4
森は一晩のうちに全焼し、後には黒い灰ばかりを残して消えた。森を木の一本も残さず燃やし尽くし、そこに住んでいた生物を死滅へ追いやった大火事は、王命によって起こされたものであるらしい。
改革によって新たなる王を迎え入れた国は、新体制へと移行した。それはある神を主として称え、宗教的な統一を図るものだった。
母が私を手放す要因となった市場の値上げも新たな治政に関連することであった。国は教会へ納める費用を必要とし、そのための金を国民の生活費から捻出していた。
国民に信仰心を求める政策の一つとして、政府は国民に宗教的な生活規範を示した。しなくてはならないこと、した方がよいこと、してはならないこと。生活の中に儀礼や禁制を盛り込み、それらをよく遵守する者には祝福を、破る者には罰を与えた。倫理観の統制もまた、国民は国家の定めるところに従った。
その宗教は、人を堕落に至らしめるものがあると提言し、人々にそれらを禁じた。その中で最も忌み嫌われるものに色欲がある。曰く、「みだりに情欲を満たしてはならない。それは人を魔へと変じさせる恐ろしい悪性である。種の繁栄以外の目的に情欲を行使した場合、身体はおぞましい穢れに塗れる。教会の儀礼にのっとり洗浄するか、焼却せねばならない」と。
妖精の国は、その禁制に抵触した。
ティーナの住む森は、〈桃色の森〉と呼ばれる名所であった。その森には妖精が宿っており、晩に迷い込んだ男性を桃色の幻想世界へといざなうのだ、と旅人の間では噂になっていた。しかしもっぱらの話題となるのはその後に続く噂についてだった。
妖精は自分の国へ連れてきた男性と体を重ね、夢の様な快楽を与えるのだという。そうして男性の精力を吸い取り、自身と森のための養分とすることで生き永らえているというのだ。妖精の誘惑に嵌まり快楽の虜となった男性は、気が付かないうちに衰弱し、最後には干からびてしまうのだ。
妖精の国は各地に点在しており、様々な形で地域伝承に現れていた。子細は異なるが、妖精が誘い、交わり、吸い取る、という部分だけはどれも同じであった。
王国は妖精の国を撤廃する運動を推し進めた。森を進んで利用しようとする者が後を絶たなかったからだ。快楽主義者に世捨て人、そういった類の人間が身の危険も顧みず、美しい女性の姿をした妖精と交わるためだけに夜な夜な森へ赴くのだ。妖精の国は、人を堕落へ引きずり込む悪魔の住処なのだ、と断じられた。
私は何も知らなかった。国のことも、ティーナのことも。
森から抜けた後、私は森を燃やしに来ていた役人たちに保護され、平野を馬で駆けた先にある見知らぬ町の教会へと送られた。
傍から見た私の姿は相当に不審なものであっただろう。夜に〈桃色の森〉にいるということは、それ自体が妖精の色香を求める行為に他ならず、男性であれば悉く刑罰の対象となるからだ。教会では、〈桃色の森〉から現れた身元不明の少年をどう扱うべきか図りかねていたようだが、まだ劣情を知らぬような子を考えなしに断罪するのも神の意向に沿わないとして、火あぶりの刑が下されることはなかった。その代わりに私は教会が運営する孤児院に預けられ、将来的には教会に務め、少年期に染みついた罪を雪ぐ未来を約束された。
赤い屋根の孤児院には私と同じように親から見放された子供が多くいた。彼らは互いに手を取り、不幸の傷を舐めあって暮らしていた。助け合う彼らの間には鬱屈とした空気は流れておらず、皆が楽しい日々の中でいつか来る救いの時を待っていた。
教会の教えの中で育った彼らは熱心な信徒であった。彼らの中で年長の一人が私に言った。
「君は悪魔に囚われて、今まで逃げることも叶わないまま虐められてきたんだね。ひどく悲しい話だ。でも君は解放されたんだ。これからは悪魔に怯えることなんかない。ここで一緒に楽しく過ごそうよ」
青年はさながら私を救済するように、落ち着きのある笑みと共に手を差し伸べた。彼は子供たちのリーダーなのだった。
孤児院の子供は私が〈桃色の森〉から現れたことを知っており、特別に慈悲を与えるように神父から言い含められていた。
