第4話 ごめんなさいの言い方
前回の続きです。
莉子は、三日休んだ。
一日目、森先生は朝のホームルームで「高峰さんは体調不良でお休みです」とだけ言った。
誰も、何も言わなかった。言わないまま、何人かが私を見た。
美咲と奈々は、二人で固まってお弁当を食べていた。いつもの窓際ではなく、廊下側の席で。声が小さかった。グループLINEは、あの日から一度も動いていない。
二日目も、莉子の席は空いていた。
◇
音楽室は、もっとひどかった。
打楽器のパートは、もともと四人しかいない。莉子が抜けると、三人。曲の中で、スネアとシンバルを同時に鳴らす場所が、どうしても埋まらない。
合奏は、途中で止まるようになった。
打楽器を抜いて木管だけで吹くと、音は骨のない魚みたいにふにゃふにゃだった。リズムを刻むものがないと、皆が少しずつずれていく。
二日目の合奏は、十分で終わった。成瀬先生は黙って楽譜を閉じ、「今日は個人練」とだけ言った。怒鳴られるより、こたえた。
楽器をしまっていると、背中から声がかかった。
「篠宮。ちょっと来て」
水野先輩だった。
二年生のフルートのパートリーダー。背が高くて、髪を一つにきつく結んでいる。練習中に笑ったところを、私はまだ見たことがない。
先輩は、私を楽器庫の前の廊下へ連れていった。少し開いた窓から、運動部の声が流れ込んでくる。
先輩は、壁にもたれて腕を組んだ。
「教室で何があったかは、聞いた」
「……そうですか」
「最初に言っとく。篠宮のせいだけじゃない。上履きとか写真とか、高峰もひどいことしてる。悪いのは、あっちも」
私は、少しだけ肩の力を抜いた。
先輩は、続けた。
「でもね。部は、篠宮のものでも、高峰のものでもない」
先輩の目は、まっすぐだった。
「五十人いるの。三年生は、この夏が最後なの。あんたたち二人がどっちが正しいかなんて、ほかの四十八人には関係ない。でも、合奏ができないのは、四十八人全員に関係ある」
窓の外で、誰かがボールを打つ乾いた音がした。
「どうするかは、篠宮が決めて。私は、それだけ言いに来た」
先輩は壁から背中を離して、音楽室へ戻っていった。
私は、廊下に一人で残された。
◇
(どうするか、ですって)
帰り道、一人で歩きながら考えた。ひかりは塾で先に帰った。
答えは、分かっていた。
謝ればいい。
この国の人たちは、驚くほどよく謝る。廊下でぶつかれば「すみません」。プリントを落としても「ごめん」。
でも、私は謝り方を知らなかった。
王国で、謝るのは負けた者だった。頭を下げるのは、下の者が上の者に対してだけ。伯爵令嬢の私が頭を下げる相手など、いなかった。
それに、謝れば間違いを認めることになる。認めた者は、責めを負う。だから誰も、自分からは認めない。
一度目の断罪の夜、私は最後まで認めなかった。手紙の筆跡を突きつけられても、「わたくしではございません」と言った。ミレイユを罵った。扇を投げた。
謝るくらいなら、死んだほうがまし。
あの夜の私は、本気でそう思っていた。
(でも、それで、どうなったの)
坂の上で、足が止まった。どこかでお風呂を沸かすにおいがした。
◇
その夜、私は台所へ下りていった。
母は、食卓で洗濯物をたたんでいた。蒼太の体操服、父のワイシャツ、私の靴下。柔軟剤の甘いにおいがした。テレビは消えていて、時計の秒針の音だけが聞こえる。
「あれ、澪。眠れないの?」
「……少し、お話ししてもよろしいかしら」
母の手が止まった。
それから、何も言わずに、向かいの椅子を足で少し引いてくれた。
私は座った。
王国のことは言えない。だから、学校のことだけを話した。
上履きのこと。写真のこと。昼休みの教室で、私が莉子に言ったこと。莉子が学校に来ていないこと。合奏ができないこと。
母は一度も口を挟まなかった。たたみかけのタオルを膝に置いたまま、私の顔を見ていた。
話し終えると、母は、ふうっと長く息を吐いた。
「そっか」
それから、ぽつりと言った。
「澪、上履きのこと、なんですぐ言わなかったの」
「言っても、どうにもなりませんもの」
