第10話 誰でも座れる劇場
最終話です。全十話、ここで終わります。
劇場を作るには、お金が要る。
当たり前のことを、私は穀物倉の前で、改めて考えていた。
屋根を直す。床を張る。椅子を作る。舞台を組む。
ざっと見積もっただけで、別邸がもう一つ建つくらいの額になった。
父に頼むことは、最初から考えなかった。
頼めば、劇場は伯爵家のものになる。
伯爵家のものになれば、扉は二つになる。
貴族の扉と、それ以外の扉。
「では、どうなさるんで」
ガストン親方が、腕を組んで言った。
「皆で、少しずつ出し合います」
「町の連中は、貧乏ですぜ」
「だから、少しずつ」
私は、楽団のパンの箱を思い出していた。
子どもは半枚、大人は一枚、私も一枚。
一人ぶんは小さくても、三十五人ぶんなら、毎日パンが買えた。
「それから、町の外からも集めます」
◇
広場の掲示板に、紙を一枚貼った。
穀物倉を、劇場にします。
銅貨一枚から、出資を受け付けます。
出してくださった方の名前は、劇場の壁に刻みます。
一日目、箱に入ったのは、銅貨が十二枚だった。
入れたのは、ほとんど楽団の子どもたちだった。
二日目、宿屋の主人が来た。
ニナの父親。
黙って、銀貨を三枚入れた。
「名前は、女房のを彫ってくれますか」
「はい」
主人は、それ以上何も言わずに帰っていった。
パン屋が入れた。粉屋が入れた。
羊飼いの爺さんが、羊を一頭売った金を持ってきた。
止めようとしたら、怒られた。
「わしは、あの倉でもう一回、ラッパを吹きたいんじゃ」
それでも、町の金だけでは足りなかった。
私は、王都の商人に手紙を書いた。
羊毛を扱う商会、布の商会、ぶどう酒の商会。
昔のベルフォールで市を開いていた家を、マルトに教わって、一軒ずつ。
返事をくれたのは、一軒だけだった。
羊毛商会の主、ルフェーヴル氏が、冬の初めにやってきた。
太った体に、よく動く目。
「伯爵家のお嬢様の道楽に、金は出せませんよ」
開口一番、そう言われた。
「道楽ではありません。数字を見ていただけますか」
私は、帳面を開いた。
収穫祭の日、パン屋が売ったパンの数。いつもの四倍。
宿屋に泊まった客の数。近くの村から、演奏を聴きに来た人たち。
屋台の売上。翌月、扉を開け直した店が二軒。
楽団の練習を見に、毎週通ってくる隣村の人の数。
水城高校の部の会計を、二年生のとき手伝ったことがある。
楽譜代、楽器の修理代、合宿のバス代。
莉子が「澪、計算早っ」と言った。
あのとき覚えた帳面のつけ方が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「人が音を聴きに来れば、パンが売れます。宿が埋まります。市が戻れば、羊毛も動きます。昔のように」
ルフェーヴル氏は、長いあいだ帳面を見ていた。
「名前を壁に刻むと書いてありましたな」
「はい」
「わしの名前は、一番大きく彫ってもらえるんでしょうな」
「いいえ」
私は首を振った。
「銅貨一枚の方も、金貨百枚の方も、同じ大きさで彫ります」
氏は、目を丸くした。
それから、腹を揺らして笑った。
「面白い。ほかの町では、聞いたことがない」
氏が置いていった額は、町じゅうの箱を合わせたより多かった。
壁に刻まれたその名前は、羊飼いの爺さんの名前と、同じ大きさだった。
◇
冬のあいだ、町じゅうで穀物倉を直した。
大工が屋根を張り替え、鍛冶屋が釘を打ち、指物師が長椅子を作った。
子どもたちは、瓦礫を運んだ。
楽団の練習は、朝と夜に分けた。昼は皆、倉にいた。
私も、毎日倉にいた。
床を拭き、木屑を掃き、昼にはパンを配る列に並んだ。
最初のころ、大工の棟梁が、私に梯子を使わせなかった。
「お嬢様に怪我でもされたら、わしらの首が飛びます」
「では、下で釘を渡します」
棟梁は、しばらく私を見て、それから、釘の袋を投げてよこした。
文化祭のクラスの模擬店を思い出した。
看板を作る係、買い出しの係、売り子の係。
誰でも何かの係があった。
私は、たこ焼きの粉を量る係だった。ひかりが、つまみ食いをする係だった。
冬のさなか。
父が、ベルフォールに来た。
謹慎の一年も、残り三か月ほどになっていた。
知らせもなく、馬車が別邸の前に止まった。