私は彼の言うことに反感を覚えずにはいられなかった。ティーナを悪魔と呼ぶ人間をどうしても許すことができなかったのだ。私の声は自然と尖っていた。
「僕はあの人を悪魔だなんて思ったことはない。あの人は、僕を育ててくれた母親だ」
「僕たちの母親は神様だけさ。かわいそうに。悪魔に脅されているんだ。大丈夫だよ。あの森はもう焼け野原さ。悪魔だって焼け死んだ。君を縛る者は、もうどこにもいないんだ」
私はすっかり頭に血が上って、年上の青年に掴みかかった。服を引き裂かんばかりに掴んで押しても、自分より大きな体は少しよろめいただけだった。
周囲では孤児院の子供たちが不安なまなざしを私と青年に向けていた。ヒステリックな語調で言葉を投げる者もあった。しかし子供たちの中から聞こえたのは、青年の言い分を助長する声と、私の言葉と行動を諫める声だけであった。
新しい世界ではどうやらティーナは悪者であるらしい。あの優しい人は、国中から否定されるべき悪性の象徴であるらしい。それらが間違いだと知っているのは、私だけであるらしい。
何も知らない人間が遠巻きになってティーナを傷つけていることに幼い心は我慢ならず、どうしようもない憤りを目の前にぶつけた。
「あの人は死んでなんかいない! お前たちは見ていないからそんなひどいことが言えるんだ! あの人を。あの世界を。一度でも見れば、悪魔とか焼け死んだとか言えるもんか!」
青年は無抵抗のまま、憐れむような目で私を見下ろした。私は一人で喚き、青年に暴力を振るう問題児であった。彼らからすれば、私がそうなったのも全て〈桃色の森〉の悪魔のせいであった。
程なくして私は取り押さえられた。同年代程の子供が腕や肩を持って私を青年から引きはがしてゆく中に、冷たいものが辺りを覆い尽くしているような空気があった。それを感じると、無性にティーナの顔が見たくなった。この時に感じた己の孤独を残らず話してしまって、彼女の腕の中で眠りたいと強く思った。
その日の晩、隔離するようにあてがわれた個室のベッドで、夢を見た。私が願った通りの夢で、私はティーナの隣に横たわり目を閉じていた。薄く目を開いた側には向こうを向いた彼女の背中がある。ただ、触れようと手を伸ばしても彼女は遠ざかるばかり。いつまでも手に感触はなく、私は満たされない。そんなことを繰り返しているうちに彼女の像はぼやけていった。
私はつい先日まで側にあったものに、すっかり手が届かなくなってしまった。やりきれなくなる程に切ない寂しさが募ったが、涙を流しはしなかった。
これが別れなのだと、消えかかった夢で悟った。
肉親は存命か、という神父の質問に、私は首を横に振った。母と姉の暮らしのために、私はいないことにしておいた方が都合がいいと思ったので、自分を身寄りのない子供とした。彼女らを憎むつもりはなかったが、何一つ変わらぬ家族でいることも出来そうになく、今さら家に戻りたいとも思えなかった。
私は孤児院という一つの家族に放り込まれ、そこで生きていくことしかできなかった。初めこそ窮屈な居場所に思えたが、寄り集まって助け合う子供たちの生き方に混ざるのは、苦ではなかった。私が気を許せば、自然と周りに人は集まり、同じように気を許したのだ。
孤児院は勉学をする場でもあった。無学だった私は、周囲に教えを乞いながら熱心に学ぼうとした。
大人になれば教会に属することになる以上、宗教の教えは努めて学ぶべきであったが、教理がたまにティーナの存在を否定するような瞬間があり、宗教の授業は苦手だった。苦手でも、必要なことだったので、無心で頭に叩き込んだ。
一つの共同体となっている孤児院にも、一人で暗く孤独に過ごす子供はいた。私はそんな人にこそ声をかけた。彼らは不安定で、それ故に人から距離を置き、人からも距離を空けられていたが、その目は救ってほしいと言っていた。
孤児院に預けられた子供は親がいない者ばかりだ。私のように物心ついてから金銭的な理由で孤児院に預けられる者がいれば、親の顔も知らない者もいる。どの場合にも一様に、子供たちは神を母親と信じて育てられるのだ。
孤独な子供たちは、親から暴力を受けて孤児院に預けられた者ばかりだった。だから自身に注がれる愛情を知らないのだ、と私の目には映った。
