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第9話 ベルフォールの市民楽団

前回の続きです。

南へ六日。

馬車の窓から見えた最初のベルフォールは、崩れかけた灰色の城壁だった。


門番は一人きりで、居眠りをしていた。

石畳はところどころ抜けていて、車輪が跳ねるたびに膝の上の笛を押さえる。


(ここが、私の一年)


父が選んだ、領でいちばん寂れた町。

罰のつもりなのは分かっている。


でも、窓から吹き込む風は、王都の香水の匂いがしなかった。

干し草と、パンを焼く煙の匂いがした。


用意されていたのは、町はずれの古い別邸だった。

祖父の代に建てて、それきり誰も住んでいない屋敷。

迎えに出てきたのは、留守番の老女が一人。


「マルトと申します。お嬢様のお世話を、仰せつかりました」


腰が曲がっていて、声が小さい。

私は馬車を降りて、頭を下げた。


「ヴィオレッタです。一年、お世話になります」


マルトの顔が固まった。

伯爵家の娘が、留守番に頭を下げる。

この国では、それだけで事件なのだ。


(水野先輩なら、初日の挨拶はちゃんとしろって言うわ)


私は少しだけ笑って、自分で荷物を持った。


◇


次の朝から、町を歩いた。


ベルフォールは、昔は羊毛の市で栄えた町らしい。

大きな通りの両側に、扉を閉めたままの家が続く。

窓に板を打ちつけた家も多い。


広場の奥には、屋根の半分落ちた大きな石の建物があった。

「あれは?」と聞くと、マルトが答えた。


「穀物倉でございます。昔は市の荷を入れておりましたが、市が立たなくなってからは、空のままで」


高い壁。広い床。屋根の梁は、まだ太い。

私はしばらく、その前から動けなかった。

体育館に似ている、と思ったのだ。


パン屋の主人は、私を見ると帽子を取って、目を伏せた。

鍛冶屋の前を通ると、槌の音が一瞬止まった。

誰も笑わない。

怖がっているのではない。最初から、何も期待していない顔だった。


宿屋の前を通ったとき、二階の窓から歌が聞こえた。

鼻歌だった。洗濯物を干しながら、若い娘が歌っている。

節は素朴で、少し外れていて、でも、伸びやかな声。


その歌が、すぐに止んだ。


「ニナ! 何べん言わせる」


宿屋の主人が、通りから怒鳴った。


「歌なんてもんは、お屋敷の人のもんだ。うちみたいなのが歌ってたら、笑われるぞ」


窓が閉まった。

主人は私に気づいて、真っ青になった。


「こ、これはお嬢様。お耳汚しを」

「いいえ」


私は首を振った。

お耳汚しなんかじゃない。

けれど、そう言っても、この人には伝わらない気がした。


(音楽は、屋敷の中だけのもの)


この国では、本当にそうだった。

私も、そう教わった。

宮廷付きの奏者が、広間で貴族のために吹く。それが音楽。

平民の子が楽器を持つことは、まずない。


帰り道、私は水城高校の音楽室を思い出していた。


部員は五十人くらい。

楽器を始めたのが中学から、という子がほとんどだった。

高校から始めた子もいた。

莉子は最初、スティックの持ち方を水野先輩に直されていた。

芽衣は、三か月かけてやっと一曲目の音階が吹けた。


特別な子は、一人もいなかった。

普通の子が五十人で、名古屋まで行った。


(上手い人だけのものじゃなかったわ。音楽って)


その夜、私は母の形見の笛を磨いた。

木の、古い横笛。キーは二つしかない。

日本の銀色の笛に比べれば、出せない音もある。

でも、この笛で、まだやれることがある気がした。


◇


一日目。

私は広場の井戸のそばに立って、笛を吹いた。


最初はロングトーン。一つの音を、まっすぐ長く。

それから、ゆっくりした短い曲。


誰も寄ってこなかった。

通りかかった人は、伯爵家の娘が何をしているのか分からず、遠回りをして行った。


(いいわ。最初の合奏も、ひどかったもの)


