遅咲きの恋
ジュリアン様がまたアトリエへ来てくれた。
出来上がったばかりの青いプリムラの絵を気に入ってくださったのか、彼はしばらく眺めている。
二人で午後のお茶を楽しんでいると、窓の外にまたあのワンちゃんがやって来た。窓越しにこちらを眺める姿に、ジュリアン様がわずかに身を引く。
「……実は、犬は……苦手なんだ。……大きいのは特に。以前、本気で追いかけられたことがあってな……」
「まあ……犬にたいそう恐ろしい目にあいましたのね。……お可哀想に」
「……いや、悪いことをしようとしたからな。天罰……だったんだろう」
ぽつりと呟き、俯くジュリアン様。
自分の過去を恥じるように伏せられた長いまつ毛と金色の髪に、無性に愛おしさがこみ上げて、そっと頭を撫でてあげたくなってしまう。
──『侯爵家三男、巨犬に踏みつけられ乱心か』
彼について載っていたゴシップ記事は、確かそんな見出しだったかしら。
昔の苦い記憶やトラウマを、何か明るく忘れてしまえる方法はないかしら。
……踏みつけるのは、さすがに私にはできそうにないけれど。私にできることは。
(こんな甘い『上書き』は、どうかしら?)
私は席を立ち、窓越しにワンちゃんの頭を優しく撫でながら、振り返って彼にそっと囁きかける。
「ジュリアン様。犬というものは、躾をきちんと施せば、とてもお利口になるのですわ」
「……?」
ぽかんと首を傾げる彼の方へ、微笑みかけた。
「いっそ、犬の気持ちを想像してみるのは、どうかしら」
「……え?」
ジュリアンさまが目を丸くして私を見つめる。
私は窓の外の犬を優しく撫で続けた。
「まずは喉のあたり。……次は背中。ほら、うっとりした顔で気持ちよそうにしているでしょう?」
「焦らずゆっくり触れ合ったら、こうして仲良くなれますの」
「……でも、無理はなさらないで?次から柵をして、入って来られないようにしますわね」
「……別に。この犬は……静かだから、い、いてもいい」
顔を真っ赤にしたジュリアン様が、ぷいと顔を逸らした。
◇
……クラウディアに撫でられているあの犬が羨ましくてたまらない。
まさか犬に嫉妬する日がくるなんて、夢にも思わなかった。
彼女は犬を迎えにきた飼い主に手を振り、窓とカーテンをそっと閉めた。
通り過ぎる彼女の後ろ姿に、思わず手が伸びそうになる。
(ダメだ……あと一歩の勇気が出ない)
名残惜しいがそろそろ帰るかと立ちあがろうとした私の前に、クラウディアが静かに立ち塞がった。
「……犬は躾をきちんと施せば、お利口になるのです」
彼女が一歩、こちらへ近づいてくる。
「……あ、ああ」
「……いっそ、あなたが私の犬になってしまうのは、どうかしら」
(どういう意味だ……!?)
思考が停止する私の顎へ、クラウディアの美しい指先がすっと伸ばされた。
そのまま喉仏へとなぞり上げられる。
「まずは、喉のあたり」
喉が、思わずごくりと音を立てて鳴る。
「次は背中……」
服の上から、背筋を触れるか触れないかの絶妙な力加減で撫で上げられる。
彼女が触れた場所が、焼けるように熱い。
「私の前だけの、ワンちゃんに」
「ゆっくり触れ合ったら、こうして仲良くなれますのよ」
彼女が私をじっと見つめながら、また一歩近づく。
「……試してみます?」
途端に顔がかーっと熱くなった。
先ほどの犬への嫉妬を、すべて見透かされている。
(なんだ……?俺をからかっているのか!?人の気も知らないで……!)
