第3話 やり返すのは得意です
前回の続きです。
上履きの中に詰められていたのは、丸めた数学のプリントだった。
広げると、裏に油性ペンで大きく書いてある。
「お嬢様(笑)」
(……字が汚いわね)
最初に思ったのは、それだった。王国の侍女見習いでも、もう少しまともな字を書く。
私はプリントを四つに折って、鞄の内ポケットにしまった。捨てはしない。こういうものは、取っておくに限る。
上履きに足を入れると、つま先に紙の切れ端が残っていて、かさりと鳴った。
朝の昇降口は、靴底のゴムと、ゆうべの雨の残りのにおいがする。下駄箱の小さな扉が、あちこちでばたん、ばたんと閉まる。
誰も私を見ていない。
見ていないふりを、しているのかもしれない。
◇
それから、一日に一つずつ、何かが起きた。
次の日。体育から戻ると、机に置いたはずの国語のノートが床に落ちていた。表紙に、上履きの靴あとが一つ、くっきりと。
その次の日。筆箱の消しゴムが、半分に切られていた。妙にまっすぐな切り口だった。
そして、その次の日の昼休み。スカートのポケットで、スマホが震えた。
この体の指は、スマホの扱いを覚えている。私は覚えていないのに、親指が勝手に緑色の画面を開く。
クラスのグループLINE。「1年2組」。四十人近くが入っている部屋だ。
写真が一枚、上がっていた。
昇降口。下駄箱の前にしゃがみ込んだ女子の背中。丸まった背骨。前に垂れた長い髪。上履きを片手に持って、中をのぞき込んでいる。
私だった。
上履きにプリントが詰められていた、あの朝の私。
写真の下に、短い文字。
「お嬢様、本日も優雅な朝(笑)」
送ったのは美咲だった。すぐに奈々が、腹を抱えて笑う猫の絵を貼った。誰かが「www」とだけ打ち、また別の誰かが、それに小さな親指の絵をつけた。
既読の数字が、見ている間に増えていく。十二。十八。二十五。
教室のあちこちで、何人かが同時にスマホを見た。それから、ちらりと私を見た。
窓際の一番後ろで、高峰莉子が机に腰かけて、紙パックのいちごオレを吸っていた。両側に、美咲と奈々。
莉子はこちらを見なかった。見ないまま、ストローを噛んで、何か言った。美咲が手を叩いて笑った。
私は画面を消した。
隣の席で、朝比奈ひかりがお弁当のふたを半分開けたまま固まっていた。
「篠宮さん、あの、今の……」
「見ましたわ」
「先生に、言ったほうが」
「その必要はございません」
自分の声が、いつもより低いのが分かった。ひかりが、ぱちりとまばたきをした。
落ち込んではいなかった。泣きたくもなかった。
胸の底に、懐かしい熱があった。
(このわたくしに)
王国で、私をこんなふうに笑った令嬢は一人だけいた。十三の年の茶会で、私の髪飾りを「古くさい」と言った子爵家の娘。
私はその場で、にこやかに言った。彼女のドレスが、去年の型の仕立て直しであることを。全員に聞こえる声で。
その娘は、次の茶会から呼ばれなくなった。
言葉は刃だ。
どこに刺せば一番深く入るか、私は知っている。相手の顔をよく見て、その人が一番隠したいものを見つけて、そこへ。
その感覚が、指の先まで戻ってきていた。
(高峰莉子。あなた、相手を間違えたわね)
◇
その日、私はお弁当を家に忘れていた。
玄関の靴箱の上に置いたまま、出てきてしまったのだ。気づいたのは三時間目の終わりで、ひかりが「じゃあ購買行こ。わたしも行きたかったし」と言った。
ひかりは自分のお弁当を持っているのに、購買にも行きたいらしい。
購買は、一階の渡り廊下の端にある。長机が二つ。白い三角巾のおばさんが二人。机の上には、ビニールに包まれたパンがぎっしり並んでいた。焼きそばパン。コロッケパン。メロンパン。カレーパン。揚げ油と、甘いパン生地のにおい。
その前に、紺色の背中がずらりと並んでいた。列は渡り廊下を折れて、昇降口のほうまで続いている。
私は、列の横を歩いた。
ひかりが「え、篠宮さん」と小さく言ったのは聞こえていた。