「どうにもならなくても、言ってほしかったなあ」
母は、少しだけ笑った。悲しそうな笑い方だった。
叱られると思っていた。あるいは、莉子を責めると思っていた。母は、どちらもしなかった。
「で、澪は、どうしたいの」
「……謝るべきだとは、分かっております」
「うん」
「でも、わたくし、謝り方が分からないのです」
声が、思ったより小さくなった。
「謝ったら、負けを認めることになります。先に手を出したのはあちらなのに。わたくしが頭を下げたら、あちらが正しかったことになってしまう」
母は、タオルを一枚取って、角をそろえてたたんだ。
「あのね、澪」
「はい」
「謝るのはね、勝ち負けじゃないの」
母は、たたんだタオルを、重ねたタオルの山の上にぽんと置いた。
「自分のしたことを、自分で持つこと。それだけ」
「……自分で、持つ」
「そう。高峰さんが何をしたかは、高峰さんが持つもの。澪が何をしたかは、澪が持つもの。人の荷物まで一緒に持たなくていいし、自分の荷物を人に押しつけてもだめ」
母は、指を一本立てた。
「一つ。自分が何をしたか」
二本目。
「二つ。それで、誰を傷つけたか」
三本目。
「三つ。これから、どうするか」
母は、立てた三本の指を、私の目の前で軽く振った。
「この三つを、自分の口で言う。で、そのあとに『でも』をつけない」
「でも、とは」
「『ごめんね、でもそっちも悪かったよね』の『でも』。『ごめんね、でもそんなつもりじゃなかったの』の『でも』」
母は、ちょっと顔をしかめてみせた。
「『でも』から後ろは、ぜーんぶ、自分を守るための言葉なの。相手のための言葉じゃない。だから、言わない」
私は、黙って母の指を見ていた。
荒れた指だった。スーパーで一日、段ボールを開けている指。人差し指の横に、絆創膏が一枚。
王国の母の指は、白くて細くて、いつも指輪をしていた。その指は、私が幼いうちに冷たくなった。母に、こんなふうに何かを教わったことは、一度もない。
「……それで、許していただけなかったら」
「それは、高峰さんが決めること」
母は、あっさり言った。
「許してもらうために謝るんじゃないよ。自分のしたことを、ちゃんと自分で持つために謝るの。許すかどうかは、相手のもの。そこまで取っちゃだめ」
時計の秒針が、こつ、こつと鳴っていた。
「澪の人生なんだからさ」
母は、いつもの口ぐせを言って、笑った。
「どうするかは、澪が決めな。お母さんは、どっちでも澪の味方」
私は、うなずいた。
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。だから、たたみかけの洗濯物を一枚取って、母の真似をして角をそろえた。
うまくそろわなかった。
母は、それを見て、また笑った。
◇
翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。
まだ外は薄青かった。喉が渇いて、台所へ下りた。
台所の明かりがついていた。
じゅう、と音がした。卵の焼けるにおい。甘い、だしと砂糖のにおい。
ガスコンロの前に、父が立っていた。
ワイシャツの上に、母のエプロンをつけている。花柄の、少し小さいエプロン。手には、四角い小さなフライパン。
父は、菜箸で薄い卵をくるくると巻いていた。空いたところに油を引いて、また卵液を流す。じゅう。それをまた巻く。
私に気づいて、父が振り向いた。
「……おはよう」
「おはよう、ございます」
父は、それだけ言って、また前を向いた。
調理台の上に、弁当箱が三つ並んでいた。父の、大きくて黒いの。蒼太の、ロボットの絵のついたの。それから、私の、薄い水色の。
ご飯が詰めてあって、端が空いている。そこに、卵焼きが入るのだ。
「お父様が、焼いていらしたのですか」
父の手が、一瞬止まった。
「お父様」
小さく繰り返して、父は少しだけ口の端を上げた。それから、うなずいた。
「……毎朝?」
「うん」
「お母様では、なく」
「母さんは、夜までパートだから。朝くらいは寝かせてやりたい」
