第7話 名古屋の十二分
前回の続きです。
四月の音楽室は、まだ少し寒い。
窓の外で、散りかけの桜が揺れている。
三年生になった私は、フルートのパートの机の端に座っていた。
「す、すみません。もう一回……」
隣で、一年の小川芽衣が楽器を構え直す。
小柄で、眼鏡がすぐずり落ちる子だ。
音階の、上がっていくところ。
ドからレ、レからミ。そこで右手の指がからまって、音がひっくり返る。
「ご、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。もう一回、ゆっくり」
私はメトロノームの目盛りを、六十まで下げた。
芽衣は泣きそうな顔で、こくりとうなずく。
入部して二週間。
ほかの一年はもう音階を一周できるのに、芽衣だけがまだ途中で止まる。
指が、頭の言うことを聞かないらしい。
(昔の私より、ずっと遅い)
それは本当だ。
でも、昔の私には、木の笛で十年吹いてきた息があった。分からなかったのは、指だけだった。
芽衣には、何もない。息も、指も、ここから全部覚える。
それなのに、毎朝いちばん早く音楽室に来て、鍵を借りている。
「先輩、怒らないんですか」
「怒らないよ。なんで?」
「中学のとき、ピアノの先生に、すごく怒られてたので。のろいって」
私は少し考えてから、机の引き出しを開けた。
中から、角の丸くなった紙を一枚出す。
フルートの運指表。
押さえるキーを黒く塗った丸が、音の数だけ並んでいる。ところどころに、鉛筆で小さな字が書いてある。「薬指、先に」「ここ、ひっかかる」。
「これ、私が一年のときに使ってたやつ」
「えっ」
「最初の二週間、私も音階が吹けなかったの。一年生の列に並んで、これを指でなぞってた」
芽衣が、運指表と私の顔を見比べる。
「……篠宮先輩が?」
「そう。けっこう悔しかった」
本当に悔しかった。
伯爵家の娘が、初めて楽器を触る子たちと並んで、紙を指でなぞるのだ。あのころの私は、毎晩枕に顔を押しつけて、歯を食いしばっていた。
今思うと、少し笑える。
「あげる。ぼろぼろだけど」
「い、いいんですか」
「うん。もう、指が覚えたから」
芽衣は運指表を両手で受け取って、譜面台の端にそっと挟んだ。
それからもう一度、楽器を構える。
六十のテンポで、ドから。
ミで少し揺れて、でも止まらずにファへ抜けた。
「あ」
「ほら、行けた」
芽衣の顔が、ぱっと明るくなる。
その顔を見て、胸の奥がふわりと温かくなった。
水野先輩も、こういう気持ちだったんだろうか。
付箋だらけの楽譜を渡してくれたときの、あの少しぶっきらぼうな顔を思い出す。
上は、下のためにいる。
王国では、上の者は、下の者に何かをさせるためにいた。ここでは、それが逆さまになっている。
◇
三年生の一年は、早い。
カレンダーをめくるたびに、そう思った。
周りの子は、受験の話をしはじめる。判定がどうだったとか、オープンキャンパスに行ったとか。
私は、その輪の端でうなずく。
(卒業まで、一年もない)
入学式の夜、鏡の前で決めた期限。
この学校を出る日まで。
あれは、ただの予感だった。誰に言われたわけでもない。
けれど三年目になっても、その予感は消えなかった。むしろ、日に日にはっきりしてくる。
いつか、あの大広間に戻される。
誰にも言えない。
だから私は、言わないかわりに、全部ちゃんとやることにした。
一つも、やり残さないように。
◇
自由曲は、フルートのソロから始まる。
楽譜を配られた去年の秋から、私はずっとそのソロを吹いてきた。
八小節。
伴奏は何もない。ホールの静けさの中へ、フルートが一本だけで出ていく。
五月の合奏で、私は思いきり吹いた。
息をたっぷり使って、音を伸ばす。頂点の音の前で、わずかに溜める。
最後の一音には、小さな飾りを足した。
王国の広間で、宮廷付きの先生に褒められた吹き方だ。
音楽室が、しんとした。
「……きれいだな」
成瀬先生が、指揮棒を下ろして言った。
「きれいだ。たぶん、県で一番きれいなソロだと思う」
褒められている。
なのに、先生の顔は笑っていない。
「でも、篠宮。そのソロのあと、誰が入る?」
