彼の過去
脚立に上り、大胆に枝を落としていく。
新しく作った遊歩道は、まだ少し鬱蒼として暗い。これではこの場所の美しさが活かしきれない。
もっと木漏れ日が柔らかく降り注ぎ、その隙間から空を仰ぎたくなるような心地よい空間にしたい。
黙々とハサミを動かしているうちに、少しずつ思い描く理想に近づいてきた。
──ふと、あの帽子の令嬢のことを思い出す。今日も絵を描いていたな。
朝の幻想的な湖を捉えた、澄んだ美しい絵だった。不躾だとは思いつつも、通りがかりについキャンバスへ目を奪われてしまったのだ。
あの絵に、これからどんな色が乗っていくのか……少し楽しみにしている。
◇
手元を動かしながら、ふと、ある日を境に家からありとあらゆるものが消えてしまった昔のことを思い出していた。
当時領地の屋敷に引きこもっていた私には、何が起きたのかを知る由もなかった。だが、突然王都から父が戻り、重苦しい空気の中で夕食を共にしたのだ。
分かったのは、兄が家を継ぎ、母は実家に帰ったということだけ。
それからというもの、屋敷の家財が次々と売られていった。自室の壁に飾られていた、あの美しい湖の絵さえも消えた。
……私のせいなのだろうか。そう尋ねる勇気すら、当時の私にはなかった。
自分には、何もできない。ひどく惨めで、残酷な現実だった。
だが、どんなに心が空虚でも、目の前に温かい料理を出されれば腹は減る。ただ食事をし、幾らかの読書をし、部屋で寝起きをするだけの怠惰な生活。虚しさだけが澱のように募っていく。
王都から帰ってくるたび、やつれて顔色の悪くなっていく兄を見ているのが辛くて、ある日、たまらず一歩外へ踏み出した。
そこで目にしたのは、息を呑むほど美しい湖だった。
絵はもう失われた。けれど、本物の湖がここにある。
いつしか、毎日のように湖へ通い詰めるようになっていた。
だが、道は歩けばすぐ泥に足をとられ、あたりは不快な雑草で覆い尽くされている。悪路という悪路に、ひどく苛立ちが募った。
この道が綺麗に整備されていれば……この邪魔な枝がなければ……。頭の中には、はっきりと理想の湖の風景が描かれているのに。
兄に相談しようかと考えもした。だが「娯楽に回す金などない」と叱られることだろう。
どうしたら……俺に何ができる。
ある日、気がつくと夢中で邪魔な草を掴んでいた。
だが、力任せに引きちぎった瞬間、手のひらに鋭い痛みが走る。
鮮血がじわりとにじんだ。草がこれほど鋭利なものだとは、知らなかったのだ。
傷だらけの手で屋敷へ戻り、傍らで馬の世話をしていた馬丁に溢すと、かつて屋敷に通っていた老庭師を紹介された。
素直になれない自分が不甲斐なく、無駄なプライドが邪魔をする。それでも頭を下げ、一から庭造りの教えを請うた。
……その甲斐あって道は少しずつ形になり、今では「親方」と呼ぶその老庭師と、時折酒を酌み交わすくらいには打ち解けることができた。
──あれから、五年。なかなか良い湖畔になってきたんじゃないだろうか。
自分の掌を見つめる。今では硬いタコができ、すっかり無骨な職人の手になっていた。
……最初は鋸を引くのさえ、一苦労だったな。
繰り返し練習すれば、できるようになるものだ。
満足感を覚えて今日の作業を切り上げようとした、その時。
すぐ目と鼻の先に、あの帽子の令嬢が立っていた。
真剣な眼差しでスケッチブックに向かっている。……見れば、そこに描かれていたのは私の横顔だった。
◇
「な…………!?なにを……っ!?」
あまりの衝撃に、声が裏返った。彼女がパチパチと目を瞬かせ微笑む。
「動かないでくださいませ。今、とても良いところですの。木漏れ日を浴びるあなたのお顔、とっても絵になりますわ」
なぜだろう、言われるがままに体がすくんで固まってしまう。
