第8話 卒業式のあとで、もう一度
前回の続きです。
卵焼きは、弁当箱の半分をふさいでいた。
「お父さん、これ、大きすぎない?」
「……そうか」
父はフライパンを洗いながら、それだけ言った。
卒業式は、昼前に終わる。
本当は、お弁当なんて要らない。
それでも父は、いつもの時間に起きて、いつもより卵を多く割ったらしい。
「お父さんね、澪の最後のお弁当だからって、昨日、卵を二パックも買ってきたのよ」
母が、台所の入口で笑う。
「……最後じゃない。春休みもある」
父はそっぽを向いたまま、タオルで手を拭いた。
テーブルでは、蒼太がパンをかじっている。
三年前は小学四年だった弟も、今月、小学校を卒業する。声が少し低くなった。
「ねえちゃん、今日で高校おしまい? なんか、さみしいね」
そう言ってから、蒼太は照れくさそうに、パンを口に押しこんだ。
私は、包みを鞄に入れた。
ずっしりと重い。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
母の声が、背中に返ってくる。
玄関のドアを閉めるとき、もう一度だけ振り返った。
台所の窓に、父の背中が見えた。
◇
体育館は、三年前と同じ匂いがした。
床のワックスと、少し冷たい空気。
並んだパイプ椅子。紅白の幕。
三年前、私はここで目を覚ました。
雨の山道で、馬車が傾いた次の瞬間に。
あのときは何もかもが知らないものだったのに、今は、全部知っている。
前の列に、ひかりの丸い後ろ頭が見える。
少し離れた列に、莉子の明るい茶色の髪。
体育館の隅で、吹奏楽部の後輩たちが楽器を構えている。芽衣の眼鏡が、照明で光った。
「卒業証書、授与」
一人ずつ、名前が呼ばれていく。
「篠宮澪」
「はい」
自分の声が、体育館の天井へ上っていった。
三年前、私は自己紹介で「わたくし」と言って、教室を凍らせた。
今は、ちゃんと「はい」と言える。それだけのことが、少し誇らしい。
証書を受け取って振り返ると、保護者の席に、母がいた。
ハンカチを目に当てている。その隣で、父がまっすぐこちらを見ていた。
校歌を歌った。三年前は、口を動かすこともできなかった歌だ。
後輩たちの演奏で、卒業生が退場する。
フルートの音が聞こえた。芽衣の音だ。少しだけ走っている。
私は笑いをこらえながら、体育館を出た。
◇
教室に戻ると、森先生が黒板の前に立っていた。
黒板いっぱいの「卒業おめでとう」の落書きを、先生は消さずにいる。
「最後に、一つだけ話をさせてください」
教室が静かになる。
「皆さんはこれから、自分で決めることがどんどん増えます。どこに住むか。誰と一緒にいるか。何を続けて、何をやめるか」
森先生は、教室を見渡した。
「決めたことが、間違っていることもあります。誰かを傷つけることもあります。そのときは、ちゃんと謝って、やり直してください。やり直していいんです。それができる人は、どこへ行っても大丈夫です」
私は窓際の席で、その言葉を聞いていた。
一年の春、先生は私に言った。
篠宮さんがしたことも、人を傷つけた、と。
あのとき、私は意味が分からなかった。
勝ったのは私なのに、と思っていた。
今は、分かる。
「以上です。卒業、おめでとう」
先生が頭を下げると、教室じゅうから拍手が起きた。
何人かが泣いていた。先生も、少し目が赤かった。
「写真撮ろ、写真!」
莉子がスマホを掲げて叫ぶ。
ひかりが、私の腕を引っぱる。
三人で、黒板の前に並ぶ。
「澪、もっと笑って。目が笑ってない」
「莉子が無茶言う」
シャッターの音。もう一回。もう一回。
それから、吹奏楽部の後輩たちが、教室のドアから顔を出した。
「し、篠宮先輩!」
芽衣が、色紙を胸に抱えて立っていた。
後ろに、フルートのパートの一年と二年が並んでいる。
「あの、これ……みんなで書きました」
色紙の真ん中に、フルートの絵。
その周りに、小さな字がびっしり並んでいた。
「先輩の運指表、まだ使ってます」
「名古屋のソロ、一生忘れません」
「隣の音、聴きます」
芽衣の字は、真ん中のすぐそばにあった。
「先輩みたいな先輩に、なります」
喉の奥が、ぎゅっと詰まった。
「……ありがとう、芽衣」
芽衣は、そこで泣き出してしまった。
私はその頭を、ぽんぽんと叩いた。