私も孤独で行くあてのない、誰にも救いを求められない経験があった。だが、孤独を埋めてくれた愛情を知っている。私には彼らに同じものを与えることはできないが、一人でいることの苦しさを和らげることはできた。そんな私にしかできないことがあった。
ティーナのおかげで私は自己破滅的な考えに陥らずに済んだのだろう。彼女が私に愛情を注いだ意味を、残したいと思った。
特に親しい友人も何人かでき、私は彼らにティーナという妖精のことを語る時があった。彼女は皆が思うような悪魔ではなかったことを知ってもらおうとした。
同じ宗教を学び、それが考え方に根差しているのであれば、男を誘惑する妖精を肯定することはできないはずだ。作り話だと思われても仕方ないと、私は半ばあきらめ気味に語ったのだったが、ある少女は私の話を聞いてこう言った。
「あなたにとって良い母親だったのね。じゃあどうして、その妖精さんはあなたを育てたのかな?」
私は彼女が神を信じる者でありながら、私の語る妖精の話を信じたことに驚いた。そして私が気づかなかったことに目を向けたことにも。思えば、ティーナには私を拾う理由がなかった。
話を聞いていた他の友人は、もしもの時に取って食うためだ、と言った。しかし最初にティーナと会った時、彼女は何もせず私を帰したのだ。次に会った時は何と言っていたか。
「子供から養分をとっても仕方ないって言ってたような」
「じゃあ、大人になるまで育ててから食べるつもりだったのかも」
少女は言った。
私はそれを否定した。現に私は食べられていない。
ペットみたいな感覚だったのでは。子供をからかって遊んでたのでは。妖精の子供と間違えたのでは。人間を洗脳しようと企んでいたのでは。やっぱり矛盾している、これは作り話なのでは。様々な憶測が飛び交ったが、どれも答えとは違う気がした。
ティーナが私を拾って育てたことには、もっと複雑な感情の機微が絡み合っている。もう一度会えたなら、きっと聞こう。そう思った。
やがて談義も尽き、終わりになった頃に少女がぽつりと言った。
「ま、母親が子供を育てるのに、理由なんてないよね」
一同はその結論がなんだかおかしいようで笑った。
答えが出ない問題だったが、彼女が呟いた一言が最も真実に近いような気がした。
ティーナは妖精であり、妖精は人間を肉欲に溺れさせて最終的に食べてしまう存在である。それは恐らく事実で、覆しようがない。
彼女が発する匂いに私は惹かれた。あれは男を誘う匂いだったのだろう。
リンゴを食べると元気になった。リンゴには滋養強壮、ひいては精力増強の効能があったのだろう。
彼女に襲われた日があった。一年間もまともな養分を摂れなかった彼女の本能的な行動だったのだろう。
彼女がどれだけの年数を生きて、いくつの命をその身の養分としてきたのかは知れない。その度に、何人の男に体を許してきたのかも。彼女は何一つ語らなかった。少なくともその事実は、自分の子供に語れるようなものではなかった。
ティーナという存在の真実を知ってもなお、私は彼女を純粋に愛せるというのか。私の思いは、妖精の誘惑する力によってもたらされたものではないのか。そうだとすれば、私とあの森で出会った男との間に、何の違いがあろうか。
いや、私には他の人間にはない、ティーナとの繋がりがある。私だけが知っている、私だけが覚えている温もりがある。それは何よりも信じるに値するものではないだろうか。有形無形の憶測は私の認識する事実から外れたものでしかないのだ。私は自分が記憶するあの一年間をないがしろにしたくはない。
〈桃色の森〉は焼けてしまった。妖精の国への入り口は形もなく、妖精の姿もない。茜色が空を覆った日、ティーナの住む世界はどこに行ってしまったのだろうか。
痕跡を何も残さず姿をくらました世界に、現実は素知らぬ顔をして通り過ぎてゆく。夢のようであった世界は、本当に夢であったかのように、日々を重ねるごとに私の中で薄まり遠ざかる。
消えてしまった? いなくなってしまった? 永遠に? 本当に? 本当に? 本当はそんな人、最初からいなかった?