伯爵家の娘は、並ばない。仕立屋でも菓子屋でも、私が入れば店の主人が飛んできた。先にいた客は、黙って脇へ寄った。それが当たり前で、誰も疑わなかった。
私は長机の前に立ち、メロンパンに手を伸ばした。
「あのー」
後ろから声がした。
振り向くと、坊主頭の男子が立っていた。ジャージの上着を腰に巻いている。上級生か同級生かも分からない。
「並んでくださーい」
言い方は、怒っているのではなかった。ごく普通の、当たり前のことを言う声だった。
列の何人かが、くすっと笑った。
私は、男子の顔を見た。怯えがない。私が何者かを、知らないし、気にもしていない。
当然だ。私は彼と同じ紺の服を着ている。袖口に家紋もない。髪に宝石もない。私が伯爵家の娘だと示すものは、この体のどこにもない。
いや、そもそも、ここでは伯爵家の娘ではない。
顔が熱くなった。腹が立った。誰に対してなのかは、よく分からなかった。
「……失礼いたしました」
私は列の一番後ろまで歩いた。渡り廊下を折れて、昇降口の手前まで。ひかりが小走りでついてきて、私の後ろに並んだ。
「篠宮さん、購買はじめて?」
「ええ」
「そっかあ。わたしも最初、どこが最後か分かんなかった」
列は、のろのろ進んだ。前の女子二人が、昨日のテレビの話をしている。
私の番が来たとき、メロンパンはもうなかった。焼きそばパンも、コロッケパンもない。残っていたのは、ジャムとマーガリンを挟んだ細長いパンが三つだけ。
「これを、一つ」
「はい、百二十円ね」
財布から硬貨を出す。百円玉と、十円玉が二枚。おばさんは手のひらで受け取り、パンを渡して言った。
「はい、ありがとね」
さっきの坊主頭の男子にも、同じ声で、同じことを言っていた。私の前の女子にも。
(同じ言葉なのね。誰にでも)
教室に戻って、パンの袋を開けた。ひかりは自分のお弁当とは別に、カレーパンを買っていた。
ジャムのパンは、拍子抜けするほど素朴な味だった。甘くて、少しだけ酸っぱい。
悪くは、なかった。
◇
窓際の後ろから、美咲の声が聞こえたのは、パンを半分ほど食べたころだった。
「てかさ、お嬢様、購買で割り込もうとしたらしいよ」
「うそ、まじで?」
奈々が大げさに声を上げる。
「まじまじ。三組の子が見てたって。『並んでくださーい』って言われてんの。ウケる」
「えー、やめなよ美咲。かわいそうじゃん」
莉子の声だった。
かわいそう、と言いながら、声が笑っていた。言いながら、美咲の顔を見て、それから奈々の顔を見て、二人が笑ったのを確かめてから、自分も笑った。
私は、それを見ていた。
この数日、ずっと見ていた。
パンの袋を、きちんと四つに折りたたんだ。机の端に置いた。
それから立ち上がった。
椅子の脚が床をこする音が、思ったより大きく響いた。教室の話し声が、ひとつ、またひとつと途切れていく。
窓際まで歩いた。上履きの底が、床にぺたぺたと鳴った。
莉子の前で止まる。
「高峰さん」
莉子は机に腰かけたまま、私を見上げた。紙パックのストローをくわえたまま。
「……なに」
「少し、お話がございますの。いいえ、場所を変える必要はございませんわ。皆さまにも聞いていただいたほうが、早いでしょうから」
教室が、しんとした。
誰かのスマホが、机の上で一度だけ震えた。
「三日前の朝、あなたはわたくしに聞こえる声で、こうおっしゃいました。『陰で悪口言う人、ほんと無理』と」
莉子の眉が、ぴくりと動いた。
「その日の放課後、あなたは音楽室の前の廊下で、美咲さんと一緒に、わたくしの歩き方を真似ておられましたわね。背中を丸めて、こう」
私は、ほんの少しだけ背を丸めて見せた。
誰かが、ぷっと吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。
「陰で言うのがお嫌いなのは、よく分かりました。ですから、わたくしは正面から申し上げております」
「は? なにそれ。きもっ」
莉子が笑った。笑ったけれど、目が笑っていなかった。
「次に。わたくしのノートが床に落ちていた日、体育の着替えから最後に教室へ戻ったのは、奈々さんと美咲さんでした。廊下側の席の方は、ご覧になっていたはずですわ」
