彼の苦手なもの
「本当は、今日スケッチを描かせていただくつもりだったのに。酔って時間がだいぶ過ぎてしまいましたわ」
門の前で足を止め、名残惜しく振り返る。
「次は絶対にスケッチをさせていただきますわよ。お約束しましたものね」
「あれは……確かに約束した。……だが次回、一度だけにしてくれ」
ジュリアン様が困ったようにため息をつく。けれどその瞳は優しく私を見つめていた。
……彼は、約束をきちんと守ってくださる律儀な方だわ。
この居心地の良さに浸っていたくて、もう少しだけお話していたいのにと一抹の寂しさを感じていたら──。
「今日は感謝する。クラウディア嬢のおかげで、取材を無事に済ませることができた。何か御礼をさせていただきたいのだが……ご希望はあるだろうか」
「え……!では、スケッ──」
「スケッチ以外で!頼む。……一度きりにしてくれ」
即座に遮られてしまった。照れている彼の様子に、思わず可笑しくなってしまう。
「残念ですわ。……では、そうね。あの美しい湖で、小舟に乗ってみたいですわ」
「小船……?だが、男女二人きりで乗るのはいささか……」
気まずそうに視線を彷徨わせている。困らせてしまったかしら。でも、以前から一度乗ってみたかったのよね。
「だって、私の力ではとても漕げそうにないのですもの。ジュリアン様がダメとおっしゃるのでしたら……街の他の方にお願いするほかありませんわね」
「いや、それは止めてくれ……っ!君一人で乗るのは危険だし、心配だ!それに……っ、……他の男を誘うのも……」
勢いよく言いかけたジュリアン様の大声に驚いていると、彼はハッと口を噤み、みるみる顔を赤くしてどんどん声が小さくなっていった。
「…………承知した。小舟だな。……私が、お供する」
困り果てたようなジュリアン様の顔。
でもどこか嬉しそうな顔。……そう見えるのは私の願望かもしれないけれど。
友人の線を越えたりは……しない。
過去に傷を負った私に、彼がそんな関係を望むはずもないのだから。
甘い期待を抱いたりは……しない。
でも、いま積み重ねている二人の距離を、何よりも大切にしたいと思っている。
……またこうして会える。
しかも、あの美しい湖で、二人きりで。
この胸の高まりとドキドキを楽しむくらい、したっていいのではないかしら。
照れ隠しに前髪を弄る彼の横顔に、思わず笑みがこぼれたその時──。
◇
門にタタタタ……っと軽快な足音が近づいてきた。
近所のワンちゃんだ。
時々脱走しては、我が家の敷地に遊びに来る元気な子だ。
ちぎれんばかりに尻尾を振り、一直線にこちらへ駆け寄ってくる。
ジュリアン様に勢いよく飛びつこうとした、その瞬間──。
「ひっ……!こ、こら……!来るな、あっちへ行け……!」
ジュリアン様の顔が、一瞬で見たこともないほど引きつった。
「……ジュリアン様?犬がお嫌いですの?」
「き、嫌いではない!だが、得意でもない……!!」
ぐいぐい鼻をすり寄せてくる犬に対し、ジュリアン様は大きく腰を引かせ、必死に手をかざして「待て」のポーズをとっている。
「ま、待て……!お座りだ!頼むから落ち着いてくれ……っ」
全然「待て」が効いていない犬は、ますます嬉しそうにジュリアン様の指先に鼻を擦り付けている。
「すごく懐かれていらっしゃいますわ」
「懐かれてなど……っ」
そこへ飼い主のご近所さんが慌てて駆け込んできた。
「これこれ、スカイラインのお坊ちゃんを困らせるんじゃないよ。クラウディアさんも、いつもすみませんね」
そう言って恐縮しながら、慣れた手つきで犬の首輪を引いて連れて去っていった。
(スカイライン……?)
その言葉に引っかかりを覚える。
スカイライン──この街を治める領主様の家名だ。
……ジュリアン=スカイライン。
引きつった顔のまま「……助かった」と胸を撫で下ろしている彼の横で、私の頭の中に、かつて王都の社交会を揺るがしたひとつの記憶が鮮やかに繋がっていく──。