「……クラリネットです」
「そうだな。今の吹き方だと、クラリネットは入りにくい。篠宮のソロが、そこで完成しちゃってるからな」
先生は譜面台に手をついて、私をまっすぐ見た。
「篠宮のソロは、みんなを始めるための音だ。一人で終わる音じゃない」
みんなを、始めるための音。
その日の帰り、私は自転車を押しながら、ずっとその言葉を考えていた。
王国では、一人で吹いて、一人で褒められるのが音楽だった。
誰かに渡すための音なんて、吹いたことがない。
次の日の朝練で、私はひかりに頼んだ。
「ひかり、ソロのあとの入り、一緒に吹いてくれない?」
「いいよー。朝ごはん、ちゃんと二杯食べてきたから元気」
二人だけの音楽室で、私はソロを吹いた。
今度は、ひかりの音を頭の中に置いてみる。
八小節目の終わりに、ひかりが息を吸う。
その息のぶんだけ、場所を空けておく。
頂点の音で溜めない。溜めたくなる気持ちを、前へ流す。
最後の音を飾らずに、まっすぐ、ひかりの方へ渡す。
私の音が細くなるところへ、ひかりのクラリネットが、下からそっと入ってきた。
二つの音が、一瞬だけ重なる。
それから、ひかりの旋律が歩きはじめた。
「……あ」
ひかりが、楽器から口を離した。
「澪ちゃん、今の、すごく入りやすかった。なんか、手を引っぱってもらった感じ」
胸の奥で、何かがかちりとはまった。
一人の音より、ずっと小さな音だった。
けれど、ずっと遠くまで届いた気がした。
◇
六月は、体育祭と文化祭が続けてある。
体育祭で、私はクラス対抗リレーの第三走者になった。
「澪、足速いじゃん。なんで隠してたの」
莉子がバトンを手に、口をとがらせる。
「隠してないよ。誰も聞かなかっただけ」
「それを隠してるって言うの」
王国では、令嬢は走らない。
裾をつまんで小走りするのが、せいぜいだ。
でもこの体は、よく走る。三年間、毎日坂の上の学校まで自転車をこいできた足だ。
ピストルの音。
一走、二走。歓声。
二位で受け取ったバトンを握って、私は地面を蹴った。
風が耳を切る。前の背中が近づく。
カーブの手前で並んで、直線で抜いた。
「澪ーっ!」
応援席から、莉子とひかりの声が飛んでくる。
アンカーの男子にバトンを渡して、私はそのまま芝生に倒れこんだ。
息が苦しい。空が青い。
(走って、倒れて、それでも笑われないのね)
笑われるどころか、知らない子にまで肩を叩かれた。
文化祭では、クラスでクレープの模擬店を出した。
莉子が呼びこみ。ひかりは味見係(本人の強い希望)。
私は、生地を焼く係になった。
「篠宮さん、生地うすくのばすの上手すぎない?」
「なんか、手首の使い方がフルートに似てる気がする」
「意味わかんないけど、すごい」
男子が紙皿を並べ、別の子がお金の箱を見張る。
普段しゃべったことのない子が、看板の字を書いてくれていた。
誰にでも、何かの係がある。
係のない子が、一人もいない。
王国の夜会で、私は何もしない側の人間だった。
運ばれてきたものを食べ、注がれたものを飲み、片づけは見なかった。
鉄板の前で汗をかきながら、私は生地を一枚、また一枚と焼いた。
焦がしたものは、ひかりが全部食べてくれた。
◇
七月の地区大会を抜けた。
八月の県大会で金賞を取り、代表になった。
そして、八月の終わり。支部大会。
去年と同じホールだった。
同じロビー。同じ赤い座席。同じ、結果を待つ客席の、息苦しい静けさ。
去年、ここで水野先輩が泣いた。
金賞と呼ばれて、喜んで、そのあとの代表の発表で、名前が呼ばれなかった。
壇上に、審査結果の紙を持った人が立つ。
一校ずつ、賞が読み上げられていく。
銀賞。銅賞。金賞のたびに、客席のどこかで悲鳴のような声が上がる。
「十四番、県立水城高等学校。——ゴールド、金賞」
隣で、莉子が私の手を握りつぶした。
でも、まだだ。
私たちは知っている。ここで喜んでも、まだ終わりではない。
全部の賞が読み上げられたあと、もう一度、マイクの前で紙がめくられる。
「続きまして、全国大会への代表団体を発表いたします」
客席の空気が、ぴんと張った。
一校目が呼ばれる。私たちではない。