父は、焼き上がった卵焼きを、まな板の上に移した。湯気が立っていた。包丁で、とん、とん、と切る。断面に、黄色い渦巻きが見えた。
父は、一番端の切れ端を、小皿に載せて、私のほうへ押した。
「味見」
私は、指でつまんで口に入れた。
熱かった。
甘くて、ふわっとしていて、少しだけしょっぱかった。
「……おいしい、です」
「そうか」
父は、残りの卵焼きを三つの弁当箱に分けていった。私のには、三切れ。
「この前、忘れてったな」
「え」
「弁当。玄関に」
あの日だ。莉子に、あの言葉を言った日。
「……申し訳ございません」
「いや」
父は、蓋を閉めながら、ぼそっと言った。
「昼に、会社で食った。二つ」
私は、何と言っていいか分からなかった。
父は弁当箱を布で包み始めた。結び目は、少しいびつだった。
王国の父、オスカー・アルンハイムは、私が何を好きで何が嫌いかを知らなかった。私に何かを焼いてくれたことも、もちろんない。そんなことは、伯爵のすることではない。
この家の父は、毎朝、誰より早く起きて、娘の弁当箱の端を埋めている。
何も言わずに。
私はそれを、今朝まで知らなかった。
◇
その朝、食卓で、蒼太がぶすっとしていた。
「カイトとけんかした」
トーストをかじりながら、蒼太は言った。
「ドッジで、おれのボールがカイトの顔に当たったの。わざとじゃないのに、わざとだろって怒って、おれのランドセル蹴ったから、おれも蹴り返した」
「あらまあ。で、どうすんの」
起きてきた母が、パジャマのままコーヒーを入れながら聞いた。蒼太は「知らない」と言って、牛乳を一気に飲んで出ていった。
夕方、蒼太は、けろっとした顔で帰ってきた。
「カイトと仲直りした」
居間で、靴下を脱ぎ捨てながら言う。
「どうやって?」
思わず、私は聞いていた。
蒼太は、きょとんとした顔で私を見た。
「普通に。朝、『ボール顔に当ててごめん。ランドセル蹴ったのもごめん』って言った」
「……それだけ?」
「うん。そしたらカイトも、『おれも蹴ってごめん』って言った。で、昼休み、またドッジした」
蒼太は、もうテレビのリモコンを探していた。
ボールを顔に当てた。ランドセルを蹴った。だから、ごめん。
カイトが先に蹴ったことは、言っていない。わざとじゃなかったことも、言っていない。
十歳の子どもが、母の言った三つを、当たり前のようにやっていた。
(わたくしは、十七にもなって)
台所から、母の鼻歌が聞こえた。
◇
三日目の放課後、私は部活を休んだ。
水野先輩に言いに行くと、先輩は私の顔を一秒だけ見て、「分かった」とだけ言った。
ひかりが、ついてきてくれた。
「高峰さんちの美容室、うちのお母さんが行ってるの。場所、知ってる」
ひかりの家とは逆方向なのに、ひかりは当たり前のように私の隣を歩いた。
商店街の端に、その店はあった。白い壁に、ガラスの扉。中に、大きな鏡が三つ並んでいる。
扉を押すと、上についた鈴が、からんと鳴った。
パーマ液の、つんとしたにおい。ドライヤーの温かい風。有線放送の、小さなピアノの音。
「いらっしゃいませー……あら、ひかりちゃん」
鏡の前で、お客の髪を切っていた女の人が振り向いた。
腰に、はさみの入った黒いホルダーを下げている。明るい茶色の髪を、後ろでざっくり留めていた。目元が、莉子にそっくりだった。
「こんにちは。あの、莉子ちゃん、いますか」
女の人の目が、ひかりから、私へ動いた。
この人は、知っているのだろうか。私が何をしたのかを。
女の人は少しの間私を見て、それから何も聞かずに、店の奥を顎で示した。
「二階。階段上がって、右の部屋。莉子ー、友達ー!」
最後のひと声は、天井に向かって大きく張り上げられた。
返事はなかった。
女の人は、私にだけ聞こえる声で言った。
「あの子、三日間ずっと部屋でドラムの練習台叩いてんの。うるさいったらないわ」
それから、お客の髪にはさみを戻した。しゃき、しゃき、と軽い音がした。
◇
狭い階段を上がった。踏むたびに、木の板がきしんだ。
右の部屋の扉の向こうから、たん、たたん、と乾いた音がしていた。ゴムの板を、スティックで叩く音だった。