二日目も同じだった。


三日目。

井戸の陰から、小さな顔が三つ出てきた。


泥のついた裸足の子どもたち。

私が目を向けると、ぱっと隠れる。

吹き始めると、また出てくる。


曲が終わったとき、一番小さい子が、ぱちぱちと手を叩いた。

隣の子が、慌ててその手を押さえた。


「叩いちゃだめだよ。お屋敷の人に、叩いちゃだめなんだよ」

「どうして?」


私はしゃがんで、目の高さを合わせた。


「わたくしは、叩いてもらえたら嬉しいわ」


子どもたちは顔を見合わせて、それから、三人でおそるおそる手を叩いた。

小さくて、ばらばらの拍手。

定期演奏会の客席で、蒼太が叩いてくれた音に、少し似ていた。


五日目には、子どもが十人になった。

六日目には、その親が、遠くから見ていた。


七日目。

吹き終わると、人垣の後ろから、大きな男が出てきた。

腕が太く、前掛けに焦げ跡がある。鍛冶屋の親方だった。


「お嬢様。ひとつ、聞いてもいいですかい」

「どうぞ」

「その笛、俺らが吹いても、罰は当たらんもんですか」


広場が静かになった。

私は、親方の顔をまっすぐ見た。


「当たりませんわ」

「……俺は若いころ、兵隊でラッパを吹いてたんです。合図のラッパですがね。音を出すのは、好きだった」


親方は、照れくさそうに鼻をこすった。


「もう息が続かねえ。だけど、なんか叩くほうなら、毎日やってる」


鍛冶屋の槌。

朝から晩まで、同じ間隔で鳴る音。

私はこの七日間、その音を聞きながら笛を吹いていたことに気づいた。


「親方。あなたの槌は、この町でいちばん正確な拍ですわ」

「拍?」

「音楽の、心臓の音です」


親方は、ぽかんとして、それから大声で笑った。

ベルフォールに来て、初めて聞いた大人の笑い声だった。


◇


次の日、私は広場に机を一つ出した。


机の上には、紙と、インク。

紙の一番上に、こう書いた。


 ベルフォール市民楽団 入団の届け

 名前と、やりたい楽器を書いてください。

 身分も年も問いません。


水城高校の入部届を思い出しながら書いた。

あの紙にも、名前と学年と、希望の楽器しかなかった。

家柄を書く欄は、どこにもなかった。


最初の一日、名前を書いたのは親方だけだった。


「ガストン。太鼓」


字は大きく、少し曲がっていた。

二日目、子どもたちが来た。字を書けない子が多かった。


「わたくしが書きます。名前を言って」

「……ルカ」

「楽器は?」

「わかんない。音が大きいやつ」


私は「ルカ、音が大きいもの」と書いた。

後ろで待っていた子が笑った。私も笑った。


三日目の夕方、宿屋の娘が来た。

前掛けを握りしめて、父親に見つからないように、裏道から。


「あの……楽器、何もできないんです。歌しか」

「歌も楽器ですわ」


ニナは目を丸くした。


「人の体は、いちばん古い楽器です。わたくしの先生が、そう言っていました」


成瀬先生は、合唱の授業でそう言っていた。

自分の体の中に、楽器がもう入ってるんだぞ、と。


ニナは震える手で、名前を書いた。

その下に、小さく、「歌」。


二週間で、届けは二十八枚になった。


八歳の子から、六十を過ぎた羊飼いまで。

パン屋の娘、粉屋の息子、布を商う家の息子、宿屋の娘。

鍛冶屋の親方と、その息子のルカ。


楽器は足りなかった。


私は父に手紙を書いた。

別邸の裏にある、伯爵家の古い倉を開けてよいか、と。

返事は来なかった。マルトが鍵を出してきてくれた。


「旦那様は、この倉のことなど、お忘れでございますよ」


倉の中には、埃をかぶった楽器が眠っていた。

祖父の代の楽団のものだという。

ラッパが三本、木の横笛が五本、太鼓、それから、葦の舌をつけて吹く木の笛がいくつか。

指で穴をふさいで吹く、低い音の笛だった。


(クラリネットの、ずっと昔の姿みたい)