二校目。違う。
莉子の手が、汗で冷たい。
ひかりは目をつぶって、口の中で何かを唱えている。
「——十四番、県立水城高等学校」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
それから、音が戻ってきた。
周りの部員の叫び声。誰かが座席から立ち上がる音。
莉子が、その場に崩れ落ちた。
「うそ、うそ、うそ……」
去年、水野先輩の背中をさすっていた莉子が、今は顔を覆って床に膝をついている。
「澪ちゃん!」
ひかりが、横から私に飛びついてきた。
受け止めきれずに、二人で座席の背もたれにぶつかる。
「行ける、行けるよ、名古屋!」
ひかりの涙が、制服の肩にしみてくる。
私は、何も言えなかった。
ただ、喉の奥が熱かった。
◇
十月。名古屋。
バスを降りると、大きなホールが空に向かって立っていた。
ガラスの壁に、秋の雲が映っている。
「でか……」
莉子がつぶやく。
「お城みたいだね」
ひかりが言って、私は少しだけ笑った。
本番の一時間ほど前から、係の人に呼ばれて動きはじめる。
楽器を出す部屋。
音出しの部屋。決められた時間だけ、全員で音を出せる。
チューニング。成瀬先生が、基準の音を鳴らす。
「隣の音を聴け」
三年間で何百回も聞いた言葉を、先生はいつもと同じ声で言った。
フルートのパートで、音を合わせる。
芽衣の手が、震えている。
「芽衣」
「は、はい」
「真ん中のところの一音。あそこは、芽衣の音だからね」
自由曲の真ん中に、全員の音がすっと消える場所がある。
そこで、フルートが一本だけ、低い音を四拍伸ばす。
合奏で何度も、芽衣はそこで音がかすれた。
それでも先生は、その一音を芽衣から外さなかった。私も、代わると言わなかった。
「……か、かすれたら、どうしよう」
「かすれてもいい。止まらなければ、次にひかりたちが入るから」
芽衣は、譜面台の端を指でなぞった。
春に運指表を挟んでいた場所だ。
今日は、そこに何も挟まっていない。もう、要らないのだ。
◇
舞台袖は、暗かった。
前の学校の演奏が、厚い幕の向こうから聞こえてくる。
金管の大きな音が、床を通して足の裏に伝わる。
足元に、小さな青いライトが点々と光っているだけ。
その暗さに、私は覚えがあった。
王立学院の大広間。卒業夜会。
シャンデリアの光が届かない、広間の隅の暗さ。
あの夜、私はそういう暗さの中から、皆の前へ引き出された。
レオナールの声。
ミレイユの涙。
私の書いた手紙。
(あの夜も、こういう暗さだったわ)
指先が冷たくなる。
そのとき、後ろから、とん、と背中を叩かれた。
「澪」
莉子だった。
ティンパニのマレットを握ったまま、暗い中で笑っている。
「ソロ、楽しみにしてる」
「……うん」
「あんたの音で、始めて」
前の学校の演奏が終わった。
拍手が、波のように押し寄せてくる。
幕の向こうで、椅子と譜面台が並べ替えられる音がする。
係の人が、小さな声で合図した。
「水城高校さん、どうぞ」
暗さの中から、私たちは光の方へ歩き出した。
今度は、引き出されるのではなく、自分の足で。
◇
舞台は、まぶしかった。
客席は見えない。
光の向こうに、黒くて大きな空間が広がっていることだけが分かる。
三千人くらいが、その暗がりの中で息をしている。
椅子に座る。譜面台の高さを直す。
右にひかり。左に芽衣。後ろの高い段に、莉子のティンパニ。
アナウンスが、学校の名前を読み上げる。
成瀬先生が客席に一礼して、こちらに向き直った。
ここから、十二分。
課題曲と自由曲。二曲合わせて、十二分を超えたら失格になる。
私たちの演奏は、いつも十一分四十秒前後で終わる。
先生の指揮棒が、上がった。
課題曲は、明るい行進曲ふうの曲だ。
最初の一拍で、五十人の音が一度に立ち上がる。
練習のときより、少しだけ硬い。
けれど、二小節目でもう戻ってくる。誰かが隣を聴いて、その隣がまた隣を聴いて、硬さがほどけていく。
私は、ひかりの音を聴いた。芽衣の音を聴いた。
自分の音を、その間に置いた。
課題曲が終わる。四分と少し。
曲と曲のあいだに、拍手はない。