後輩たちが帰ったあと、教室は少しだけ静かになった。
春から、三人はばらばらになる。
莉子は、お母さんの美容室を継ぐために、専門学校へ。
ひかりは、地元の大学へ。
私は、少し遠くの町の大学で、音楽を学ぶことになっていた。
「ねえ、澪」
莉子が、窓の外を見ながら言った。
「遠くに行っても、連絡してよ。LINEの既読無視とかしたら、怒るから」
本当のことは、言えなかった。
本当は、篠宮澪ではないこと。明日の朝には、ここにいないかもしれないこと。
三年間、一度も言わなかった。今日も、言わない。
言えば、二人は信じてくれるかもしれない。
でも、その信じたことを抱えて、これから生きていくことになる。
それは、私が二人に渡していい重さではない。
だから私は、笑って言った。
「行ってきます」
莉子が、きょとんとした顔をする。
「なにそれ。まだ行かないじゃん」
「うん。でも、言っておきたくて」
ひかりが少し首をかしげて、それから笑った。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「……行ってらっしゃい、澪」
莉子も、変な顔のまま言ってくれた。
◇
帰る前に、職員室の前で、森先生に呼び止められた。
「篠宮さん。これ、返しておくね」
渡されたのは、二枚の紙だった。
進路希望調査。
二年生のときに、何も書けずに出した紙。その下に、三年の春に書き直した紙が、ホチキスで留めてある。
「先生、取っておいたの。二枚並ぶと、ちょっといいなと思って」
一枚目の「将来の希望」の欄は、空白だった。
二枚目には、私の字で、こう書いてある。
自分で決めた場所で、音楽を続ける。
大学の名前より先に、それを書いた。
書いてから、その言葉に合う場所を、自分で探した。
あのとき母は、私の紙を見て笑った。
「いいじゃない。澪の人生なんだから」
伯爵家では、娘の行き先は父が決めた。
婚約者も、着る服も、笛を吹いていい時間も。
自分の行き先を、自分の手で書いたのは、生まれて初めてだった。
たとえその場所へ、行けないかもしれなくても。
「ありがとうございます」
私は、紙を胸に抱いて頭を下げた。
「三年間、お世話になりました」
「こちらこそ。篠宮さん、変わったね」
森先生はそう言って、少し笑った。
◇
帰り道は、雪解けの坂だった。
日陰には、まだ固い雪が残っている。日なたは溶けて、道がぬかるんでいる。
私は、自転車を押して坂を下りていた。
乗れば滑る。三年間、冬のたびにそうしてきた。
鞄の中で、色紙と進路の紙が、父の弁当と一緒に揺れている。
(お弁当、食べそこねた)
家に帰ったら、食べよう。
大きな卵焼きを、全部。
坂の下から、ランドセルの男の子が上ってきた。
蒼太より、ずっと小さい。下を向いて、水たまりを跳びこえながら歩いている。
そのとき、坂の上で、ブレーキの音がした。
振り返る。
自転車が一台、下ってくる。
濡れた雪にタイヤを取られて、車体が横を向いている。
乗っている人が、何か叫んだ。
その先に、男の子がいた。
考えるより先に、体が動いていた。
自分の自転車を手放す。
ぬかるみを蹴る。
男の子の肩をつかんで、塀の方へ押しやる。
振り向いた男の子の顔が、きょとんとしていた。
(よかった)
次の瞬間、横から、重いものがぶつかってきた。
体が浮く。
空が回る。
あの雨の山道と、同じだった。
傾いていく世界。どこにも掴まるところがない。
あのとき、私は母の形見の笛を抱えていて、それを手放した。
今は、何も抱えていない。
ただ、男の子が塀の前で無事に立っているのが、視界の端に見えた。
それで、十分だった。
◇
光が、目に刺さった。
頭の上に、何百もの蝋燭の灯。
シャンデリアのガラスが、虹色の粒を降らせている。
香水と蝋の匂い。
手に、何かを握っている。
見下ろす。
白い手袋。その指が、羽根の扇を握りしめている。
ドレスの裾は、深い紫。私の、一番気に入っていたドレス。
顔を上げる。
正面に、レオナール・ド・ベルクールが立っていた。
金の髪。整った顔。その顔に、正しい者の表情を貼りつけている。
その腕に、ミレイユ・ロシェがすがっていた。
栗色の巻き毛。大きな目に、涙が溜まっている。肩が、小さく震えている。