ひかりの顔が浮かんだ。


足りない分は、町の職人に頼んだ。

指物師が木の笛を削り、鍛冶屋が太鼓の金具を打った。

革なめしの家が、太鼓の皮を張った。

代金は、私の持ってきた装身具を売って払った。

母の形見の笛以外は、もう要らなかった。


◇


練習場所は、宿屋の裏の空いた羊毛倉庫にした。


最初の日。

二十八人が、埃だらけの床の上に、ばらばらに立っていた。


「では、始める前に」


私は桶と雑巾を出した。


「床を拭きましょう。皆で」


全員が、私を見た。

伯爵家の娘が、雑巾を持っている。


「お嬢様、そんなことは、わしらが」

「いいえ。皆の練習場ですもの。皆で拭きます」


私は膝をついて、雑巾を床に当てた。

ひかりに持ち方を教わった、一年生の春を思い出した。

最初はほうきの持ち方も知らなかった。

拭き終わった床が光って、教室が少しだけ自分のものになった気がした。


二十八人で拭くと、倉庫の床はすぐに光った。

窓から入る夕日が、床に映った。

誰かが「へえ」と言った。


それから、水城高校のやり方を、そのまま持ち込んだ。


最初はロングトーン。

一つの音を、皆で、まっすぐ長く。


「吸って。四つ数えて、吐きながら、音を出して。八つ数えるまで、まっすぐ」


ラッパの音が裏返った。

子どもが咳きこんだ。

羊飼いの爺さんは、最後まで息が続かずに座りこんだ。


「大丈夫。わたくしも最初は、そうでした」


嘘ではなかった。

日本の銀の笛を初めて持った日、私は運指表をなぞりながら、一年生の列に並んでいたのだ。


次はチューニング。

私が笛で一つの音を出す。皆がそれに合わせる。


「隣の音を聴いて」


私は言った。何度も言った。

成瀬先生が三年間、毎日言っていた言葉。


「自分の音を大きくするのではなくて、隣の人の音に、そっと寄せるの。重なったら、音が一つになるわ」


最初は、誰も分からなかった。

私も、分からなかった。

「篠宮、うまい。でも一人で吹いてる」と言われた日、何を言われているのか、まるで分からなかった。


三週間目の夕方。

低い笛の二人が、偶然、ぴたりと同じ高さで音を伸ばした。

うなりが消えて、倉庫に、一本の太い音が残った。


二人が、顔を見合わせた。

パン屋の娘と、粉屋の息子だった。


「今の、なに」

「わかんない。けど、今の、気持ちよかった」


私は、黙ってうなずいた。

声を出したら、泣いてしまいそうだった。


◇


人数が増えると、まとめる人が要る。


私はパートごとに、まとめ役を決めることにした。

水城高校の、パートリーダーと同じだ。


最初に、布を商う家の主人が来た。


「お嬢様。うちの倅に、笛の頭をやらせていただけませんか。うちはこの町で、いちばん古い商家ですので」

「ありがとうございます。でも、家柄では決めません」


主人の眉が上がった。


「決め方は二つです。早く入った人。それから、人に教えるのが上手な人」


水城高校では、先輩と後輩は家柄ではなく、入った年で決まった。

最初は滑稽だと思った。

でも、水野先輩は後輩の楽器を運び、遅くまで残って一年生に指使いを教えていた。

上は、下のためにいる。

それを、あの部室で知った。


ラッパのまとめ役は、羊飼いの爺さんになった。

息は続かないが、子どもに吹き方を教えるのが、誰よりも根気強かった。


太鼓は、ガストン親方。

笛は、パン屋の娘。


そして、歌。


ニナは、最初の日からずっと、倉庫の隅で小さくなっていた。

宿屋の主人には、まだ内緒なのだという。

私は彼女に、最初の歌い手になってほしいと頼んだ。


「わ、私なんかが、一番最初で、いいんですか」

「一番最初に名前を書いたのは、あなたですもの。歌の欄で」


ニナは、前掛けで顔を覆った。


◇


揉め事は、二か月目に起きた。


練習の前、布商人の息子のテオが、譜面台の前で動かなかった。

隣には、ガストン親方の息子のルカがいた。


「こいつの隣は嫌です」


テオは私を見て、はっきり言った。


「煤の匂いがする。服も汚い。父さんも、鍛冶屋の子と並ぶなって」


ルカの顔が赤くなった。

拳を握っている。

倉庫の中が、しんとなった。


私の頭の中で、言葉が並び始めた。


あなたの家の布は、どこの染め場で染めているのかしら。

その染め場の水を汲んでいるのは誰?

あなたの家の荷車の車輪の鉄を打ったのは?

