


頭が、一瞬だけ止まる。

「……いらない」

反射的に、そう言った。

考えるより先に、口が動いた。


沈黙。

さっきまでそこにあった気配が、少しだけ遠くなる。

「……そっか」

小さく、それだけ。

足音が、ゆっくり離れていく。

——静かになる。


「……」

ソファに座ったまま、動けなかった。

(……なんなの)


胸の奥が、少しだけざわつく。

理由はわかってる。

でも、考えたくなかった。


(関係ない)

そう、思ったはずなのに。

さっきの言葉が、やけに残る。


『作ったから』


「……ばかみたい」

誰もいない部屋で、小さく呟いた。




 昼前。

キッチンに立つ母の背中を見ながら、少しだけ迷う。

——言う必要、ある?

でも、さっきのことが頭から離れない。


「……ねえ」

声をかける。


母が振り返る。

「どうしたの?」

いつも通りの、柔らかい声。

それが、少しだけイラつく。


「……あいつ」

言葉を選ぶ気もなかった。

「どうにかしてくれない?」


一瞬、空気が止まる。


母はすぐには答えなかった。

「……どういうこと?」


「そのまんまだけど」

少しだけ、語気が強くなる。


「部屋から出てこないし、急に話しかけてくるし」

思い出しただけで、またイラつく。

「正直、無理なんだけど」



母は、困ったように笑った。

「無理って言われても……」


「じゃあ何?このままなの?」

言葉が、止まらなくなる。

「同じ家にいるのに、ずっとあんな感じで?」


母は少しだけ視線を落とした。

それから、静かに言う。

「陽翔くんも、頑張ってると思うよ」


——その一言。

胸の奥が、チクッとする。

「……は?」

思わず、声が低くなる。

「どこが」


「だって、今までずっと一人だったんだよ?」


「知らない」

即答だった。

「そんなの、関係ない」

言ってから、少しだけ間が空く。

でも、引っ込める気はなかった。


「こっちは普通に生活してるのに」

「なんで、あいつに合わせなきゃいけないの」

キッチンに、静かな空気が落ちる。



母はすぐには何も言わなかった。

ただ、少しだけ困った顔をして、

「……ゆっくりでいいんじゃない?」

そう言った。

「無理に仲良くしなくても」

「でも、同じ家族だから」


その言葉に、思わず笑いそうになる。

「……家族?」

小さく繰り返す。

「昨日来たばっかの他人でしょ」


はっきりと言い切った。

母は何も言い返さなかった。

それが逆に、気まずい。


「……もういい」

それだけ言って、背を向ける。

キッチンを出る。


廊下に出た瞬間、静けさが戻る。

——あのドアが、目に入る。

閉じたままの、部屋。


「……」

さっきの言葉が、ふとよぎる。


『作ったから』


(……知らない)

視線を逸らして、そのまま通り過ぎた。




 廊下に出たところで、足が止まった。

ドアの音。

——開いた。


振り向かなくてもわかる。

さっきまで閉じていたはずの部屋。

そこから、陽翔が出てきていた。


(……は?)

初めて見る光景に、少しだけ思考が遅れる。

陽翔は、少し戸惑ったように立っていた。

それでも、逃げなかった。 

視線が、こちらに向く。


「……あの」

声が、かすれる。

明らかに慣れていない話しかけ方。


「……何」

短く返す。

それだけで十分だった。


それでも、陽翔は言葉を探す。

「その……」

一歩、近づく。


ほんの少しだけ。

それだけで、距離がやけに近く感じる。


(やめて)

心の中で、反射的に思う。



「……姉さん」

その呼び方に、眉がわずかに動いた。


「……何」

さっきより、少し低い声。


「……何が、好き?」


「は?」

意味が、すぐには理解できなかった。


「趣味とか……」

言葉をつなぐのも、ぎこちない。

「……知りたくて」

——なんで。

頭の中に、その言葉が浮かぶ。


「……なんでそんなの」

自然と、口に出ていた。

陽翔は、一瞬だけ言葉に詰まる。

それでも、目を逸らさなかった。


「……一緒に、何か」

少しだけ、息を吸って。

「したいから」

——その一言。

空気が、わずかに揺れる。


(……は?)