ひかりが、扉を二回叩いた。
音が止まった。
「……なに」
「高峰さん、朝比奈です。あと、篠宮さんも」
長い沈黙があった。
やがて、扉が少しだけ開いた。
莉子が立っていた。灰色のパーカーに、膝の出たジャージ。髪はぼさぼさで、目のまわりが腫れていた。手に、スティックを一本握っている。
莉子は、私を見た。
その目に、怒りと、怯えが、半分ずつ混ざっていた。
あの日、教室で私が見たかったものだ。
今は、見たくなかった。
「……入れば」
莉子は、扉を開けて、背中を向けた。
狭い部屋だった。ベッドと机と、床にドラムの練習台。机の上に、空のいちごオレの紙パックが二つ。
莉子はベッドに腰かけた。ひかりは、扉の近くの床に、ちょこんと座った。
私は、立ったままでいた。
(何をしたか。誰を傷つけたか。これからどうするか)
頭の中で、母の三本の指を数えた。
それから、私は、床に膝をついた。
莉子が、驚いたように目を見開いた。
王国では、伯爵令嬢は膝をつかない。床に膝をつくのは、王の前か、神の前か、罪人だけだ。
床は、少しひんやりしていた。
私は、背筋を伸ばした。それから、頭を下げた。
長い前髪が、顔の前に落ちた。
「高峰さん」
声が、震えそうになった。息を吸った。フルートを吹く前のように、お腹の底まで。
「わたくしは、あなたを皆の前で辱めました」
部屋の中が、静かになった。
「わざとです。あなたが一番痛いと思う言い方を、探して、選んで、言いました。皆が見ている教室で。あなたが逃げられない場所で」
言葉を、一つずつ置いた。
「あなたを、傷つけました。ごめんなさい」
喉の奥で、もう一つの言葉が出かかっていた。
(でも、先にあなたが)
上履きのこと。ノートのこと。写真のこと。
私は、それを飲み込んだ。
それは、莉子が持つ荷物だ。私のものではない。
「もう二度と、あんなふうに人を刺しません。あなたにも、ほかの誰にも」
それから、もう一つだけ。
「教室で言ったことは、間違いだったと、皆さんの前でも言います。あなたが、望むなら」
私は、頭を下げたまま、待った。
階下から、ドライヤーの音がかすかに聞こえた。
許してもらえなくても、いい。
それは、莉子が決めることだ。
「……ずるい」
莉子の声だった。
顔を上げると、莉子が泣いていた。
ぼろぼろと、子どもみたいに泣いていた。パーカーの袖で、ごしごしと目をこする。
「そんなの、ずるいじゃん。先に、謝られたら、あたし、どうすればいいの」
莉子は、スティックを床に放り出した。からん、と軽い音がした。
「最初にやったの、こっちだし」
鼻をすすりながら、莉子は言った。
「上履きも、写真も。美咲たちにやらせたのも、ほんと。全部、あんたの言ったとおり。言われて、めちゃくちゃ腹立ったけど、本当のことだったから、もっと腹立った」
莉子は、ベッドの上で膝を抱えた。
「なんか、ムカついたの。あんたが」
「……わたくしが」
「地味なのに。前髪で顔隠して、猫背で、誰ともしゃべんないのに。なのに、なんか、堂々としてるんだもん。誰にも頭下げないし。わたくしとか言うし。フルートは、いきなり上手いし」
莉子は、袖で顔を覆った。
「あたし、ずっと人の顔見てんの。笑っていいか、怒っていいか、先に見ないと分かんないの。だから、あんたみたいなの、ずるいって思った。……ごめん。ほんとに、ごめん」
莉子の謝り方は、ぐちゃぐちゃだった。順番もでたらめで、半分くらい聞き取れなかった。
それでも、「でも」は、一度も入っていなかった。
ひかりが、ティッシュの箱を莉子の横に置き、私にも一枚渡した。
なぜ私に、と思った。
頬に手をやると、濡れていた。
いつから泣いていたのか、分からなかった。
莉子が、ティッシュで盛大に鼻をかんだ。ぶう、と大きな音がした。
ひかりが、ぷっと吹き出した。
莉子が「笑うなし」と言って、自分も笑った。
私も、笑ってしまった。
膝をついたまま、声を出して笑った。王国では、扇の陰で唇の端を上げることしかしなかったのに。
