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第6話 金色の、ダメ

前回の続きです。

「篠宮先輩、おはようございます!」


四月の朝、音楽室の前の廊下で、知らない一年生に頭を下げられた。

腰から、きっちり四十五度。


「……おはよう」


返事をしてから、三秒くらいたって、ようやく気づく。

先輩。

私のことだ。


二年生になった。


クラス替えで、莉子とひかりとはまた同じクラスになった。担任も森先生のままだった。

名簿を見た莉子は廊下で飛び跳ね、ひかりは「よかったー」と言いながら、なぜかお菓子を配っていた。


部活では、私はフルートの中心になっていた。

三年生になった水野先輩がパートリーダー。その隣で、私が一番を吹くことが多くなった。

そして新しく、一年生のフルートが二人入ってきた。


◇


一年前、私はこの「先輩」という仕組みを、ばかばかしいと思っていた。


入った年が一年早いだけで、上になる。

家柄も、腕前も関係ない。どれだけ下手でも、先に入った者には頭を下げる。


王国では、年は順番を決めなかった。

公爵家の次男は、年上の男爵家の当主より先に広間へ入る。それが当たり前だった。

上下を決めるのは血で、血は生まれた日に決まっている。


だから、初心者の二年生に「おはようございます」と頭を下げるたび、内心で首をかしげていた。

(どうして、わたくしが)

一年前の私は、まだそう考えていた。


それが少し変わったのは、この四月の、ある放課後だった。


新入生の体験入部の日。

音楽室の隅で、三年生の打楽器の先輩が、一年生と二人でティンパニを運んでいた。

重いほうの端を、先輩が持っていた。


「段差あるよ。ゆっくりね」


廊下の向こうでは、水野先輩が、フルートを初めて持った一年生の前にしゃがんでいた。

組み立て方を、一つずつ見せている。頭部管を差して、マークを合わせて。


「ここ、力入れなくていいから。ねじらないで、まっすぐ」


去年の私にも、同じことをしてくれた人だった。

キーの押さえ方を知らなかった私の横で、運指表を指でなぞってくれた。


(ああ、そうか)


上は、下のためにいる。


先に入った者は、先に知っている。

知っていることを渡すために、先にいる。

頭を下げてもらうのは、そのお返しなのかもしれない。


王国の上下は、下が上に仕えるためのものだった。

私は使用人に、何かを教えたことが一度もない。


「篠宮、ちょっと」


水野先輩が、私を手招きした。


「この子の構え、見てあげて。あんたのほうが、たぶん教え方が近い」


一年生の女の子が、緊張した顔でフルートを持っていた。

唇を当てる位置がずれていて、息が全部、上へ抜けている。音にならない。


「下唇を、ここに。穴の端に少しかかるくらい」

「は、はい」

「息は、遠くのろうそくを揺らすつもりで。吹き消すんじゃなくて」


しばらくして、かすれた音が一つ、ふっと鳴った。

一年生が、目を丸くして私を見た。


「鳴った……!」

「鳴ったね」


自分の声が、思ったより嬉しそうで、私は少し驚いた。


その日の帰り、一年生の楽器ケースと譜面台を、私が音楽準備室まで運んだ。

一年生は「自分で持ちます!」と慌てたけれど、私は「いいから」と言った。


去年、水野先輩が、私にそう言ったから。


◇


五月の終わりに、ホームルームで紙が配られた。


『進路希望調査』


第一希望。進学か、就職か。

志望する学校、学部。

いちばん下に、大きな枠。『将来の希望(自由に書いてください)』。


「三年になったら本格的に決めるけど、今の気持ちでいいからね。来週の月曜までに出してください」


森先生がそう言うと、教室がざわざわし始めた。


「莉子、なんて書くの」

「んー、美容の専門? でも音楽も捨てがたいんだよね」


莉子は、もうシャープペンを走らせている。


「ひかりは?」

「わたし、栄養士さん。給食つくる人」

「似合う」

「でしょー」


私は、紙を見ていた。


自分の行き先を、自分で書く紙。


王国では、私の行き先は、生まれたときから決まっていた。

伯爵家の娘として育ち、侯爵家へ嫁ぎ、跡継ぎを産む。

それ以外の欄はなかった。紙に書く必要もなかった。


ここでは、白い枠が、私を待っている。

何を書いてもいいと言っている。


ペンを持った。

何も書けなかった。


(どうせ、戻るのに)