二人の前の小卓に、手紙が三通、広げてあった。
私の筆跡だ。
着飾った卒業生たちが、遠巻きに私を見ている。
一段高い席に、王妃エレオノールが座っていた。
王妃陛下が、ゆっくりと口を開く。
「アルンハイム伯爵令嬢。証は、揃いました。そなたには——」
(ここだ)
この先を、私は知っている。
この瞬間、私は叫んだのだ。
違う、と。
あの女が先に、と。
レオナールに、ミレイユに、聞くに堪えない言葉を浴びせた。
そして扇を、ミレイユの足元へ投げつけた。
王妃は眉をひそめて、言った。修道院へ、と。
その数日後、雨の山道で、馬車が落ちた。
指が、扇を握りしめている。
体の奥から、あの夜の怒りが、熱になって上ってこようとする。
この体は、十七のヴィオレッタだ。
怒ることに慣れた体だ。
でも、心は違う。
心には、三年分がある。
体育館のパイプ椅子。父の卵焼き。
美容室の二階で泣いた莉子。
帰り道のひかりの声。
名古屋のホールの、まぶしい光。
私は、扇を握る指を、一本ずつほどいた。
そして、息を吸った。
ロングトーンの前と、同じように。
おなかの底まで、ゆっくりと。
肩を上げずに。背中を広げて。
吸った息を、どこへ渡すかを考えながら。
広間の音が遠くなって、自分の心臓の音だけが聞こえる。
私は一歩前へ出て、膝を折った。
「畏れながら、王妃陛下」
声が、広間に通った。
叫び声ではない。ソロの一音目のような、細く、まっすぐな声。
王妃の言葉が、途中で止まった。
「申し上げたいことがございます。弁明では、ございません」
広間が、ざわりと揺れた。
レオナールが、眉を上げる。
彼は、私が叫ぶと思っていたのだ。いつものように。
王妃は、しばらく私を見ていた。
それから、扇の先でわずかに合図をした。
「許します。申しなさい」
◇
私は、顔を上げた。
何をしたか。
誰を傷つけたか。
どう償うか。
言い訳は、足さない。
母の声が、耳の奥で聞こえた。
謝るのはね、勝ち負けじゃなくて、自分のしたことを自分で持つこと。
「その三通の手紙は、わたくしが書きました」
広間の空気が、止まった。
「ファブレ子爵家へ、名を伏せて、三度送りました。また、春から秋にかけての茶会で、ロシェ嬢についての噂を、わたくしの口から流しました」
一つずつ、並べる。
かつて、人の弱いところを並べるのに使った口で、今は自分のしたことを並べる。
「手紙と噂には、本当のことと嘘が混ざっております。ロシェ嬢に借金があるということ。ほかにも親しい殿方がいるということ。この二つは、嘘です。わたくしが作りました」
誰かが、息をのむ音がした。
「間違えたのではございません。そう書けば、ファブレ家が婚約を解くと分かっていて、わざと書きました。ロシェ嬢の評判が落ちることも、分かっておりました」
私は、ミレイユの方へ向き直った。
ミレイユが、大きな目をさらに見開いている。
涙が、頬の途中で止まっていた。
それから、少し離れた場所に立つ、ジェラール・ファブレの方を見た。
まじめそうな顔の青年。灰色の上着。拳を握ったまま、じっと私を見ている。
「ロシェ嬢。ファブレ様」
私は、深く頭を下げた。
日本で、何度もそうしてきたように。
腰から、まっすぐに。
「わたくしは、あなた方の婚約を、嘘で壊しました。ロシェ嬢の名を、皆の前で汚しました。ファブレ様には偽りを信じさせ、ご自分の決断を誤らせました」
頭を下げたまま、続ける。
「申し訳ございませんでした」
広間が、どよめいた。
伯爵令嬢が、自分から子爵家の者に頭を下げている。
そんなものを、ここにいる誰も見たことがない。
「償いを、申し出ます」
頭を下げたまま、私は言った。
「ロシェ家とファブレ家へ、相応の賠償をいたします。それから、手紙と噂の嘘の部分を、わたくしの手で書面にし、撤回いたします。名を伏せずに。あの手紙と同じ筆跡で」
そこで、顔を上げた。
「どちらも、わたくしの一存ではできぬことと存じます。ですから、王妃陛下のお裁きに従います」
言い終えて、息を吐いた。
言い訳は、一つも足さなかった。
あの女が先に、とは言わなかった。
私も傷ついた、とは言わなかった。
それは、たぶん本当のことだ。
でも、謝罪の中に混ぜるものではない。
◇
広間は、しばらく誰も口をきかなかった。