譜面をめくる音が、五十人ぶん重なる。
成瀬先生が、私を見た。
自由曲。
冒頭は、フルートのソロだ。
先生の指揮棒が、静かに上がる。
その先は、まだ下りない。
私が息を吸うのを、待っている。
私は、深く息を吸った。
ロングトーンの前と同じだ。
おなかの底まで空気を入れて、肩を上げずに、背中を広げる。
三年前、初めてこの部の音楽室で、一つの音を出した。
あのとき吸った息と、今の息は、同じ体の中を通っている。
先生の棒が、そっと下りた。
一音目。
ホールの暗がりへ、フルートが一本だけで出ていく。
細く、まっすぐに。
飾らない。溜めない。
遠くの誰かに、そっと声をかけるように。
二小節目で、音が少し上がる。
四小節目で、もっと上がる。
頂点の音。ここで、溜めたくなる。
(溜めない。前へ)
息を、前へ流す。
次の音へ。その次の音へ。
七小節目。音が下りはじめる。
右側のひかりを、私は感じていた。見なくても分かる。ひかりが、楽器を構えて、息を吸う準備をしている。
八小節目。
私の音が、細くなっていく。
そこへ、ひかりのクラリネットが、下からそっと入ってきた。
二つの音が重なる。
ほんの一瞬。
それから私の音は消えて、ひかりの旋律が歩きはじめた。
客席の暗がりで、誰かが息をのんだ気がした。
(渡せた)
ひかりの旋律に、ほかのクラリネットが重なる。
サックスが入る。ホルンが、遠くから呼ぶように和音を置く。
音楽が、少しずつ広がっていく。
中盤、全体がゆっくり大きくなる場所。
低音が地面を作り、トロンボーンが柱を立てる。
その下で、莉子のティンパニが鳴りはじめた。
最初は、遠い雷のようなロール。
小さく、小さく、それから少しずつ大きく。
莉子の音は、三年前とは違う。
三年前の莉子は、自分の音を叩いていた。今の莉子は、皆の音の下を叩いている。皆が乗れる床を、叩いて作っている。
ロールが頂点に届いた瞬間、全員の音が一度に開いた。
ホールの空気が、震えた。
私も、その中で吹いた。
自分の音が、自分で聞こえなくなるくらい。
それでいい、と思った。
音が消えたわけではない。
和音の中の、一つの場所に、ちゃんといる。
そして、全部の音が、すっと引いた。
静けさ。
自由曲の真ん中。全員が、息を止める。
左側で、芽衣が息を吸う音が聞こえた。
小さく、震えた息だった。
(大丈夫)
私は楽器を下ろしたまま、芽衣の方へ、少しだけ体を向けた。
音で何かを伝えることはできない。だから、ただそこにいた。
芽衣の一音が、鳴った。
低い音。
四拍。
一拍目で、少しかすれた。
私の心臓が跳ねる。
二拍目で、音が戻った。
三拍目、まっすぐ。
四拍目、きれいに細くなって、ホールの奥へ吸いこまれていく。
かすれなかった、とは言えない。
でも、止まらなかった。
その音の終わりに、ひかりたちのクラリネットが、そっと和音を重ねた。
芽衣の音を、両手で受け取るように。
隣で、芽衣が小さく鼻をすすった。
泣くのは、あと。私は心の中で言った。
後半。
テンポが上がる。音符が細かくなる。
ひかりの対旋律が、私の旋律の下を、ずっと並んで走っていた。
一年の春、私は隣のクラリネットなんて聴いていなかった。
今は、聴こえる。
ひかりが少し前に出たいとき、私は少し下がる。
私が上へ行くとき、ひかりは下で支える。
言葉で決めたわけではない。三年間、隣で吹いてきたから、分かる。
最後の盛り上がり。
莉子のティンパニが、大きく、確かに鳴る。
金管が光る。木管が走る。
芽衣の音も、その中にちゃんとある。
成瀬先生の両手が、大きく広がる。
最後の和音。
五十人ぶんの音が、一つの響きになって、ホールの天井まで上っていく。
先生の手が、ぎゅっと握られた。
音が、止まった。
一秒。
二秒。
ホールの暗がりが、音の残りを抱えたまま、静まっている。
それから。
拍手が来た。
前から、後ろから、上の階から。
三千人ぶんの手が、波のように押し寄せてくる。
私は楽器を下ろして、息をした。
息が、まだ震えていた。
成瀬先生が、客席に向かって一礼する。
それから振り向いて、私たちを見た。