強く思い続けていたはずが、ある日は忽然と途切れてしまう。私はいつしか自分の幸福を自分自身で描けるようになった。彼女の面影に縋る必要のない生活は、なんと満たされていることか。そうして私を支えた彼女の影は、私を見送るように離れてゆく。
妖精の国が忘れられるに従い、時間が経過するに従い、私が大人になって自立していくに従い、消えてゆく。
ただ一つ、約束だけが宙ぶらりんとなったまま、しかし消えず、果たされる時を待っている。
長い、長い、記憶など容易く摩耗してしまうほどに長い約束の歳月が、日付変更の零時と共に、静かに明ける。
私は古い置き時計の針が重なるのを見届けると、音を立てずに教会の扉を開き、夜空の下へ抜け出した。
友人に似合うと褒められた黒の祭服を着たまま町を歩き、さらにその外へと向かう。これが五年ほど前であったならば緊張で足もぎこちない動きをしていたであろうが、今やそれもなかった。
教会に属する身となって一年が経ち、私は十九歳になった。〈桃色の森〉から現れた私にこそ教理の体現を望まれ、私は孤児院を出るまでの間、宗教を体の芯まで染み込ませた。神の教えを説く立場につくため、頼りとなるような立ち振る舞いを身に付け、言葉遣いもふさわしいように矯正した。
しかし、もはや教理を守る私はいない。元よりそれにふさわしい人物ではなかったのだ。一人への思いを、ついに絶やすことなく潜伏させ続けた私に、聖職者たる資格はない。
首に下げる十字架は部屋に置いてきた。したためた遺書に添えて。
町と外を繋ぐ門の付近で手筈通りに停めてあった馬にまたがり、その場所へと駆ける。
ティーナに対する思いは、この十年間で輪郭がひどくぼやけてしまったが、それでも失くしきれない残り香のようなものがあって、それを思うといつも胸が苦しくなった。私は結局、いつかの夢をあきらめられなかったのだ。
今日までの十年間は豊かなものであったと、私は胸を張って言える。何もかもが上手くいったわけではない。何気ない生活の中に、心を痛めるどうしようもない苦しみや悲しい事件があり、不意に渡された贈り物のように幸福な出来事があった。それらが折り重なって紡がれた人生は人並みで、思い返すと苦々しいような、顔が綻ぶような。そう在れたことが幸せであった。
こんなにもささやかな日々を思って満足できるとは、少年時代の私には分かるまい。
ティーナの母親としての愛情が私を豊かにした。本当ならば、それで終わっていればよかったのだ。
彼女を母親として思うと同時に、女として愛してしまった。自身から湧き出る感情に気づいてしまった以上、求めずにはいられない。
正しく思いを告げるため、大人になった姿でもう一度会う必要がある。今度は息子としてではなく、一人の男として彼女の前に立つのだ。
馬鹿な子供と、彼女は笑うだろうか。当然だ。私は子供の時から何一つ変わらず、阿呆であるのだから。
馬を停めたのは、かつて森があった場所。今なお平原が広がるばかりになった土地は、開発されるでもなく、ただ放置されていた。
馬具を外してやって、馬を野に放つ。高い金を払って手に入れた馬だったが、惜しくはない。
ティーナと会えるか、否か。結果がどうあれ、私は町へ戻ることはないだろう。人並みに続いた人生は今日で終わりだという、漠然とした予感があった。
森であった場所は数年かけてにわかに草木が再生していた。元通りになるのは何年後のことか。既に兆しはある。
中心となってこれから広がっていくであろう地点には、背の低い木が数本だけ生えている。それらに囲まれて、植物が一個の塊のように生え並んでいる。植物の塊には、人が一人入っていけそうな空洞ができている。
今日は満月が綺麗な晩だ。
かつてと同じく私は植物の中へ入ろうとしたが、鼻先に漂う甘く懐かしい香りに立ち止まった。そして私はまたも虜となってしまう。
間違えようがなかった。
背後を振り返り見上げると、上空から羽を持った小さな妖精が美しい笑みを浮かべて、私の元へ向かってきていた。
久しく見ていなかった彼女の姿を前にして僅かに息を呑む。驚いた心を落ち着かせるように、ゆっくりと息を吸って肺を満たし、小さく開いた口から吐き出してゆく。
彼女が現れたことに疑問はない。ただ嬉しいと思う気持ちがあるだけだ。
しかし問題はこれから。私はこの後、自身の思いを告げるだろう。そうするとどうなるだろうか。
妖精と人間はどうしても相容れない。両者の間には捕食者と被食者の関係があるのみだ。人間を愛せない彼女は、何を以って私への答えとするのか。私の告白に答えるのは母親としての彼女か、女としての彼女か、妖精としての彼女か。
彼女は十年前と全く変わらない姿で私の目の前にいる。何度見ても美しく、何度見ても憧れる。何度も、惚れ直す。
私は、もうどうなってしまってもいいと思った。
この体は彼女の養分となるか、それとも――。
――私の可愛い坊や。いけないと言ったのに、愚かにも戻ってきてしまったのね。ああでも、アナタが来てくれて、やっぱり私は、嬉しい――
どうだったでしょうか?
僕自身、こういった家族愛のような、恋人同士の愛のような、純粋に突き進むべきかどうか躊躇われるような感情を描いたことはないので、この物語が皆様にどういう印象を与えるのかよく分かりません。よろしければ、評価や感想をお願いします。
書きながら思ったことは、この物語はどうにもグッドエンディングを迎えられそうにないな、ということです。