廊下側の何人かが、目をそらした。
「消しゴムの日は、美咲さんが教室の前の扉に立っていらした。どなたかが来ないか、見ていらしたのでしょう」
美咲の顔が、さっと赤くなった。
「でも、どちらの日も、高峰さんはその場にいらっしゃらなかった」
「だから何? あたし、関係ないじゃん」
「ええ。そう見えるように、なさっているのね」
私は、ポケットからスマホを出した。グループLINEの写真を開いて、莉子に向けた。
「この写真が送られたのは、今日の昼。送ったのは美咲さん。でも写っているのは、上履きにプリントを詰められた、あの朝のわたくしです。時刻は、七時四十分ごろ」
「……」
「あの朝、わたくしの下駄箱の二つ隣、高峰さんの棚には、もうローファーが入っていました。かかとに、ピンクのタグのついたローファーが」
莉子の顔から、すっと色が引いた。
「それなのにあなたは、あの日の朝、この教室で大きな声でおっしゃいましたわね。『寝坊して、八時過ぎに来た』と」
教室の誰かが、あ、と小さく声を出した。覚えている人がいたのだ。
「美咲さんは、毎朝八時五分のバスでいらっしゃる。いつも『バス混みすぎ』と、こぼしていらっしゃいますもの。ですから七時四十分に、昇降口でわたくしの背中を撮れたはずがない」
美咲が、莉子の顔を見た。
「では、どなたが撮ったのかしら」
誰も答えなかった。
「撮った方は、三日のあいだ、その写真をお持ちになっていた。そして今日、ご自分の名前ではなく、美咲さんに送らせた」
「ちがうし。てか、証拠とかないじゃん」
「証拠など、要りませんわ。皆さま、もうお分かりですもの」
私は、教室をゆっくり見回した。
四十人近くの顔が、こちらを見ていた。誰も、何も言わなかった。
刃は、もう入っていた。
あとは、一番奥へ押し込むだけだった。
莉子の顔を見た。何を隠しているのかを、探した。
見つけるのは、難しくなかった。この数日、ずっと見ていたのだから。
笑う前に、必ず人の顔を見る子。美咲と奈々が笑ってから、自分も笑う子。強い言葉を、いつも誰かの口から出させる子。
(あなたが一番怖いのは、それを言われることでしょう)
「高峰さん。あなたは、ご自分では何も持っていないのね」
莉子の唇が、小さく開いた。
「言葉も、手も、人のものを借りて。笑うときでさえ、先にお友達の顔を確かめてから笑う」
声は、静かなままにした。大きな声は、品がない。それに、静かなほうがよく刺さる。
「人の顔色でできた方」
教室の空気が、止まった。
刺さった、と分かった。
刃がいちばん奥まで入ったときの、あの手応え。王国の茶会で、何度も味わったもの。
莉子の目が、みるみる赤くなった。
いちごオレの紙パックが、手の中でぐしゃりとつぶれた。ピンク色の液が、指の間から一滴こぼれた。
莉子は机から下りた。椅子にぶつかって、椅子が大きな音を立てて倒れた。
それきり何も言わずに、教室を飛び出していった。
足音が、廊下を遠ざかっていく。
美咲と奈々は、追いかけなかった。
二人とも、立ち上がりかけて、やめた。互いの顔を見て、それから床を見た。
(ほら、ごらんなさい)
私は思った。
(あの子の周りにいたのは、そういう人たちなのよ)
勝った、と思った。
王国なら、ここで扇の陰から令嬢たちが寄ってくる。「さすがですわ、ヴィオレッタ様」と。
誰も、寄ってこなかった。
教室は静まり返ったままだった。それから、ひそひそと声が戻ってきた。
「……こわ」
「今のはさすがに、やりすぎじゃね」
「高峰、泣いてたよな」
誰も、私の側には来なかった。
莉子の側にも、行かなかった。
ただ、私の机のまわりだけ、すうっと人の気配が遠のいていた。怖いものを見る目が、私を見ていた。
自分の席に戻った。
ひかりが、箸を持ったまま止まっていた。お弁当の卵焼きが、箸の先で半分に割れていた。
ひかりは何も言わなかった。
私も、何も言わなかった。
倒れた椅子を、廊下側の男子が黙って起こした。
◇