入学した日の夜、鏡の前で決めた期限がある。

この学校を出る日まで。

その先の私は、きっとここにいない。あの大広間へ、もう一度引き戻される気がしてならない。


それなのに、何かを書きたいと思った。

書けないのに、書きたい。その気持ちが、自分でもよくわからなかった。


家に帰って、台所で夕飯の支度をしていた母に、紙を見せた。


「進路調査かあ。懐かしい」

「何を書けばいいのか、わからなくて」


母は、包丁を置いて、紙をしばらく眺めた。


「澪の人生なんだから、澪が書けばいいよ」


いつもの口ぐせだった。


「でもね、白いままでもいいの。わからないって、ちゃんとわかってるなら、それも答えのうち」


月曜日、私は白いままの紙を出した。

名前だけ書いてある紙を受け取って、森先生は少し私の顔を見た。


「篠宮さん。空欄でもいいよ」


それから、紙を名簿の上に重ねながら言った。


「でも、いつか自分で書いてね。誰かに書いてもらうんじゃなくて」


◇


夏のコンクールが近づいて、音楽室の空気が変わっていった。


自由曲には、中ほどに短いフルートのソロがあった。八小節。

オーディションで、そこは私に決まった。


「ソロは篠宮」


水野先輩が、パート練習の教室で言った。


「私は隣で支える。あんたの音が、いちばん遠くまで届くから」


先輩が自分でソロを吹きたくなかったはずはない。三年生の、最後の夏だ。

でも、先輩はそれを顔に出さなかった。


七月、地区大会。金賞で県大会へ。

県大会では、自分たちの番号のあとに、初めて「ゴールド金賞」と読まれた。

さらに、閉会式の最後に読み上げられる代表の学校の中に、水城高校の名前が入っていた。


支部大会へ。

部の歴史で、初めてのことだった。


客席で、莉子は叫んで、ひかりは泣いて、私は二人に挟まれて、もみくちゃになった。

水野先輩は、両手で顔を覆って、しばらく動かなかった。


◇


八月のはじめ、三泊四日の合宿に行った。


山の上の、古い研修施設だった。

バスを降りると、空気が冷たい。蝉の声が、下界とは違う種類の声に聞こえる。


朝は六時に起きて、外の芝生でロングトーン。

朝露で靴が濡れる。吐く息は白くないけれど、指先が少しかじかむ。

五十人が輪になって、同じ音を八拍伸ばす。山の向こうへ、音が吸いこまれていく。


午前は基礎合奏。午後はパートごとに分かれて練習。夜はまた全員で合奏。

一日に十時間近く、楽器を持っていた。

唇がしびれて、夜にはお箸で豆がつまめなかった。


夕飯のあとは、大浴場だった。


「篠宮、早くー」


脱衣所で、私は固まっていた。


王国では、湯あみは侍女に手伝ってもらって、一人でするものだった。

人前で服を脱ぐなど、考えたこともない。


ここでは、同じ部の女子が二十人、当たり前のように服を脱いで、わいわい湯船に入っていく。

先輩も後輩も、パートリーダーも初心者も、何も着ていない。

肩書きの付けようがない。


「澪、何してんの。風邪ひくよ」


莉子に引っぱられて、私は湯気の中へ入った。

お湯は熱くて、白くて、少し硫黄のにおいがした。


肩までつかると、思わず声が出た。


「……はあ」

「おばあちゃんみたい」


ひかりが笑った。湯船の向こうで、水野先輩も笑っていた。


その夜、和室に布団を並べて敷いた。

消灯は十時。先生が見回りに来るまでは、みんな寝たふりをする。足音が遠ざかると、あちこちで小さな声が起き出す。


私の右に莉子、左にひかり。

天井の木目が、暗がりでぼんやり見えた。


「支部、行けたらいいね」


ひかりがささやいた。


「行けたら、じゃなくて、行くの。その先も」

「莉子、こわーい」

「部長が全国行けって言ったんだもん」


莉子は、しばらく黙ってから、布団の中で寝返りを打った。

暗い中で、こちらを向いた気配がした。


「ねえ、澪ってさ」

「うん」

「時々、すごく遠く見てるよね」


息が止まった。


「合奏中とかじゃなくて。帰り道とか、窓の外とか。ここじゃないどこか見てる顔してる」


遠く。

雨の山道。崖。大広間のシャンデリア。扇。

王妃が口を開きかけている、あの一瞬。


それは、私にしか見えない場所だった。


「……そうかな」


それしか言えなかった。


莉子は、それ以上聞かなかった。

「ま、いいけど」と言って、私の布団の上に、自分の手をぽんとのせた。