先生は、何も言わなかった。
ただ、一度うなずいた。
それだけで、十分だった。
◇
結果発表は、夕方だった。
客席に、出演した学校の生徒が詰めこまれる。
制服の色が、ブロックごとに分かれている。
壇上の人が、出演順に、学校の名前と賞を読み上げていく。
「十八番、県立水城高等学校」
私は、莉子とひかりの手を握っていた。
「——銀賞」
一瞬、静かになった。
それから、私たちのブロックで、いろんな声が上がった。
泣き出す子がいた。
「銀だって!」と笑って抱き合う子がいた。
悔しくて唇をかむ子がいた。
芽衣は、ぽろぽろ泣いていた。
「私の、私の一音、かすれたから……」
「違うよ」
私は、芽衣の頭に手を置いた。
「芽衣の一音、ちゃんと鳴ってた。止まらなかった。私、横で聴いてたから」
芽衣が、私の顔を見上げる。
それから、もっと泣いた。
莉子は、泣いていなかった。
口を半分開けて、天井を見上げていた。
「……銀かあ」
「銀だね」
ひかりが、泣きながら笑う。
「全国の、銀だよ」
莉子が、ゆっくりと笑った。
去年、私たちは支部大会の金賞で、全国に行けなかった。
その前の年は、県大会で終わった。
桐谷部長の代も、水野先輩の代も、ここには来られなかった。
その場所での、銀賞。
悔しくないと言えば、嘘になる。
でも、恥ずかしいとは、一つも思わなかった。
◇
ホールを出ると、もう夜だった。
名古屋の街の灯が、ビルの窓にいくつも並んでいる。
秋の風が、少し冷たい。
楽器をトラックに積み終わったあと、莉子が三年生だけを呼んだ。
「ちょっと、三年、集合」
ホールの裏手の、植えこみの横。
十七人の三年生が、肩を組んで、円になった。
右に莉子。左にひかり。
ほかのみんなの肩も、腕も、温かい。
「……あのさ」
部長の莉子が、声を出す。
いつもの大きな声ではなく、少しかすれた声だった。
「来てよかった」
それだけ言って、莉子は鼻をすすった。
「うちらの代で、全国、来てよかった。銀でよかった。いや、金がよかったけど。でも、来てよかった」
誰かが笑った。誰かが泣いた。
ひかりが、私の肩に頭を乗せた。
私は、夜空を見上げた。
ビルの光で、星はほとんど見えない。
それでも、きれいだと思った。
(幸せだわ)
王国で、一度もこう思ったことはなかった。
広間で笛を吹いて褒められたときも、婚約が決まったときも。
どれも、勝ったという気持ちだった。
誰かより上にいる、という気持ちだった。
今のこれは、違う。
誰にも勝っていない。銀賞だ。
上には、たくさんの学校がいる。
それでも私は今、ここにいる皆と同じ場所に立っている。
肩を組んで、同じ空を見ている。
それが、こんなに幸せだなんて、知らなかった。
◇
帰りのバスは、静かだった。
疲れた子たちが、座席にもたれて眠っている。
隣のひかりも、私の肩に寄りかかって、寝息を立てていた。
通路をはさんだ席で、莉子が窓に頭をつけて目を閉じている。
私は、眠れなかった。
窓の外を、高速道路の灯が流れていく。
オレンジ色の光が、一つ、また一つ、後ろへ飛んでいく。
十月。
膝の上で、指を折って数える。
十一月、十二月、一月、二月、三月。
卒業式は、三月の初めだ。
(あと、五か月)
この学校を出る日まで。
入学式の夜、自分で決めた期限。
何も起きないのかもしれない。
でも、もしそうでなかったら。
窓ガラスに、自分の顔がうっすら映っている。
前髪を短くした、目のはっきりした顔。三年前とは、まるで違う顔だ。
肩で眠るひかりを起こさないように、私はそっと息を吐いた。
五か月。
それだけあれば、ちゃんと全部、終わらせられる。
ありがとう、と言うことも。
行ってきます、と言うことも。
◇
三月、卒業式の日の朝。
台所に下りていくと、父が、いつもより大きな卵焼きを焼いていた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
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次回は「第8話 卒業式のあとで、もう一度」です。