あなたは、ご自分では何も持っていないのね。


全部、言えた。

皆の前で、一つずつ並べて、テオを泣かせることが、私にはできた。


教室の空気を、思い出した。

泣いて出ていった莉子の背中。

誰も私の側に来なかった、あの昼休み。

「篠宮さんがしたことも、人を傷つけた」と言った、森先生の声。

三日間空いていた、莉子の席。


私は、息を吸った。

ロングトーンの前のように、深く。


「今日は、二人とも少し残ってくださる?」


それだけ言って、練習を始めた。


練習のあと、まずテオと二人で話した。

倉庫の外の、井戸のそばで。


「テオ。私も昔、人を嫌いになって、ひどいことを言ったことがあるの」


わたくし、ではなく、私。

口から出てから気づいた。日本で三年使った言い方が、勝手に出てきた。


「……お嬢様が?」

「ええ。とても上手に、ひどいことを。相手を泣かせて、勝ったと思ったわ」


テオは黙って聞いていた。


「でも、そのせいで、皆の音がばらばらになったの。合奏ができなくなった。勝ったのに、何も残らなかった」


それから、ルカと話した。

ルカは、悔しそうに唇を噛んでいた。


「殴ってやろうと思った」

「殴らなかったわね」

「父ちゃんが、楽団の中で喧嘩したら、もう太鼓叩かせないって」


ガストン親方らしい、と私は笑った。


次の練習で、私は二人に、新しい楽譜を渡した。

私が夜に書いた、短い二重奏だった。


一人が一つの音を出し、もう一人がそれに続く。

片方だけでは、旋律にならない。

二人で交互に吹いて、初めて一つの歌になる。


「二人で、同じ譜面台を使ってね。譜面台が足りないの」


本当は、足りていた。

テオは不満そうに、ルカは疑わしそうに、同じ台の前に立った。


最初は、ひどかった。

テオは早く、ルカは遅い。

二人とも、相手の音を聞いていない。


三日目。

ルカが一拍遅れたとき、テオが、ほんの少し待った。

ルカの音が入ってから、自分の音を出した。


旋律が、つながった。


二人は顔を見合わせなかった。

でも、その日の練習の後、テオが小さな声で言うのが聞こえた。


「……おまえ、息、長いな」

「鍛冶場で、ふいご吹いてるから」

「ふうん」


それだけだった。

次の週、二人は同じパンを半分に割って食べていた。


◇


パンの話をしておく。


練習の後、皆でパンを食べるようになった。

最初は、私が全部買っていた。

ある日、ガストン親方に止められた。


「お嬢様。それじゃあ、俺たちは、お嬢様の楽団に雇われてるみてえだ」


はっとした。

私は、王国の貴族と同じことをしていた。

上から配って、下が受け取る。


日本の、ファミレスを思い出した。

莉子と、ひかりと、三人でドリンクバーを頼んで、伝票を割った。

莉子が、スマホの電卓で一人ぶんを出して、「はい、一人六百八十円」と言った。

誰も多く払わなかった。誰も少なく払わなかった。

あれが、ひどく嬉しかったのだ。


「では、皆で出しましょう。銅貨を一枚ずつ」

「お嬢様も?」

「わたくしも、一枚です」


その日から、パンの籠の横に、小さな箱が置かれるようになった。

子どもは半枚。大人は一枚。私も一枚。

足りない日は、パン屋の主人が黙って一つ足してくれた。


パンを買う列にも、私は並んだ。

最初、パン屋の前の人たちは、私に順番を譲ろうとした。


「並びます」


私は列の一番後ろに立った。

日本の購買で、割り込もうとして「並んでくださーい」と言われた日のことを思い出した。

あのときは、腹が立って仕方がなかった。

今は、列の後ろに立つのが、少しだけ誇らしかった。


◇


秋になった。


ベルフォールの収穫祭は、昔は三日間にぎわったという。

今は一日だけ、広場に屋台が三つ出るだけだ。


その広場で、市民楽団が初めて演奏することになった。


曲は三つ。

町の古い踊りの歌を、私が楽団用に書き直したもの。

テオとルカの二重奏。

そして最後に、ニナの歌。


当日の朝。

倉庫に集まった三十五人の顔は、皆、青かった。

ラッパの子が、水を三回もこぼした。


「お嬢様、俺、やっぱり出ねえほうが」


羊飼いの爺さんまでそう言った。


私は、名古屋の舞台袖を思い出した。

暗くて、狭くて、前の学校の演奏が、壁ごしに響いていた。

手が震えて、莉子に手を握られた。

「澪、大丈夫。うちら、いっぱい練習したじゃん」


「大丈夫ですわ」


私は、皆の前で言った。


「わたくしたちは、春から毎日、床を拭いて、音を合わせてきました。それだけは、誰にも負けません」