五時間目、莉子は戻ってこなかった。保健室にいて、そのまま早退したと、あとで聞いた。
六時間目が終わると、担任の森先生が教室の入り口から私を呼んだ。
「篠宮さん、ちょっといい?」
国語準備室は、古い紙とインスタントコーヒーのにおいがした。
森先生は、パイプ椅子を一つ引いて、私に座るように言った。自分も座った。目の高さが同じになった。
「LINEのこと、クラスの子が知らせてくれたの」
私は黙っていた。
「上履きのことも、ノートのことも。高峰さんたちには、さっき先生から話をしました。あれは、いじめです。はっきりそう言った。篠宮さんは、何も悪くない」
「……そうですか」
それなら、話は終わりだ。
そう思って立ち上がりかけたとき、先生が言った。
「そのうえで、もう一つ、言わなきゃいけないことがあるの」
先生の声は、静かだった。叱る声ではなかった。それが、かえって居心地が悪かった。
「昼休みに篠宮さんがしたことも、人を傷つけた」
「先に仕掛けてきたのは、あちらですわ」
「うん。それはそう」
先生は、あっさりうなずいた。
「でもね、先にやられたら、何を言ってもいいってことにはならないの」
「わたくしは、嘘は一つも申しておりません」
「そうだね。たぶん全部、本当のことだったんだと思う」
先生は、机の上のボールペンを指で転がした。
「本当のことでも、人は壊れるのよ。言う場所と、言い方を選べばね」
私は、言い返そうとして、口を開けた。
言葉が、出てこなかった。
王国では、勝った者が正しかった。
言い負かした者が正しく、言い負かされた者が間違っていた。だから私は、負けないように言葉を磨いた。
ここでは、勝っても正しくならないのだろうか。
「悔しかったのは分かる。責めるために呼んだんじゃないの。知っておいてほしかっただけ」
先生は、少しだけ笑った。
「高峰さん、帰るとき、すごく泣いてたよ」
準備室の窓の外で、野球部の掛け声が聞こえていた。
◇
部活は、ひどいものだった。
音楽室に入った瞬間、空気が違った。打楽器のあたりにいた二年生の先輩と、一年の男子が、ちらりと私を見て、すぐに目をそらした。莉子の噂は、もう部にも回っていた。
莉子の座るはずの場所には、誰もいなかった。スネアドラムが一台、ぽつんと置いてある。
木管の一年生たちは、私を遠巻きにした。フルートの席に座ると、隣の一年の子が、椅子を少しだけ離した。ほんの数センチ。でも、私には分かった。
基礎合奏が始まった。
成瀬先生がタクトを上げる。ロングトーン。和音。
音が、合わなかった。
打楽器が走る。木管が遅れる。バスドラムは、何かを殴るように重かった。
私は、それに負けないように息を入れた。
フルートの音が、まっすぐ前に飛んでいった。きれいな音だった。いつも通り、きれいな音だった。
私の音だけが、ほかの音の上に浮いていた。
成瀬先生が、タクトを下ろした。
音が、ばらばらに止まった。最後に残った誰かのクラリネットが、ぷっと情けない音を立てて途切れた。
先生は、しばらく何も言わなかった。眼鏡を外して、指で目の間を押さえた。
「音が割れてる」
低い声だった。
「打楽器と木管の間に、何があったか知らん。知らんが、今のは音楽じゃない」
「隣の音を聴け。聴く気がないなら、今日はもう吹かなくていい」
先生は、私を見なかった。誰か一人を見ることはしなかった。
でも、私は知っていた。
この割れ目を作ったのが、誰なのか。
◇
帰り道は、夕焼けだった。
川沿いの道を、ひかりと並んで歩いた。土手の草が、風に揺れている。どこかの家から、揚げものの油のにおいがした。踏切の音が、遠くでかんかんと鳴っていた。
ひかりは、ずっと黙っていた。
橋の手前まで来て、ひかりがようやく口を開いた。
「篠宮さん」
「……なんですの」
「わたし、篠宮さんは正しかったと思う」
ひかりは、前を向いたまま言った。
「上履きのことも、写真のことも、ひどかったもん。わたし、なんにもできなかったし。篠宮さんが言ったこと、全部本当だったし」
「ええ」
「でも」
ひかりが、足を止めた。