壁際の令嬢たちが、扇の陰で顔を見合わせている。
人垣の向こうに、父の顔が見えた。
オスカー・アルンハイム伯爵。
その顔は、真っ白だった。娘が頭を下げるのを、生まれて初めて見たのだろう。怒りよりも先に、何が起きたのか分からない、という顔をしていた。
王妃は、黙っていた。
扇を膝に置いたまま、私を見ている。
その目が、さっきよりほんの少しだけ、細くなっていた。
「……殊勝なことだ」
最初に口を開いたのは、レオナールだった。
「罪を認めるならば、話は早い。陛下、この者自身が今、すべてを——」
「まだ、一つだけございます」
私は、静かに言った。
レオナールの言葉が止まる。
「わたくしの罪は、わたくしが負います。賠償も、撤回も、どのようなお裁きも、すべて」
私は、王妃を見上げた。
「ただ、この婚約が破られた理由を、わたくし一人の罪には、なさらないでくださいませ」
広間が、また揺れた。
「先ほど、手紙には本当のことと嘘が混ざっていると申しました。嘘は、借金と、ほかの殿方のことです」
私は、レオナールを見た。
怒りは、なかった。
不思議なくらい、なかった。
「本当のことは、一つです。ベルクール様は、わたくしとの婚約のあいだ、半年にわたって、ロシェ嬢と会っておられました。春の園遊会のあとから、秋の狩りの季節まで」
「なっ……」
レオナールの顔が、赤くなった。
「何を言い出す。罪を認めたふりをして、私に泥を塗るつもりか」
彼は王妃に向き直る。正しい者の顔を、もう一度貼り直して。
「陛下。この者は今、自分の非を認めたばかりです。そのような者の言葉を——」
「レ、レオナールさま……」
か細い声がした。
ミレイユだった。
レオナールの腕を離れ、ふらりと前へ出る。
小さな肩を震わせて、王妃の席の方へ、一歩、また一歩。
「王妃さま……わたくし……こわくて……」
声が、かわいく震えている。
涙が、ちょうどいい速さで、頬をつたう。
「レオナールさまは、ただ……わたくしがつらいときに、お話を聞いてくださっただけなのです。それなのに、ヴィオレッタさまが、あんな手紙を……」
王妃の席の前で、ミレイユはそっと膝をついた。
白いドレスが、花びらのように床に広がる。
見上げる目が、濡れて光っている。
上手い、と私は思った。
前の時も、そうだった。
あの涙に、広間じゅうが頷いた。私はその涙が憎くて、扇を投げたのだ。
今は、憎くない。
ただ、ああ、この人はこうやって生きてきたのだ、と思う。
人の顔色でできた方。
一年の春、莉子に投げつけた言葉が、自分の胸に戻ってきて、少しだけ刺さる。
広間のあちこちで、同情の声がもれた。
「お気の毒に」
「ロシェ嬢は、傷つけられた方なのだから」
私は、何も言わなかった。
言い返せば、またあの夜と同じになる。
そのとき。
「——恐れながら」
低い声が、人垣の中から上がった。
ジェラール・ファブレが、前へ出てきた。
◇
ジェラールは、王妃の前で膝をついた。
ミレイユの、少し横に。
ミレイユが、はっと彼を見る。
その顔から、一瞬、涙が消えた。
「ファブレ子爵家の次男、ジェラールでございます。発言をお許しください」
「許します」
王妃の声は、静かだった。
ジェラールは一度、私の方を見た。
それから、まっすぐ王妃を見上げた。
「アルンハイム嬢の手紙に、嘘があったのは本当です。私はその嘘を信じて、婚約を解きました。それは、私の不明でもあります」
彼は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「ですが、ミレイユ嬢がベルクール殿と会っていたことは、手紙で知ったのではございません」
広間が、静まり返った。
「最初の手紙が届いた夜、私は彼女に尋ねました。借金のことも、ほかの男のことも、彼女は泣いて否定しました。それは、本当だったのでしょう」
「けれど、ベルクール殿と会っていることは、否定しませんでした。私は、彼女自身の口から聞きました。侯爵家の方のお誘いを、子爵家の娘が断れるはずがない、と」
ミレイユの肩が、小さく跳ねた。
「あとで知りました。同じころ、彼女はベルクール殿には、婚約者が冷たくてつらい、と話していたそうです」
ジェラールは、目を伏せた。