それから、少し考えて、付け足した。


「間違えても、止まらないで。隣の音を聴いて、また入ればいいの」


広場は、思っていたより人が多かった。

子どもたちが言いふらしたらしい。

屋台の前にも、井戸の縁にも、窓にも、人がいた。


宿屋の窓に、主人の顔が見えた。

腕を組んで、ひどく怖い顔をしていた。


私は笛を構えて、皆を見た。

三十五人の顔。

煤のついた顔、粉のついた顔、日に焼けた顔。


息を吸って、合図をした。


最初の音は、ずれた。

ラッパが早すぎて、太鼓が慌てて追いかけた。

笛の子の一人が、音を外した。


それでも、誰も止まらなかった。


ガストン親方の太鼓が、鍛冶場の槌と同じ間隔で、拍を打ち続けた。

皆がその音に、少しずつ戻ってきた。

二小節後には、音がそろった。


広場の空気が、変わった。


テオとルカの二重奏は、一度、ルカが入りそこねた。

テオが、待った。

ルカが入って、旋律がつながった。

屋台のおかみさんが、口を押さえていた。


そして、ニナの番が来た。


ニナは、皆の前に一人で立った。

前掛けを外して、震えていた。

宿屋の窓を、一度だけ見た。


私は笛で、最初の音を一つ置いた。

皆を始めるための音。

成瀬先生が、三年目の夏に教えてくれた吹き方で。


ニナが、歌い出した。


洗濯物を干しながら歌っていた、あの素朴な節。

町の古い子守歌だった。

声は細く、最初は震えていて、それから、伸びた。

広場の上の、高い秋の空まで、まっすぐに伸びた。


後ろから、低い笛が、そっと支えた。

パン屋の娘と、粉屋の息子。

あの日、初めてぴたりと音が重なった二人。


広場のあちこちで、年寄りが口を動かしていた。

歌詞を知っているのだ。

子どものころ、母親に歌ってもらったのだろう。


宿屋の窓で、主人が、顔を覆っていた。


歌が終わった。


一瞬、広場が静かになった。


それから、拍手が起きた。


上手な拍手ではなかった。

ばらばらで、大きすぎる人と、小さすぎる人がいて、途中で泣きだす人がいて、笑いだす人がいた。

子どもたちが跳ねながら手を叩いていた。

誰も、お屋敷の人に叩いてはいけないなんて、言わなかった。


ガストン親方が、太鼓のばちを握ったまま、泣いていた。

テオとルカが、肩を叩き合っていた。

ニナが、私のほうを向いて、何か言った。

拍手で、聞こえなかった。


私は、笛を胸に抱いた。


王国で、笛を吹いて拍手をもらったことは何度もある。

広間の貴族たちの、手袋ごしの、上品な拍手。

あれは、褒め言葉だった。

上手な娘を褒めて、それで終わりの音だった。


これは、違う。


冬の定期演奏会で知ったことを、私はもう一度知った。

拍手は、褒め言葉ではない。

同じ場所で、同じ時間に、同じ音を聴いていた。

一緒にいた、という証拠だ。


(莉子。ひかり。ここにも、あったわ)


◇


その夜、宿屋の主人が、別邸の門まで来た。


帽子を両手で握りしめて、何度も頭を下げた。


「お嬢様。あの子の歌を、わしは、何年も止めてきました」

「……」

「死んだ女房が、よく歌ってたんです。あの歌を。だから、聞くのがつらくて」


私は、何も言えなかった。

主人は、もう一度頭を下げて帰っていった。


◇


収穫祭の翌日。


朝の広場は、昨日の屋台の跡と、紙くずが散らかっていた。

楽団の子どもたちが、言われもしないのに、ほうきを持って集まってきた。


私は掃除を手伝ったあと、広場の奥へ歩いた。


屋根の半分落ちた、大きな石の建物。

空っぽの穀物倉。


高い壁。広い床。太い梁。

昨日の広場には、入りきらないほど人がいた。

窓から身を乗り出していた人も、屋台の陰で背伸びしていた子も、本当はもっと近くで聴きたかったはずだ。


後ろに、足音がした。

ガストン親方と、ニナと、テオとルカ。

楽団の何人かが、私を探しに来たらしい。


「お嬢様、こんなとこで何を」


私は振り返った。

朝の光が、崩れた屋根の隙間から、倉の床に落ちていた。


「ここに、劇場を作りましょう。誰でも座れる劇場を」

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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次回は「第10話 誰でも座れる劇場」です。

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