父は、倉の中を一目見て、顔を歪めた。
「何の真似だ」
「劇場を作っています」
「伯爵家の娘が、芝居小屋の真似事か。王都でまた笑いものになる気か」
大工たちの手が止まった。
棟梁が、心配そうにこちらを見ていた。
以前の私なら、言い返していた。
あなたが私に何をしてくれたのか。
母が死んだあと、私に一度でも笑いかけたか。
言葉なら、いくらでも並べられた。
(それで、何が残るのかしら)
私は、父を別邸の書斎に案内した。
帳面を広げた。
「お父様。黙らせたいのではありません。分かっていただきたいのです」
それから、まず頭を下げた。
「卒業夜会で、わたくしは、伯爵家の名前に泥を塗りました。わたくしが、手紙を書いたからです。お父様が王都で頭を下げて回られたことも、知っています。申し訳ありませんでした」
父の顔が、固まった。
私は、言い訳を足さなかった。
母に教わった通りに。何をしたか、誰に、これからどうするか。
「これからのことを、お話しさせてください」
帳面の数字を、一つずつ見せた。
出資者の数。集まった額。伯爵家の金は一枚も使っていないこと。
町に戻ってきた店の数。この冬、ベルフォールから納められた税が、去年よりわずかに増えていること。
父は、長いあいだ黙っていた。
「……誰に教わった」
「遠いところで。友人と、先生と、家族に」
父は、その「家族」という言葉に、少し眉を動かした。
でも、何も聞かなかった。
「帳面は、毎月送れ」
それだけ言って、父は立ち上がった。
反対は、しなかった。
窓の外で、棟梁がほっと息をつくのが見えた。
◇
席の値段は、皆で決めた。
楽団の倉庫に、出資者を集めた。
ルフェーヴル氏も、王都から来た。
宿屋の主人も、パン屋も、羊飼いの爺さんも。
「前の席は、高くします」
私は言った。
何人かが、顔をしかめた。
「舞台がよく見える席には、それだけの値をつけます。払える人には、払っていただく。その代わり」
私は、倉の後ろを指さした。
長椅子の後ろの、何もない広い床。
「後ろの立ち見は、パン一つの値段にします」
ざわめきが起きた。
「パン一つ? それで、劇場が保ちますか」
「前の席が、後ろを支えます。後ろの人が増えれば、宿とパン屋と屋台が潤って、それが町を支えます」
水城高校の定期演奏会は、入場無料だった。
チケットを配る係を、一年生のときにやった。
来てくれたのは、部員の家族と、近所のおじいさんと、小さい子どもを連れたお母さんたち。
お金がなくても、聴いていい場所だった。
ここでは無料にはできない。
でも、パン一つなら、誰でも払える。
「それと、もう一つ」
私は言った。
「扉は、一つにします」
今度のざわめきは、さっきより大きかった。
「貴族の方も、商人も、子どもも、同じ扉から入ります。入る順番は、来た順です。身分では変えません」
日本の駅の、朝の列を思い出した。
スーツの人も、制服の子も、杖をついたおばあさんも、同じ白い線の後ろに並んでいた。
最初は、どうして誰も先を譲らないのかと思った。
しばらくして、あれは誰も先を奪わない列なのだと分かった。
ルフェーヴル氏が、手を挙げた。
「お嬢様。近くの男爵家の奥方なんかは、怒りますぞ」
「怒っていただいて、かまいません」
「来なくなりますぞ」
「前の席の値段は、払っていただけるでしょう。お顔が見たいのは、扉の前ではなく、舞台のほうのはずですもの」
氏は、また腹を揺らして笑った。
◇
劇場が開いたのは、謹慎の一年が明ける少し前の、春の初めだった。
最初の晩。
扉の前に、日の暮れる前から列ができた。
先頭は、パン屋の娘の弟たちだった。
昼から並んでいたらしい。
その後ろに、羊飼いの家族、宿屋の常連、隣村から歩いてきた夫婦。
列の半ばに、男爵家の馬車が着いた。
奥方が降りてきて、列を見て、眉をひそめた。
「入口はどこ? わたくしたちの入口は」
「こちらの一つでございます」
扉の番をしていたテオが、少し震える声で答えた。
私が教えた通りに、丁寧に。
「並べと言うの? 羊飼いの後ろに?」
奥方の目が、私を見つけた。
私は列の脇へ行って、頭を下げた。
「ようこそおいでくださいました。扉は一つだけですの。前のお席を取ってございますから、中に入れば、いちばんよく見えます」