夕日が、ひかりの丸い頬を橙色に染めていた。
「高峰さん、明日、来ないかも」
それだけ言って、ひかりはまた歩き出した。
責める声ではなかった。心配している声だった。たぶん、私と莉子の両方を。
私は、何も言えなかった。
◇
家に帰ると、台所からカレーのにおいがした。
「おかえりー」
母がお玉を持ったまま振り向いた。エプロンには、スーパーの名札がまだ付いたままだった。居間では、蒼太が寝転がってテレビのアニメを見ている。
「お弁当、玄関に置きっぱなしだったよ。お昼どうしたの?」
「購買で、パンを」
「そっか。あ、手洗っといで。もうすぐできるから」
私は洗面所で手を洗った。鏡の中に、長い前髪の奥から、暗い目がこちらを見ていた。
夕飯の間、母はパート先の変わったお客の話をし、蒼太は給食の揚げパンの話をした。父は黙ってカレーを食べていた。私は、半分しか食べられなかった。
食器を流しに運んだとき、母が、蛇口の水を止めて言った。
「澪」
「……はい」
「なんかあった?」
母は、私の顔をのぞき込んでいた。笑っていなかった。でも、怖い顔でもなかった。
「何も、ございませんわ」
「そっか」
母は、それ以上聞かなかった。
「言いたくなったら、言いな。いつでもいいから」
そう言って、また蛇口をひねった。水の音が、台所に戻ってきた。
◇
夜。布団の中で、天井を見ていた。
豆電球が、橙色の小さな点になって光っている。ときどき車が通り、カーテンの隙間から光が天井をなでていく。
目を閉じると、莉子の顔が浮かんだ。
赤くなった目。つぶれた紙パック。指の間からこぼれた、ピンク色の一滴。
もう一つの顔が、そこに重なった。
ミレイユ・ロシェ。
卒業夜会の大広間。シャンデリアの下で、あの子は泣いていた。私の書いた手紙が、皆の前で読み上げられたとき。
あのとき私は、あの涙を嘘だと思った。上手な涙だと、心の中で笑った。
でも。
今日の莉子の涙は、嘘ではなかった。私は、それを知っている。私の言葉が、それを流させたのだから。
(あなたはご自分では何も持っていないのね)
自分の声が、耳の奥で鳴った。
(言葉も、手も、人のものを借りて)
ふと、息が止まった。
私は、ミレイユに何をしただろう。
ジェラールの家へ、手紙を三通送った。名前を書かずに。自分の手ではなく、封筒に語らせた。
茶会で、噂を流した。自分の口からではなく、扇の陰で、ほかの令嬢たちの口に乗せて。
人の口を借りたのは、私だった。
それから、今日と同じように、相手が一番痛いところを探した。
ミレイユが一番大事にしていたもの。婚約と、評判。私は、そこへ刃を入れた。本当のことに、嘘を足して。どこに刺せば、一番深く入るかを考えて。
今日、莉子にしたのと、同じやり方で。
莉子の顔を見て、隠しているものを探していたとき、私は少しも迷わなかった。手が覚えていたのだ。
あの手応えを、私は「勝った」と呼んでいた。
布団の中で、膝を抱えた。
胸の奥が、きしんだ。
断罪の夜も、修道院へ向かう馬車の中でも、こんなふうには痛まなかった。あのときの私は、ずっと怒っていた。
(あの女が先に、わたくしの婚約者に手を出したのだもの)
そう思っていた。今も、それが嘘だとは思わない。
でも、今日、莉子が先に手を出したからといって、私の言葉が莉子を傷つけなかったことにはならない。森先生は、そう言った。
だとしたら。
ミレイユが先に何をしていたとしても、私が彼女を壊したことは、消えないのではないか。
豆電球の橙色が、にじんで見えた。
窓の外で、また車が通った。光が天井をなでて、消えた。
私は、自分が王国で何をしたのかを、初めて、痛いと思った。
◇
翌朝。
教室の窓際、一番後ろ。
莉子の席は、空いていた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
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次回は「第4話 ごめんなさいの言い方」です。