クラウディアが前夫とこうして甘い時間を過ごしていたのかと思うだけで、嫉妬で狂いそうだ。
その男を殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られる。
「そうやって……人の気持ちを振り回す……!」
感情の抑えがきかなくなり、苛立ちが爆発する。
「他の男どもにも、同じようなことしていたんだろ!」
(あ……しまった!最悪だ。またやってしまった)
「……っ、さあ……どうでしょうね」
強がるように微笑む彼女の瞳が、傷ついて揺れている。
カッとなると余計な言葉を口にしてしまうこの口が、心底憎い。
クラウディアがすっと身体を引いた。肌で感じていた彼女の温もりがあっけなく遠ざかっていく。
「お互いに冷静になる時間が必要だと思うの。今日はこれでお別れしましょう。……また、お会いできますわね?」
「……ま、待て!……………………すまない」
逃げ出したい。顔を背けたい。
……けれど、もう二度と逃げないと決めたのだ。きちんと彼女と、向かい合うんだ。
「嫉妬、だった……。憶測で適当なことを言われる辛さは……わかっている、つもりだったのに」
「結婚……していたことだって、本当は許せないんだ。過去に戻れるはずもないけれど……俺が、一番先に出会いたかった……!」
クラウディアが視線を落とし、肩を小さく震わせている。
また恐ろしい思いをさせてしまっただろうか。
「……泥棒猫には、絶対に負けませんわ」
彼女が小さく呟いた。
「……泥棒猫……?」
コホンと咳払いをし、クラウディアがゆっくりと顔を上げた。
私を見つめる瞳が今まで見たこともないほど潤み、艶めいている。
「私も……やり方が間違っていましたわね。ジュリアン様の犬を恐れる気持ちなど、私のことで甘く吹き飛ばしてしまえればと思いましたの」
「……そ、そうか……」
(恐ろしいほどの甘い荒治療だ……。……だがこれでは、次から犬を見るたびに、先ほどの妖艶な彼女を思い出してしまうじゃないか……っ)
突飛な行動の裏にあった彼女の想いに、胸が熱くなる。
お互いにもっと心を通わせようと、私は彼女へ一歩近づいた。
「奇遇ですわね、ジュリアン様。私も、まったく同じことを思っていたところですの。……私もジュリアン様に一番先に出会いたかったですわ」
彼女が同じ気持ちでいてくれた──その事実に歓喜で胸が震える。
「……ですが、色々な遠回りを経た今だからこそ。こうして湖で、あなたと出会えましたわ」
言うやいなや、彼女はすっと手を伸ばし、私のシャツのボタンに指をかけて迷いなく外し始めた。
「私、我慢というものはもう過去に捨ててきてしまいましたの。情熱と慎みを天秤にかけたら……圧倒的に『恋』が勝ってしまいましたわ」
「っ?! ちょ、お前、何を──」
「逃しませんわ……色仕掛けですの!」
「色じ……っ?!ロマンチックの欠片もない!神に誓いも立てていないだろう!?」
「大丈夫。神様は私の以前の誓いをあっさり反故にいたしましたわ。──だから、神様より先に私に誓ってくださいませ」
「ぐ……っ、じゃあ、せめてロマンチックなキスを……って、待て!なぜ手が下に降りてくる!?ベルトを外すなーーっ!!」
息を弾ませて叫ぶと、クラウディアが「仕方ありませんわね」とくすくす笑いながら手を離した。
静かに佇むクラウディア。
綺麗なまつ毛だな……と見惚れる。
……ん?まつ毛?目を閉じている……?
「……何をしているんだ」
「口付けを待っているのですわ。ロマンチックなキスを、してくださるのでしょう?」
頬を熱く染め、「さあ」と挑発してくる彼女。
頭をガシガシと掻きむしった。
ああ、もう駄目だ。完敗だ。
愛しい、愛しいクラウディアの唇。
覚悟を決めて唇を重ねようとした、その瞬間。
──なんと、彼女がパチッと目を開けた。
触れ合う寸前の距離で、クラウディアが囁く。
「ジュリアン様の瞳……青いプリムラみたいで、大好きなんですの」
「………完敗だ。愛している」
もう、躊躇う理由なんてどこにもない。
今度こそと強く唇を重ね、二度と離さないように、彼女をきつく抱きしめた。
全12話の予定です。