「……あなた、アルンハイム伯爵の」
「はい。ヴィオレッタでございます」
奥方は、私の顔をしばらく見ていた。
王都の噂を、知っているのだろう。
扇を投げた娘。頭を下げた娘。
それから、ふんと鼻を鳴らして、列の後ろに歩いていった。
羊飼いの爺さんが、慌てて場所を譲ろうとした。
奥方は、それを手で止めた。
「並ぶのでしょう。並びますわよ」
扉が開いた。
前の長椅子に、ルフェーヴル氏と、男爵家の奥方と、王都から来た商人たち。
真ん中の長椅子に、町の店の主人たち。
後ろの立ち見に、パン一つの値段で入った人たち。子どもたち。手をつないだ若い二人。
皆、同じ扉から入って、同じ天井の下にいた。
壁には、出資者の名前が、同じ大きさで並んでいた。
その晩の演目は、市民楽団の演奏と、旅の一座の芝居だった。
芝居の途中で、後ろの子どもが大声で笑った。
前の奥方が振り返った。
叱るのかと思ったら、奥方も、扇の陰で笑っていた。
◇
芸術の自由市場を作ったのは、劇場が開いた次の月だった。
きっかけは、一人の若い絵描きだった。
エミールという名の、痩せた青年。
劇場の壁に飾る絵を探していたとき、宿屋の裏で、炭で壁に絵を描いているのを見つけた。
楽団の子どもたちの顔だった。
一人ひとり、ちゃんと違う顔をしていた。
「売らないの?」
「売れません。画家のギルドに入っていないと、絵は売れないんです。入るには、親方の弟子になって、七年。それに、入会金が」
ギルドの決まりは、王国じゅうどこでも同じだった。
楽譜も、彫刻も、楽器も。
許しを持った者しか、売ってはいけない。
私は、代官と、町のギルドの世話役たちを訪ねた。
世話役の一人は、最初から顔を真っ赤にしていた。
指物師のギルドの、年配の親方だった。
「伯爵家のお嬢様が、ギルドを潰しにいらしたか」
「いいえ。月に一度、一日だけ、広場をお借りしたいのです」
私は、紙を広げた。
月に一度、広場に区画を並べる。
誰でも、一区画を借りられる。ギルドの許しは要らない。
区画代は安くする。銅貨数枚。
売上の一部は、劇場を保つための箱に入れる。
ギルドの方々も、もちろん区画を借りられる。
店を持つ方の商いは、ほかの日には、今まで通り。
「若い者に勝手をさせたら、腕の悪い品が出回る」
「そうかもしれません」
私は、うなずいた。
「でも、腕の悪い品は売れません。買う人が、見て決めます。腕のいい親方の品が、隣の区画に並んでいれば、なおさら」
親方は、黙った。
私は、親方を言い負かしたいわけではなかった。
皆の前で親方の言葉の矛盾を並べることは、できた。
でも、それをしたら、この人は二度と広場に来ない。
「親方の削った長椅子が、劇場の中にあります。毎晩、百人が座っています。座り心地がいいと、皆が言います」
親方の顔の赤さが、少し変わった。
「市の日には、親方の区画も、取っておきます」
最初の市の日。
広場に、区画が二十並んだ。
エミールは、子どもたちの顔を描いた板を並べた。
午前中、誰も足を止めなかった。
昼過ぎ、布商人の奥さん、テオの母親が、一枚の前で立ち止まった。
テオが、楽団の笛を吹いている絵だった。
「これ、うちの子だわ」
「はい」
「……いくら?」
エミールが値段を言う声は、裏返っていた。
奥さんは、黙ってお金を払って、絵を両手で抱えて帰っていった。
エミールは、そのお金をしばらく見ていた。
それから、劇場の箱に、決まりより多く入れた。
隣の区画では、旅の楽師が、手で写した楽譜を売っていた。
南の国の踊りの曲。
楽団の子が買って、その晩、倉庫で吹いてみせた。
その向こうでは、指物師の娘が、小さな木の笛を並べていた。
父親に習って、自分で削ったという。
子どもが、銅貨を握って買いに来た。
ギルドの親方は、広場の端に区画を取って、黙って椅子を並べていた。
夕方には、全部売れていた。
◇
謹慎の一年が明けた。
父から、手紙が来た。
王都へ戻れ、と書いてあった。
そして、縁談が一つ。
王都の子爵家の嫡男。年は二十二。噂の多い伯爵令嬢を、それでも迎えたいと言っている、ありがたい話だ、と。
私は、その手紙を持って、王都へ一度だけ戻った。
父の書斎で、向かい合った。
「お断りします」
父は、眉ひとつ動かさなかった。