理解したくないのに、意味はちゃんと届く。

「……無理」 

即答だった。

間を置く理由もない。

「そういうの、いいから」


視線を外す。

これ以上、関わられたくない。


「……ごめん」

小さく、落ちる声。

それで終わると思った。


でも——

「……でも」

陽翔が、続ける。

「嫌じゃなければ、でいいから」


「……」

一瞬、言葉が出なかった。

しつこいわけじゃない。

無理に押してくるわけでもない。

ただ、“引かない”。


(……めんどくさい)

「嫌だって言ってるでしょ」

少し強く言う。

「理解できない?」


空気が、冷える。

陽翔は、何も言わなかった。



ただ、小さくうなずいて、

「……うん」

それだけ。

それ以上は、踏み込まない。

ゆっくりと、視線を落とす。

そのまま、距離を取る。


——終わった。

はずなのに。

「……」

胸の奥が、少しだけざわつく。

理由は、わかってる。

でも、考えない。


(関係ない)

そう言い聞かせて、その場を離れた。




 夕方。


リビングには、父さんが一人で座っていた。

テレビはついているけど、ほとんど見ていないみたいだった。


「……ねえ」

少しだけ迷ってから、声をかける。


父さんが振り向く。

「ん?」

短い返事。

それだけで、なんとなく聞きにくくなる。


「……あいつ」

また、その呼び方。

直す気もなかった。


「なんで、引きこもってんの」

できるだけ、平坦に言ったつもりだった。


父さんはすぐには答えなかった。

リモコンの音量を、少しだけ下げる。

それから、ゆっくり口を開いた。


「……人間関係だよ」

それだけ。

思っていたより、あっさりした答え。



「……それだけ?」

思わず、聞き返す。


父さんは少しだけ視線を落とした。

「……それ以上は、本人のことだからな」

はっきりとは言わない。

でも、それ以上踏み込むなっていう空気だけは伝わる。


「……ふーん」

それ以上、聞かなかった。

聞けなかった、の方が近い。


「お前も無理に関わらなくていい」

父さんが、ぽつりと言う。

「時間かければいい」


「……」

その言葉に、少しだけ引っかかる。

(時間ってなに)

すぐに結果が出るものじゃないのは、わかる。


でも——

(なんで私が)

そこまで考えて、止める。

「……別に」

興味ないふりをする。

「関わるつもりないし」

そう言って、視線を逸らした。


父さんは何も言わなかった。

ただ、テレビの音だけが戻る。



——人間関係。

その言葉が、頭の中に残る。

(……それだけで?)

納得は、していなかった。

でも、それ以上は聞けない。

聞く理由も、ない。


——はずなのに。

廊下に出たとき、自然と足が止まる。


あのドアの前。

「……」

中は、静かだった。

昼間、あんなに勇気出して出てきたくせに。

今は、また閉じこもってる。


(……意味わかんない)

小さく呟く。

でも、すぐには離れなかった。

——ノックする気は、ない。


それでも。

少しだけ、その場に立っていた。




 ドアの前に立ったまま、動けなかった。

ノックする気はない。

する理由もない。

それでも、足が離れない。


「唯菜」

後ろから声がして、肩がわずかに揺れる。

振り返ると、母が立っていた。


「……なに」


「その部屋」

母の視線が、ドアに向く。

「入らないであげて」



「……は?」

思わず、眉が寄る。

「なんで」

即座に返す。


母は少しだけ言葉を選ぶようにしてから、

「陽翔くんが、そう言ってたから」

静かに言った。

一瞬、言葉が出なかった。


(は?)

頭の中で、その言葉が引っかかる。


——入らないで。

誰に対して?

なんで?

「……意味わかんないんだけど」

自然と、声が冷たくなる。

「こっちの家でしょ」


「そうだけど……」

母は困ったように笑う。

「まだ慣れてないんだと思う」



納得は、できなかった。

「じゃあ一生そうするつもり?」

少しだけ棘が混ざる。

「部屋に閉じこもって、誰も入れないで」


母は何も言わなかった。

ただ、少しだけ悲しそうな顔をする。

それが、逆に苛立つ。

(なんで私が悪いみたいになるの)


「……別に、入るつもりないけど」

吐き捨てるように言う。

本当は——

少しだけ、気になってただけ。

それだけなのに。


「唯菜」

母が、静かに名前を呼ぶ。

「無理しなくていいからね」


「……してない」

即答だった。


そのまま、視線を外す。

ドアを見る。

閉じたままの、向こう側。


(……何隠してんの)

そんな考えが浮かんで、すぐに打ち消す。


(関係ない)