「私には、断れないと言い。ベルクール殿には、つらいと言う。どちらにも、嘘ではなかったのかもしれません。ただ、彼女は私との婚約を持ったまま、ベルクール殿のもとへ通っていました」
誰かが、扇を取り落とす音がした。
ミレイユは、王妃の前に膝をついたまま、動かなかった。
顔は、まだかわいかった。
けれど、もう誰も、さっきのようには頷かなかった。
壁際の囁きが、向きを変える。
「ファブレ様と婚約したまま?」
「どなたにも、いいお顔を……」
レオナールが、口を開きかけた。
何か言おうとして、言葉が見つからない顔だった。
王妃が、扇を閉じた。
ぱちん、と小さな音がした。
それだけで、広間が静まった。
「ベルクール殿」
「は、はい」
「三日前、そなたは私のもとへ来ましたね。この夜会で、婚約者の罪を明らかにしたいと」
王妃の声は、穏やかだった。
穏やかなまま、冷えていた。
「筆跡を比べた書付も、証言する令嬢たちの名も、すべて揃えて持ってきた。そして、修道院がふさわしいと、そなたの方から申し添えた」
レオナールの顔から、血の気が引いていく。
王妃は、レオナールを見下ろした。
「ですが、そなた自身が婚約のあいだに何をしていたかは、一言もありませんでしたね」
広間の空気が、はっきりと変わった。
私に向いていた目が、いくつか、レオナールとミレイユの方へ動く。
そして、ほんの少しだけ、柔らかい目が私の方へ来た。
全部ではない。
壁際で、年配の夫人が、まだ私を冷たく見ている。
「それでも、嘘の手紙を書いたのは、あの方でしょう」
小さな声が聞こえた。
その通りだ、と私は思った。
私がやったことは、消えない。
レオナールの不実も、ミレイユが二人にいい顔をしていたことも、私の嘘を軽くはしない。
ミレイユの評判は、私の嘘で落ちた。それは、今夜の誰の証言でも取り消せない。
それでいい。
私は、無実になりたくて、ここで話したのではない。
◇
王妃は、しばらく黙っていた。
私は、膝をついたまま待った。
舞台袖で、前の学校の演奏が終わるのを待つときのように。
「アルンハイム嬢」
「はい」
「ベルクール殿は、この席で、そなたとの婚約を破ると申しました。それについて、そなたの言うことは」
私は、顔を上げた。
レオナールが、私を見ていた。
その目に、何かを待つ色があった。
私が泣いてすがるのを。それとも、また罵るのを。
前の時、私はこの婚約を守ろうとして、叫んだ。
侯爵家の嫡男の妻になること。それが、私の持っている唯一のものだと思っていた。
でも、今は知っている。
ひかりが「好きな人と結婚したいなあ」と、普通に言ったこと。
クラスの子が恋をして、別れて、また笑っていたこと。
そして私は、この人を、一度も好きだったことがない。
私は、微笑んだ。
自分でも驚くほど、すっきりした顔だったと思う。
「謹んで、お受けいたします」
広間が、ぽかんとした。
レオナールの口が、半分開いたまま止まった。
「……は?」
「婚約の破棄を、謹んでお受けいたします。ベルクール様、これまでありがとうございました」
私は彼に向かって、浅く一礼した。
レオナールは、何も言えなかった。
正しい者の顔が、行き場をなくして、ただの困った顔になっていた。
(好きでもない人との約束を、私は何を必死に守ろうとしていたのかしら)
胸の中で、何かがほどけた。
長いあいだ締めていた、コルセットの紐のように。
◇
王妃が、立ち上がった。
広間の全員が、頭を垂れる。
「裁きを申し渡します」
王妃の声が、高い天井に響いた。
「アルンハイム伯爵令嬢ヴィオレッタ。そなたが匿名の手紙と噂によって、ロシェ嬢とファブレ殿の婚約を壊し、ロシェ嬢の名誉を傷つけたことは、そなた自身が認めた通りです。その罪は、軽くありません」
私は、頭を垂れたまま聞いた。
「ですが、そなたは自らの口で罪を述べ、嘘を嘘と認め、償いを申し出た。そして、この婚約の破れた理由が、そなた一人のものではないことも、この席で明らかになりました」
一呼吸。
「修道院行きは、取り消します」
広間が、ざわめいた。
「その代わりに、命じます。ロシェ家とファブレ家へ、それぞれ謝罪し、賠償すること。手紙と噂の偽りを、そなたの名で書面にし、王都に公にすること。そして一年のあいだ王都を離れ、アルンハイムの領地で謹慎すること」