予想していたのだろう。
「理由を言え」
「わたくしは、ベルフォールで劇場をやります。楽団も、市も、まだ始まったばかりです」
「結婚しても、できる」
「できないかもしれません。できるかもしれません。でも」
私は、少し考えて、言葉を選んだ。
「結婚は、したくなったら、自分で決めます」
日本の教室で、ひかりが言っていた。
好きな人と結婚したいなあ、と。
なんでもないことのように。
クラスの子が付き合って、別れて、次の週にはまた笑っていた。
結婚は、家と家の契約ではなかった。
レオナールを好きだったことは、一度もなかった。
あの婚約を守ろうとして、私は、人の人生を壊した。
二度と、同じ形の約束を、自分のためにも、誰かのためにもしたくない。
父は、私を見ていた。
分からない、という顔だった。
この人は、たぶん一生分からない。それでいいと思った。
私は、劇場の帳簿を机に置いた。
開いた晩からの、毎晩の入りと、売上と、出資者への配当。
父はそれを、一枚ずつめくった。
最後のページまでめくって、父は帳簿を閉じた。
それから、縁談の手紙を、引き出しにしまった。
何も言わなかった。
帰りの馬車で、私は窓の外を見ていた。
北の山道ではなく、南へ向かう道。
一年前と同じ道を、今度は自分で選んで走っていた。
◇
それから、何年かが過ぎた。
市民楽団は、百人を超えた。
パートのまとめ役は、毎年、入った順と、教えるのが上手な人で決めている。
最初の年の子どもたちが、今は新しい子どもたちに、ロングトーンを教えている。
「隣の音を聴いて」と、私と同じ言い方で。
劇場には、他国の楽師や劇団が来るようになった。
東の国の弦楽の一座。南の海沿いの国の、仮面の芝居。
扉は今も一つで、立ち見は今もパン一つの値段だ。
王族が来た晩にも、扉は一つだった。
自由市場は、月に一度から、月に二度になった。
大陸じゅうから、画商がやってくる。
エミールの絵には、王都の画商が値をつけるようになった。
エミールは今も、市の日には広場の隅に区画を借りて、子どもの顔を描いている。
穀物倉のまわりの空き家には、絵描きと楽師と職人が住みついた。
宿屋は三軒に増えた。パン屋は、朝に二度焼くようになった。
いつのころからか、人はベルフォールを「誰でも舞台に立てる町」と呼ぶようになった。
遠い国の本に、芸術の都として、名前が載ったと聞いた。
レオナールは南の領地で三度目の婚約を破ったとか、ミレイユはどこかの大きな商家に嫁いで相変わらず上手に笑っているとか、そんな噂が一度だけ流れてきて、すぐに消えた。
◇
ジェラールが来たのは、劇場が開いて五年目の秋だった。
演奏会のあと、客が引けたロビーで、背の高い男が一人、壁の名前を見上げていた。
私は、すぐに分かった。
「ファブレ様」
ジェラールは振り返って、軽く頭を下げた。
五年前より、少し日に焼けていた。
「客として来ました。噂を聞いて」
「ありがとうございます」
しばらく、二人で黙って壁を見た。
銅貨一枚の名前と、金貨百枚の名前が、同じ大きさで並んでいる壁。
「賠償は、すべて受け取りました。撤回の書面も」
ジェラールが言った。
「最後の分は、去年の春に届いています。父も、もう何も言いません」
「はい」
「それを、一度、直接お伝えしようと思っていました」
私は、頭を下げた。
五年前の大広間と同じように、深く。
「ありがとうございました。そして、改めて、申し訳ありませんでした」
ジェラールは、それを受けて、うなずいた。
許す、とは言わなかった。
私も、許してほしいとは言わなかった。
それで、よかった。
「いい演奏でした」
ジェラールはそう言って、外套を羽織った。
同じ扉から、出ていった。
◇
劇場の十年目に、記念演奏会を開いた。
曲は、ずっと前から決めていた。
名古屋の大きなホールで、水城高校吹奏楽部が吹いた自由曲。
十二分の、あの曲。
楽譜は、もうこの世界のどこにもない。
だから、私が覚えている音を、一つずつ書き起こした。
三年間、毎日聴いて、毎日吹いた曲だった。
指が覚えていた。耳が覚えていた。
皆の音が、どこで鳴って、どこで重なったか。
ただ、この国の楽器では、同じには吹けない。
キーの少ない笛では出せない音がある。