そう思っても、

さっきの言葉が、頭に残る。

——入らないで。


「……」

結局、その場を離れた。

完全に気にしないことは、できなかった。




 次の休みの日。

家族で出かけることになった。

特に断る理由もなく、流れで外に出る。

玄関で靴を履きながら、少しだけ後悔した。


(やっぱり来なきゃよかった)

そう思っても、もう遅い。


父さんの車のドアが開く。

「ほら、乗って」

軽い声。

いつもと同じ。


——ただ、一つ違うのは。

全員がいること。



助手席に母。

後部座席に、私。

そして——

一番後ろ。

三列目に、陽翔。


視線だけ、少しだけ向ける。

目は合わない。

そもそも、こっちを見ていない。

窓の外を見ているだけ。


(……遠)

車内なのに、やけに距離を感じる。


エンジンがかかる。

音と一緒に、空気が動く。

「どこ行くんだっけ?」

母の声。

「この前言ってたとこ」

父が答える。 

会話が始まる。

いつもの調子で。


私は適当に相槌を打つ。

「へえ」

とか、

「ふーん」とか。

それだけ。


——後ろは、静かだった。

一番後ろの席。

そこだけ、切り離されたみたいに。


(……いるよね)

当たり前のことを、確認するみたいに思う。


バックミラーに、少しだけ映る影。

俯いたままの姿。

話には入らない。

入れない。


「……」

別に、どうでもいい。

そう思うのに。

ふと、昨日のことが浮かぶ。


『一緒に、何かしたいから』

——その言葉。


(……無理でしょ)

こんな距離で。

同じ車に乗ってるのに、

まるで別の場所にいるみたいな距離。



「唯菜?」

母に呼ばれて、はっとする。


「……何」


「聞いてる?」


「聞いてる」

適当に返す。

でも、本当はほとんど聞いてなかった。

もう一度、バックミラーを見る。

一瞬だけ、目が合いそうになる。

すぐに逸らされる。


それだけ。

それだけなのに。

少しだけ、胸がざわついた。




 外出先は、水族館だった。

入口をくぐった瞬間、ひんやりとした空気が肌に触れる。

暗めの照明と、水の音。

ゆっくりと揺れる光が、床に映っていた。


「懐かしいね」

母が少し嬉しそうに言う。


「ああ、この感じ」

父も頷く。


二人は自然と並んで歩き出した。

展示を見ながら、何かを話している。

魚の名前とか、生態とか。

専門的なことも混ざってるけど、楽しそうなのは伝わる。


(……仲いいな)

ぼんやりと思う。


あの二人は、“同じもの”を見ている。

同じことに興味を持って、

同じ方向を向いてる。

だから、会話が途切れない。


——私は。

少し距離を取って、後ろを歩く。



そのさらに後ろ。

気配だけでわかる。

陽翔がいる。


「……」

振り返らない。

見る必要もない。

どうせ、さっきと同じ。

少し離れて、ついてきてるだけ。


水槽の前で足を止める。

青い光の中を、魚がゆっくり泳いでいる。

綺麗だとは思う。

でも、それだけ。

特に、何か感じるわけでもない。


「この魚さ——」

後ろから、父の声。

母がすぐに反応する。

会話が、また始まる。


(……すごいよね)

言葉にしなくても通じる感じ。

ああいうの。



ふと、横を見る。

少し離れたところに、陽翔がいた。

同じ水槽を見ている。

でも——

見てるものは、違う気がした。


視線は水の中じゃなくて、

どこか、遠く。

(……なに見てんの)

そう思った瞬間。

陽翔の視線が、少しだけ動く。


一瞬だけ、目が合いそうになる。

——すぐに逸らされる。



まただ。

近づかない。

でも、完全には離れない。

その距離。


(……意味わかんない)

心の中で呟く。

でも、さっきより少しだけ。

その距離が、気になっていた。




 イルカショーが始まる。

客席に座ると、水面がすぐ目の前に広がっていた。

光が反射して、きらきらと揺れる。


「この子、まだ若いな」

「動き方が軽いね」

前の方で、母と父が話している。

また、よくわからない専門的な話。

でも、楽しそうなのはわかる。


「……」

その少し後ろ。

私は、端の席に座っていた。

——その、隣。

陽翔がいた。


(なんでここ)

他にも席はあるのに。

よりによって、隣。

逃げ場がない。


何も言わない。

陽翔も、何も言わない。

ただ、前を見ている。



イルカが跳ねる。

水しぶきが上がって、歓声が広がる。

周りの空気は明るいのに、

この一角だけ、妙に静かだった。


(……近い)