「どっか行くなら、言ってからにしてよね」


ひかりの寝息が、もう聞こえていた。

私は返事をしなかった。できなかった。

莉子の手の重さだけを、眠るまでずっと感じていた。


◇


八月の終わり、支部大会。


隣の県の、大きなホールだった。

客席は三階まであって、天井が高い。舞台に立つと、客席の奥が見えないくらい暗かった。


県大会とは、音が違った。

前の学校の演奏を、舞台袖で聴く。どの学校も、上手い。どこか一か所でも崩れたら、すぐに分かってしまうくらい、上手い。


私たちの番が来た。


課題曲は、悪くなかった。

自由曲。中ほどの、八小節のソロ。


まわりの楽器が静かになって、私だけが残る。

スポットライトの熱が、額に当たる。

吹いた。

最後の音を伸ばしきったとき、隣の水野先輩が、ほんの少しだけうなずいたのが見えた。


演奏のあと、楽器を片づける部屋で、誰かが「よかったよね」と言った。

みんな、同じ顔をしていた。届いた、と思っている顔。


夕方、結果発表。


客席の明かりが落ちて、舞台に各校の代表が並ぶ。三年生の部長と、水野先輩が、うちの学校の列に立っている。

私たちは、客席で全員、手をつないでいた。


「プログラム十四番、県立水城高等学校」


息を止める。


「ゴールド金賞」


客席で、悲鳴みたいな声が上がった。

莉子が私の手を握りつぶしそうな力で握った。ひかりはもう泣いていた。

舞台の上の水野先輩が、賞状を受け取りながら、こちらを見て笑った。


まだ、終わりではない。


すべての学校の結果が出たあと、全国大会へ進む代表の学校が発表される。

金賞の中から、三校だけ。


「それでは、全国大会に推薦する団体を発表します」


ホールが、しんと静まった。


一校目。私たちの知らない、私立の学校の名前。

二校目。去年も全国へ行った、県立の強豪の名前。

三校目。


「――高等学校」


水城、ではなかった。


拍手が起こる。遠くの客席で、歓声と泣き声が上がる。

その声の中で、私たちの列だけが、音をなくしていた。


莉子の手から、力が抜けた。


「……え」


誰かがつぶやいた。


金賞なのに。

金色の賞状を、今まさに受け取ったのに。

全国へは、行けない。


「ダメ金っていうの」


ホールのロビーで、二年のトロンボーンの子が、ぽつりと言った。


「金賞だけど、代表じゃない金賞。……ダメな、金」


水野先輩が、舞台から戻ってきた。

金色の縁取りの賞状を、両手で持ったまま。


先輩は、私たちの前まで来て、何か言おうとした。

口が開いて、閉じて、もう一度開いて。

それから、その場で泣き崩れた。


去年の県大会では、唇をかんで泣かなかった人だった。


◇


帰りのバスは、静かだった。


窓の外を、高速道路の灯りが流れていく。

後ろの席で、誰かがまだ鼻をすすっていた。


私は、自分の中に、黒くて熱いものが湧いてくるのを感じていた。


覚えのある感覚だった。

王国の、断罪の夜。大広間で、私はこれと同じものを抱えて、ミレイユを罵った。


(あの箇所だ)


自由曲の終わり近く、静かなところ。

一年生のホルンが、一拍早く入った。ほんの一瞬。客席の誰も気づかないくらいの、小さなずれ。

でも、審査員なら気づいたかもしれない。

あれがなければ。あの一拍がなければ。


その一年生は、二つ前の席に座っていた。窓に額をつけて、ずっと外を見ている。


喉まで、言葉が上がってきた。

誰かに、あの箇所の話をしたかった。誰かに「そうだね」と言ってほしかった。

それだけで、この黒いものは少し軽くなる。王国の私は、そうやって軽くしてきた。


隣の莉子が、目を閉じたまま言った。


「誰のせいでもないよ」


私に言ったのか、自分に言ったのか、わからなかった。


私は、口を閉じた。

言わなかった。


一週間後、大会の録音が学校に届いた。


音楽室で、全員で聴いた。

課題曲。自由曲。


一年生のホルンのずれは、録音で聴くと、思っていたよりずっと小さかった。


それより先に、私は別のものを聴いていた。


八小節のソロ。

三小節目から、少しずつ前へ転がっている。

ほんのわずか。けれど、確かに走っていた。後ろの和音が入ってくるとき、一瞬だけ、合わせに来てくれているのが分かる。

あのとき、私はスポットライトの中で、一人で吹いていた。隣を聴いていなかった。


(私だ)