ティンパニはない。銀のトランペットもない。
だから、一つずつ書き直した。
この町の楽器で、この町の人が吹ける形に。
何年もかかった。
当日の晩。
劇場は、扉の外まで人でいっぱいだった。
前の席には、遠い国から来た画商や、王都の貴族たち。
真ん中には、町の人たち。
後ろの立ち見には、パン一つの値段で入った子どもたちが、ぎっしり並んでいた。
皆、背伸びをしていた。
十年前の私の楽団に、最初に寄ってきた裸足の子たちと、同じ目をしていた。
舞台の上に、百二十人。
太鼓の列の真ん中に、ガストン親方がいる。
髪はすっかり白くなった。
それでも、槌を握る手で、ばちを握っている。
テオとルカは、並んで笛の列に座っている。
テオは布の商会を継いで、ルカは鍛冶場を継いだ。
二人で一つの譜面台を使う癖は、まだ抜けない。
そして、木管の列に、ニナがいる。
ニナは、収穫祭のあと、葦の舌をつけた低い笛を習い始めた。
今では楽団でいちばんの奏者だ。
宿屋の主人は、毎年、最前列の真ん中の席を、自分で並んで買っている。
私は、舞台の前に立った。
手には、母の形見の木の笛。
客席が、静かになった。
舞台の袖は暗い。
王国の大広間も、名古屋のホールも、こういう暗さだった。
でも今は、怖くない。
暗さの向こうに、人がいることを知っている。
息を吸った。
ロングトーンの前のように、深く。
冒頭のソロ。
一つ目の音を、置いた。
飾らない。一人で目立つための音ではない。
皆を始めるための音。
成瀬先生が、三年目の夏に教えてくれた吹き方。
ソロの旋律を、ゆっくり伸ばす。
最後の音を、空中に置いたまま、私は耳を澄ませた。
後ろから、音が入ってきた。
ニナの、低い笛。
名古屋では、ここでひかりのクラリネットが入った。
私のソロの終わりを、そっと受け取って、次へ渡す音。
あの日、舞台の上で、私は振り返らずに、その音を聴いていた。
今、聴こえているのは、ニナの音だ。
ひかりの音ではない。
でも、同じ場所で、同じように、私の音を受け取ってくれた。
太鼓が入った。
ガストン親方の太鼓。
名古屋では、莉子のティンパニだった。
曲の心臓を打つ音。
莉子は本番の前に、スティックを指で回しながら「澪のソロ、ちゃんと拾うから」と言った。
親方の太鼓は、莉子より少し重くて、少し遅い。
鍛冶場の槌と同じ間隔で、まっすぐに打つ。
その拍の上に、百二十人の音が乗った。
音が、重なっていく。
ラッパ。笛。低い笛。太鼓。
羊飼いの爺さんが教えた子どもたちのラッパ。
パン屋の娘が教えた子どもたちの笛。
誰も一人で目立とうとしていない。
皆が、隣の音を聴いている。
私の笛の音は、その中に溶けていた。
消えたのではない。
和音の中に、ちゃんと居場所があった。
十二分は、短かった。
最後の和音が、劇場の天井に上っていって、消えた。
静けさがあった。
それから、拍手が来た。
前の席の、手袋をした拍手。
真ん中の、仕事で硬くなった手の拍手。
後ろの、子どもたちの、大きすぎてばらばらの拍手。
全部が混ざって、一つの音になって、劇場を満たした。
一緒にいた証拠。
同じ扉から入って、同じ時間に、同じ音を聴いていた、という証拠。
私は笛を下ろして、客席に頭を下げた。
顔を上げると、舞台の照明の向こうに、たくさんの顔が見えた。
その中に、見えるはずのない顔を、私は探していた。
最前列で泣いている莉子。
隣でハンカチを差し出しているひかり。
客席の真ん中で、母が笑っていて、父が小さく手を振っていて、蒼太が「ねえちゃん」と口を動かしている。
もちろん、いない。
分かっている。
それでも、私は心の中で言った。
(行ってきました。ちゃんと、続けています)
拍手が、長く続いていた。
私は、もう一度だけ頭を下げて、舞台の上の皆のほうを振り返った。
ニナが笑っていた。親方が、ばちを持ったまま目をこすっていた。
明日の朝も、楽団の練習がある。
床を拭いて、ロングトーンから始める。
客席の後ろで、立ち見の子どもが一人、まだ手を叩いていた。
最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。
全十話、ここで完結です。
感想をいただけると、とても嬉しいです。