肩が触れるほどじゃない。

でも、距離は明らかに近い。

少し動けば、触れそうな距離。

それが、やけに意識に残る。


横を見るつもりはなかった。

でも、視界の端に入る。

陽翔は、ちゃんとイルカを見ていた。

さっきみたいに、ぼんやりじゃない。

まっすぐ、水面を見てる。


(……へえ)

ほんの一瞬だけ、そう思う。



次の瞬間、イルカが高く跳ねた。

拍手が起こる。

思わず、視線を前に戻す。


その時——

「……すごい」

小さく、隣から声がした。

驚くほど、素直な声。


「……」

何も返さなかった。

返す理由もない。

でも——

さっきの声が、少しだけ残る。

(……そんな普通に言うんだ)

勝手なイメージと、少し違った。


また、イルカが跳ねる。

水しぶきが、光を反射する。

ふと、さっきの言葉が浮かぶ。


『一緒に、何かしたいから』


——今。

同じものを見てる。

それだけなのに。

少しだけ、

“同じ場所にいる”感じがした。


すぐに、目を逸らす。

(気のせい)

そう思って、前を見続けた。




 イルカショーは終盤に入っていた。

音楽が少し大きくなる。

観客の視線が、水面に集中する。


「ラストいくよー!」

トレーナーの声。


次の瞬間——

イルカが高く跳ねた。

さっきよりも、ずっと高く。

水面を叩いた瞬間、大きな水しぶきが上がる。


「わっ——」

前の席から、声が上がる。

水が、こっちまで飛んでくる。


(……やば)

反応が、一瞬遅れた。


避けようとした、その時。

——ぐっと、視界が遮られる。



「……え」

目の前に、腕。

陽翔だった。

身体を少しだけ前に出して、

こっちに飛んでくる水を、そのまま受ける形。


水しぶきが、音を立てて弾ける。

冷たい水が、陽翔の肩や背中に当たる。


一瞬、何が起きたのかわからなかった。

周りはまだ歓声に包まれている。

ショーは続いてる。


でも——

こっちの時間だけ、少し遅れたみたいに感じた。



「……なんで」

思わず、口から出る。


陽翔は、少しだけ顔を向ける。

髪が少し濡れていた。

「……かかるかと思って」

それだけ。


「……」

言葉が出なかった。

(……意味わかんない)

なんでそんなことするのか。

頼んでないのに。


「……別に」

小さく呟く。

「そんなの、しなくていいし」

反射的な拒絶。

でも、さっきまでと少し違う。


陽翔は、少しだけ目を伏せる。

「……うん」

それだけ言って、前を向いた。

もう何も言わない。 


距離も、戻る。

——はずなのに。

さっきより、近く感じた。


ショーは終わりに向かっている。

拍手が広がる。

でも、ほとんど耳に入ってこなかった。

視界の端に、

少し濡れた肩が残る。


(……ばかじゃないの)


そう思いながら。

ほんの少しだけ、

胸の奥が、ざわついた。




 水族館のショップ。

明るい照明と、少し賑やかな空気。

さっきまでのショーの余韻が、まだ残っている。


「これどう思う?」

「いいんじゃない?」

父と母は、並んで商品を見ていた。

キーホルダーとか、図鑑とか。

また楽しそうに話している。


私は少し離れたところで、スマホをいじっていた。

画面をスクロールする。

特に見たいものがあるわけじゃない。

ただ、時間を潰してるだけ。



ふと、視線が動く。

意識してないのに、勝手に。

少し離れた棚の前。

陽翔がいた。


手に取っているのは、イルカのぬいぐるみ。

さっき見たやつに似ている。


(……子どもかよ)

心の中で、そう思う。


でも、目は逸らさなかった。

陽翔はぬいぐるみをじっと見ていた。

触り心地を確かめるみたいに、少しだけ押して。

それから、ほんの少しだけ迷って——

カゴに入れる。




その動きが、やけに自然だった。

無理してる感じも、気を使ってる感じもない。


ただ、欲しいから買う。

それだけ。


(……普通じゃん)

ふと、そんな言葉が浮かぶ。

今までの印象と、少しだけズレる。

引きこもりで、部屋にこもって、

まともに話もできないやつ。


——そう思ってたのに。

さっきのイルカショーでも、

ちゃんと見て、

普通に「すごい」って言って。

今も、普通に買い物してる。


「……」

スマホの画面に、視線を戻す。

でも、内容はほとんど入ってこない。


(……なに)

小さく息を吐く。

(別に、だから何って話でしょ)

そう思って、画面をスクロールする。


——でも。

視界の端に、残る。

イルカのぬいぐるみ。

そして、それを持つ陽翔。


胸の奥が、少しだけ引っかかる。

理由は、まだわからなかった。




 帰りの車。

行きと同じように、ドアを開ける。

——はずだった。


「……」

一瞬、手が止まる。

後部座席。 

そこに、陽翔がいた。



(……は?)