一年生の一拍だけを責めようとしていた。

自分の八小節を、聴こうともしないで。


録音が終わって、みんなが黙りこんでいる中、私は手を挙げた。


「ソロ、走っていました。すみません」


音楽室が、少しざわついた。

成瀬先生は、腕を組んだまま私を見た。


「うん。走ってたな」


それから、一年生のホルンの子のほうを見て、私のほうを見て、最後に全員を見た。


「ずれた箇所は、ほかにもいくつもある。一つ直せば行けた、なんて演奏はない。全部まとめて、今年の水城の音だ」


録音を止めたあと、ホルンの一年生が、私のところへ来た。


「先輩、私も、最後のとこ……」

「うん。来年、一緒に直そう」


一年生は、泣きそうな顔で、何度もうなずいた。


◇


九月の最初の土曜日、三年生が、パートリーダーを下りた。

冬の定期演奏会には出る。でも、部を動かすのは今日から二年生だ。


パート練習の教室で、水野先輩が、一冊の楽譜を差し出した。


「はい、これ」


基礎練習の楽譜集だった。

表紙は角が丸くなって、テープで何か所も補強してある。

開くと、ページのあちこちに、色とりどりの付箋が貼ってあった。


「この付箋、黄色が三つ上の先輩。ピンクが二つ上。緑が私。歴代のパートリーダーが、ずっと書き足してきたやつ」


『ここで息を吸わない』

『音程上ずる。下のレ、気をつけて』

『一年生は、この練習を最初に嫌がる。でも続けさせる』

『隣のクラを聴く』


知らない人たちの字が、ぎっしり並んでいる。

何年も前の、私の知らない先輩たちが、私の知らない後輩たちのために書いた字。


王国で、何かを受け継ぐといえば、家の紋章か、土地か、宝石だった。

それは血でつながった者にしか渡されなかった。


この楽譜は、血も家も関係なく、ただ同じ楽器を吹いた者から、次に吹く者へ渡される。


「篠宮」


水野先輩が、まっすぐに私を見た。


「来年は、あんたが隣を聴く番」


私は、楽譜を両手で受け取った。

思ったより重かった。


「……はい」


声が少し震えた。

先輩は「泣くなよ」と言って、自分のほうが先に目を赤くしていた。


◇


十月。新しい部長は、莉子に決まった。


投票の結果が黒板に書かれたとき、莉子は「え、まじで」と言って、それから、打楽器の一年生たちに背中をばしばし叩かれていた。


私は、フルートのパートリーダーと、学生指揮の補佐になった。

指揮台の横に立って、合奏の前に全員の音を聴く係だ。


一年前、私は自分の音しか聴いていなかった。

今は、五十人の音を聴こうとしている。


「篠宮、指揮の補佐って、何するか分かってる?」


莉子が、部長になってから少しだけ偉そうな顔で聞いた。


「隣の音を聴く、のを、全員分」

「正解」


音楽室の窓の外で、銀杏の葉が色づき始めていた。


その週の金曜日、合奏の終わりに、成瀬先生が段ボール箱を指揮台の上に置いた。


「来年の自由曲、決めた。早めに渡しておく」


パートごとに、楽譜が配られていく。

私の手元にも、フルートの一番の楽譜が回ってきた。


表紙をめくる。

一ページ目の、最初の段。


ほかの楽器は、全部休符だった。


フルートだけが、楽譜の冒頭から、長い旋律を一人で吹いている。

数えると、十六小節。伴奏も、和音もない。


ホールが静まり返った中で、最初の音を鳴らすのは、私だ。


顔を上げると、成瀬先生がこちらを見ていた。


隣の席で、ひかりが自分の楽譜をのぞきこみ、小さく息をのんだ。

クラリネットの最初の音は、私の十六小節が終わった、その次の拍から始まっていた。


最後の夏の、最初の音。

それを鳴らす日まで、あと十か月だった。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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次回は「第7話 名古屋の十二分」です。

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水戸市には私立ですが「水城高校」があります 吹奏楽も有名なようです
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