近づく距離
どのくらい時間が経っただろうか。もう日が傾いている。
「スケッチはどうなったんだ?」
俯く彼女のまつ毛に見惚れていたら、彼女が少し恥ずかしそうにスケッチブックを開いて見せてくれた。
「……よく描けている、と思う。……また、モデルに……な、なってやってもいいぞ」
「まあ!ありがとうございます。では早速ですけれど、手も描かせてくださる?」
そう言って、彼女は躊躇いもなく私の手にそっと自分の手を重ねてきた。
近すぎる距離に、胸の動悸がうるさく鳴り響く。
「……大きな手。私の手とは随分違いますのね?もっとよく見せて」
「……ちょっ!?」
「……っ君には……少しは慎みというものはないのか?!」
(頼むから落ちついてくれ、私の心臓……!)
思わず大きな声が出てしまった。
……気をつけないと。
「……あら、失礼。芸術と慎みを天秤にかけたら……好奇心が勝ってしまいましたわ」
「慎みは一体どこへ行ったんだ……」
にこにこと無邪気に微笑む姿に、すっかり毒気を抜かれてしまう。
「……どうぞ。見るだけなら。あまり触らないでくれ、クラウディア嬢」
この屈託のない笑顔に、私はどうしようもなく惹かれ始めていた。
「もう『嬢』はやめてくださる?……先ほど、クラウディアって呼んでくださいましたわ」
「……あ、あれは……つい、だな……」
慌てて視線を逸らそうとしたが。
『クラウディア』
呼び捨て──。
込み上げてくる嬉しさが顔に出てしまいそうになり、咳払いで誤魔化す。
「また、そう呼んでくれたら嬉しいわ」
そう言って悪戯っぽく微笑む彼女に、私は思わず頷いてしまっていた。
(そんな顔で言われたら、もう拒めるはずがないだろう……)
私たちはこの日から、以前よりもずっと近づいた……どこかもどかしい距離感で一緒に過ごすようになっていたのだった。
◇
プリムラ花壇の前で、クラウディアがしゃがみ込み、夢中でスケッチをしている。
ふと見ると、彼女の上質なドレスの裾が泥のついた地面に触れていた。
(……あ、裾が汚れてしまう)
思わず声をかけて指摘しそうになり──ぐっと言葉を呑み込んだ。
こんな時、かつての私はどうだっだろう。
──元婚約者が、楽しそうな顔をしてペンを走らせていた姿を思い出す。
私はいつだって自分の考えを押し付けてばかりで、すぐに思ったことを口にしては、彼女の顔を曇らせていた。
勉強ばかりして、すぐ書き物をして、綺麗な指をインクで汚して。けれど、好きなことに没頭するあの瞳は、いつだってきらきらと輝いていたのだ。
『もっと綺麗にしたらどうなんだ』
『伯爵家の名に恥じぬよう、社交に力を入れろ』
そのままでも十分に可愛らしかったけれど、もっともっとドレスや宝石で着飾らせたかった。華やかな社交界に連れ出して、『俺の婚約者はこんなに可愛いんだぞ』と自慢したかった。俺の美しいと思うものを、たくさん見せてやりたかった。
『くだらない手仕事に時間を費やすな』
紙にペンを走らせる姿は好きだったのに。そのきらきらとした瞳を、ほんの少しでも自分に向けてほしかったのだ。
全部……全部、くだらないプライドと素直になれない口が邪魔をして、真逆の言葉で傷つけてしまった。好きな人の一番大切なものを否定してしまった、若き日の愚かな自分を、今すぐ殴り飛ばしてやりたい。
すぐにカッとならない。一呼吸置いて、自分の気持ちを伝える時には慎重に言葉を選ぶんだ。
一方的に自分の価値観を押し付けない。相手のことを、よく見るんだ。
汚れたら、洗えばいい。
……いや、そもそもクラウディアがしゃがみ込んでも絵を描きやすい、とびきり機能的で美しい服を、私が考えてやればいいじゃないか。後で雑貨屋の親父さんに相談してみよう。
自由に描いているクラウディアは、たまらなく魅力的なのだから。
カフェのテラスでゆっくり茶を飲んでいたら、私に気づいた彼女が嬉しそうに駆け寄ってきた。
「ジュリアン様、プリムラが小さな蕾をたくさん付けているの。咲くのが楽しみだわ!」
「……ああ。あと数日で、たくさんの花が開くだろう」
気恥ずかしさに耐えながら、(一緒に……)と言いかけていると、
「その時にはジュリアン様と一緒に見たいですわ。太陽の下で咲く花は、さぞ美しいでしょう」
ね?と微笑む彼女が眩しすぎる。
「……喜んで。私も、一緒に見たい」
彼女と未来の約束を交わせることが嬉しくて、自然と唇がほころぶ。
その時──ぽつ、と冷たいものが頬を打った。
「あら……雨?」
空があっという間に暗くなり、パラパラと雨粒が落ちてくる。
「急いで帰らなくちゃ!窓を開けたまま出てきてしまいましたの。描きかけのキャンバスやスケッチが濡れてしまったら大変ですわ!」
(雨の中を帰るつもりか!?濡れてしまう……!)
「おい待っ……!……待ってくれ」
立ち上がろうとする彼女の頭上で、私は慌てて上着を脱ぎ、彼女の頭を包み込むようにそっとかぶせた。
「……ジュリアン様!?」
「私のことはいい。……君の大切な絵だ、急ぐといい。……風邪を、引かないように」
彼女が上着の裾をキュッと握りしめて俯いている。
(……余計なお世話、だっただろうか)
……恐る恐る顔を覗き込むと、俯いた、綺麗なまつ毛が震えていた。
「……ありがとうございます。上着、お借りします。お洗濯してお返ししますわ」
顔を上げた彼女の瞳は少し潤んでいて、私の知る中で一番綺麗で、とびきりの笑顔だった。
「……プリムラのお約束、絶対に忘れないでくださいませ」
「……ああ。わ、私の方こそ……楽しみにしている」
雨の中走っていく彼女の背中を見送る。
(……あんなに走って。転んだら危ない……っ!)
心の中でこうして心配するくらいなら、許されるだろう。
先ほどの笑顔が頭から消えない。……胸に手を当てると、激しく脈打つ音が響いていた。
気がつけばクラウディアのことばかり考えている。
……この胸の想いを、もう誤魔化すことなんてできそうにない。