「謹んで、お受けいたします」
私は、深く頭を下げた。
「ベルクール殿」
王妃が、視線を移す。
「婚約のあいだの不実は、そなたの家の名を汚すものです。それを伏せたまま、私をこの席に呼んだことも。侯爵には、私から話をします。今宵は、下がりなさい」
レオナールは、唇を噛んで頭を下げた。
最後に、王妃はミレイユを見た。
ミレイユは、まだ王妃の前に膝をついていた。
濡れた目で、王妃を見上げている。もう一度、懐に入る隙を探すように。
王妃は、その目を静かに見返した。
「ロシェ嬢。そなたは、この件で傷を負った方です。それは確かです」
ミレイユの顔が、ぱっと明るくなりかける。
「ですから、そなたを裁きはしません。ただ」
王妃は、扇を開いた。
「涙は、もう結構です。お立ちなさい」
ミレイユの顔が、かわいいまま、固まった。
◇
夜会が散ったあと、控えの間で、父に呼ばれた。
オスカー・アルンハイム伯爵は、窓の前に立っていた。
こちらを振り向かない。
「……アルンハイムの娘が」
低い声だった。
「大勢の前で、子爵家の者に頭を下げた。自分の罪を、自分の口で並べた。伯爵家の名が、どれだけ汚れたか分かっているのか」
「はい、お父さま」
「分かっていない」
父が、振り向いた。
顔が、怒りで歪んでいた。
前の私なら、ここで言い返した。
今は、ただ思う。
この人は、体面のほかに持っているものがないのだ、と。
篠宮の父は、毎朝、黙って卵焼きを焼いた。
この人は、娘に何も焼かなかった。
それを責める気持ちは、もうなかった。
「謹慎先は、ベルフォールだ」
父は、吐き捨てるように言った。
「領で一番さびれた町だ。城壁は崩れ、人は減り、劇場一つない。そこで一年、頭を冷やせ。社交の場に戻れると思うな」
ベルフォール。
南の、古い城壁の町。灰色の屋根と、閉じた窓ばかりの町。
「かしこまりました、お父さま」
私は膝を折って、一礼した。
(罰、なのでしょうね。お父さまにとっては)
誰とも婚約していない。誰も、私の行き先を決めない一年。
それは私には、生まれて初めての自由に聞こえた。
◇
控えの間を出ると、廊下は暗かった。
壁の燭台が、間をあけて灯っている。
広間の音楽が、遠くで終わりかけていた。
廊下の向こうから、白いドレスが歩いてきた。
ミレイユだった。
一人だった。レオナールは、もう隣にいない。
すれ違う、と思った。
私は、足を止めた。
ミレイユも、止まった。
燭台の灯りの下で、その顔はさっきと同じように、かわいかった。
「ロシェ嬢」
私は、もう一度、頭を下げた。
「先ほどと同じことを、もう一度だけ申し上げます。あなたの名を、嘘で汚して、ごめんなさい」
誰も聞いていない場所で、一人の人に向かって言う言葉。
美容室の二階で、莉子に言ったときと同じように。
ミレイユは、何も言わなかった。
私の顔を、しばらく見ていた。
怒っているのか、笑っているのか、分からない顔だった。
それから、かわいい顔のまま、私の横を通り過ぎていった。
白いドレスの裾が、暗い廊下に消えていく。
(許されなくて、いい)
本当に、そう思った。
謝るのは、許されるためではない。
自分のしたことを、自分で持つためだ。
日本で、それを習った。
許すかどうかは、ミレイユが決めることだ。
私が決めていいことではない。
廊下の窓から、王都の夜が見えた。名古屋の灯とはまるで違う、ぽつぽつとした蝋燭の光。
それでも私は、少しだけ笑った。
莉子。ひかり。
お母さん、お父さん、蒼太。
(行ってきます、って、ちゃんと言っておいてよかった)
お弁当の大きな卵焼きを食べそこねたことだけが、少し心残りだった。
◇
数日後の朝。
アルンハイム家の古い馬車が、王都の門を出た。
北の修道院ではなく、南のベルフォールへ。
膝の上には、母の形見の横笛があった。
あの雨の山道で、一度は手を離してしまった笛を、私は今度こそ両手で抱えていた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
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次回は「第9話 ベルフォールの市民楽団」です。