必死で顔を動かさないように耐えながら、声を絞り出す。
「て、てっきり……景色を描いているのだとばかり……」
「景色も描きましたわ。でも、振り返れば見る見るうちに木漏れ日が差し込む美しい小道が出来上がっていくではありませんか。……そこで慈しむように枝を切るあなたの横顔が綺麗なラインをしていらっしゃったので……つい」
「つ、つい、ですか……」
(心臓に悪い……!あと少しで脚立から転げ落ちるところだったぞ)
「……絵がお好きなんですの?私の絵を、よく気にしていらっしゃるわ」
気付かれていた。動悸が激しくなり、彼女の顔を直視できない。
「っそんなわけ……いや、コホン。それなりに……美しいものは好きです。…………あ、あなたの絵も、出来上がりを……実は、楽しみにしていまして」
「楽しみにしていただけて嬉しいですわ。美しいものは私も好きですの。……今枝を切っていらっしゃったこの小道も、木漏れ日が柔らかく差し込んで大変美しいと思いますわ」
「……ありがとう。こだわった甲斐がある」
(こうしてまっすぐに喜んでもらえるのは、こんなにも嬉しいものなのか)
「あの、宜しかったら、一度我が家へいらっしゃいませんか?私の描いた絵ばかりですけれど、たくさんありますから。帽子と……このリボンのお礼をさせてくださいな」
彼女の帽子には、私がデザインした青いプリムラの刺繍リボンが結ばれていた。よく似合っている。
(……本当に、美しいな)
感心して見惚れていると、彼女が軽やかに私の周りをくるりと一周した。
目の前で青いリボンがふわりと翻り、風に靡く。
「これが例のハンチングですのね。……後ろ姿のラインも見事ですわ」
今度は私の後頭部をスケッチし始めたようだ。
「お、お誘いはありがたくお受けする。今は服も汚れているし、あまり……近付かないで、くれ。日を改めさせてほしい。……スケッチも、その時に」
「まあ。ふふ、承知しましたわ」
「もう日も暮れてきた。……家まで送ろう」
「まあ。ありがとうございます!では帰りながら、約束の日取りを決めましょう」
道すがら互いに名を名乗り、ようやく私たちは「知り合い」と呼べる間柄になった。
正直なところ、貴族の令嬢と話すことにはかなり躊躇いがあったのだが……彼女は不思議なほど話しやすい。
仕事でも親方にも「こだわりすぎだ」と呆れられるほど、私はどうしても細かいことが気になってしまう性分だ。
だが、芸術を愛する彼女とは、驚くほど美の感覚が合うように感じられた。
あるべき場所にきちんとおさまっている、この街のそう言う佇まいが好きだと彼女は微笑む。
自分と同じものを大切に思い、価値を分かってくれる人がいると知り、素直に胸が温かくなった。
「あのプリムラの花壇、カフェのテラスから眺めたら絶対に素敵だわ」
今だって、私が苦心した花壇の配置にすぐさま気付いてくれる。
せっかく美しい花なのだから、誰もが目を和ませられる場所がいいと、悩んだ末にこの位置を選んだのだ。
「薄暗くなってしまって、プリムラの色がよく見えないのが残念ですわ」と呟く彼女。
(……太陽の下で、咲き誇る花壇を見てほしい)
そんな言葉は気恥ずかしくて口にできなかったが、光を浴びて彩られる花々を見たら、きっと彼女は気にいることだろう。
「ああ、……甘栗屋さんは閉まってしまったのね。今日食べ損ねてしまいましたわ」
このよく喋る口が、甘栗を頬張る姿を想像する。
きっとリスのように頬を膨らませるのだろうなと、思わず笑みがこぼれた。
……久々に、こんな風によく笑った気がする。
それからというもの、私たちは街で顔を合わせるたびに、他愛もない会話を交わすようになった。
そうして幾日かが過ぎ、迎えた訪問の日──。