さっきまで、一番後ろにいたはずなのに。

何も言わない。

こっちを見ることもない。

ただ、当たり前みたいに座っている。


(なんでこっち来てんの)

意味がわからない。

でも、今さら何か言うのも面倒で。

そのまま、隣に座る。

ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。


車が動き出す。

「楽しかったね」

前から、母の声。

父が何か返している。

その会話には入らない。



隣も、静かだった。

さっきと同じ。

でも——距離が違う。


近い。

意識しなくても、感じる距離。


(……なんでこっち来たの)

考えないようにしても、気になる。


その時。

「……」

視界の端で、何かが動く。

ふと横を見る。

陽翔が、何かを持っていた。

——イルカのぬいぐるみ。

さっき買ってたやつ。


ぬいぐるみが、少しだけ持ち上がる。

そして。

小さく、揺れた。


意味がわからない。

もう一度。

ぬいぐるみが、こっちを向く。

「……こんにちは」

小さな声。 

でも、それは陽翔じゃない。

ぬいぐるみの“声”みたいに。


「……は?」

思わず、顔をしかめる。


陽翔は、こっちを見ていない。

ぬいぐるみを見ている。

「……イルカ、好き?」

また、小さな声。

さっきより、少しだけはっきり。


(……なにこれ)

一瞬、本気で理解できなかった。


普通に話せばいいのに。

なんで、そんな回りくどいことを。


答えない。

答える理由もない。



沈黙。

車の音だけが流れる。

それでも——

ぬいぐるみは、少しだけ揺れたまま。

「……」


(……ばかじゃないの)

心の中で呟く。


でも。

さっきのショーが、頭をよぎる。

庇われたこと。

濡れた肩。


「……」

ほんの一瞬、迷う。

「……別に」


小さく、返す。

「普通」 

それだけ。

それ以上は言わない。


「……そっか」

ぬいぐるみが、少しだけ下がる。

それで終わり。

会話も、終わり。


でも——

完全な無言じゃなくなった。


「……」

前を見る。

景色が流れていく。

隣の気配は、まだある。


さっきより少しだけ、

嫌じゃなかった。




 家に帰ると、陽翔はすぐに部屋に戻っていた。

ドアが閉まる音だけが、廊下に残る。


特に気にすることでもない。

いつものこと。

そう思って、靴を脱ぐ。

リビングを横切って、自分の部屋へ向かう。


ドアを開ける。

——その瞬間。

「……は?」

思わず、声が漏れた。

 


机の上。

見慣れないものが置いてある。

イルカのぬいぐるみ。

さっき、陽翔が持っていたのと同じ。

でも——色が違う。


(……なんで)

一歩、部屋に入る。

ゆっくり近づく。


触るかどうか、少しだけ迷って。

指先で、軽くつつく。

やわらかい。


意味がわからない。

なんで、これがここにあるのか。

誰が置いたのかなんて、考えるまでもない。


(……あいつ?)


さっきの車の中が、頭に浮かぶ。

ぬいぐるみ。

ぎこちない声。


『イルカ、好き?』


「……」

視線を逸らす。

(だからって、何)

頼んでない。

欲しいなんて言ってない。


「……いらないし」

小さく呟く。

でも、捨てる気にはならなかった。


手に取る。

軽い。

少しだけ、さっきの感触を思い出す。

——水しぶき。

濡れた肩。


「……ばかみたい」

もう一度、同じ言葉。

でもさっきより、少しだけ弱い。



ぬいぐるみを、机の端に置く。

目につかないように。

でも、完全には隠さない。


「……」

そのまま、ベッドに腰を下ろす。

部屋は静かだった。

隣の部屋も、静かなまま。

——何も変わってないはずなのに。


ほんの少しだけ。

空気が、変わった気がした。

橋本陽翔 18歳 183cm

お気楽系


橋本唯菜 20歳 172cm

ダウナー系人間不信

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