ひとしきり笑ったあと、莉子が、赤い目で私を見た。
「てかさ」
「はい」
「教室で言い直すとか、いいから。恥ずかしいから。絶対やめて」
「……そうですか」
「あと、もう一個」
莉子は、まだ鼻をぐずぐずいわせながら、私を指さした。
「その『わたくし』やめなよ」
「え」
「浮いてるから。まじで。お嬢様じゃないんだから」
(お嬢様、だったのだけれど)
心の中でだけ、そう答えた。
「……では、なんと申せば」
「申せばとか! そういうとこ!」
莉子が、ベッドを叩いて笑った。ひかりも、床で笑い転げていた。
私は、口の中で、小さく言ってみた。
「わ……わた、し」
舌が、もつれた。
二人が、また笑った。
◇
帰り道は、もう暗くなりかけていた。
総菜屋の前で、ひかりがコロッケを一つ買って、半分を私にくれた。熱くて、衣がさくさくしていた。
ひかりと別れて、一人で坂を上った。
膝が、まだ少しじんじんしていた。床についていたところ。
(あの夜会で)
ふと、思った。
(わたくしは、ミレイユに一度も、こう言わなかった)
あなたの婚約と評判を、わざと壊しました。手紙を三通書きました。嘘を足しました。あなたを傷つけました。ごめんなさい。
ただの一度も。
言おうと思ったことすら、なかった。
あの夜の私は、最後まで「でも」の後ろにいた。でも、あの女が先に。でも、レオナール様が。でも、わたくしは伯爵家の娘で。
ミレイユは、どんな顔をしていただろう。
泣いていた。それしか覚えていない。私は、あの子の顔を、ちゃんと見ていなかった。
言う機会は、もうないのかもしれない。
それでも。
もし、もう一度だけ、あの子の前に立つことがあったなら。
坂の上で、立ち止まった。家の台所に、明かりがついていた。
私は、ポケットの中で、指を三本、そっと折った。
◇
翌週の月曜日。
朝の音楽室に入ると、打楽器の場所に、莉子がいた。
莉子は、スネアの高さを直しながら、私を見て、スティックを一本、ひょいと上げた。
それだけだった。
それで、十分だった。
放課後の合奏。
成瀬先生がタクトを上げる。
最初の和音が鳴った瞬間、音楽室の空気が、すっと一つになった。
打楽器が、リズムを刻む。莉子のスネアが、皆の足もとに床を敷くように鳴る。木管が、その上に乗る。
私は、息を入れた。
それから、いつもと違うことをした。
自分の音を、前に飛ばさなかった。
右隣を、聴いた。
クラリネットの席。ひかりの音。少しかすれた、柔らかい音。ひかりは、私の三度下の音を吹いていた。
私は、その音に、自分の音を寄せた。
ほんの少しだけ、息を細くした。ほんの少しだけ、音程を下げた。
すると、二つの音が、溶けた。
私の音が、消えたのではなかった。ひかりの音の上に、ちゃんと私の音があった。その下にホルンがいて、チューバがいて、一番下で莉子のバスドラムが心臓みたいに鳴っていた。
和音の中に、私の居場所があった。
一人で吹いて、拍手をもらうのとは違う。もっと静かで、もっと温かい。
(これが、隣の音を聴く、ということ)
曲の終わりまで、誰も止められなかった。
最後の和音が、音楽室の天井に吸い込まれて、消えた。
成瀬先生は、タクトを下ろして、しばらく黙っていた。
「……うん。次、頭から。今のを、忘れるな」
誰かが、小さく「よし」と言った。フルートの隣の一年の子が、ちらりと私を見て、椅子をほんの数センチ、こちらへ戻した。
◇
部活の帰り。
昇降口で上履きを脱いでいると、隣に莉子が来た。下駄箱二つ分、隣。かかとにピンクのタグのついたローファーを、ぽいと床に落とす。
靴を履きながら、莉子が私の顔をじっと見た。
正確には、私の顔の、少し上を。
「ねえ」
「なに……かしら」
莉子は、自分の前髪を指でつまんで、はさみの形にした二本の指で、ちょきん、と切る真似をした。
「その前髪、切らせてくれない?」
お読みいただきまして、ありがとうございました。
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次回は「第5話 前髪と定期演奏会」です。




