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3/10

第3話 やり返すのは得意です

前回の続きです。

上履きの中に詰められていたのは、丸めた数学のプリントだった。


広げると、裏に油性ペンで大きく書いてある。


「お嬢様(笑)」


(……字が汚いわね)


最初に思ったのは、それだった。王国の侍女見習いでも、もう少しまともな字を書く。


私はプリントを四つに折って、鞄の内ポケットにしまった。捨てはしない。こういうものは、取っておくに限る。


上履きに足を入れると、つま先に紙の切れ端が残っていて、かさりと鳴った。


朝の昇降口は、靴底のゴムと、ゆうべの雨の残りのにおいがする。下駄箱の小さな扉が、あちこちでばたん、ばたんと閉まる。


誰も私を見ていない。


見ていないふりを、しているのかもしれない。


◇


それから、一日に一つずつ、何かが起きた。


次の日。体育から戻ると、机に置いたはずの国語のノートが床に落ちていた。表紙に、上履きの靴あとが一つ、くっきりと。


その次の日。筆箱の消しゴムが、半分に切られていた。妙にまっすぐな切り口だった。


そして、その次の日の昼休み。スカートのポケットで、スマホが震えた。


この体の指は、スマホの扱いを覚えている。私は覚えていないのに、親指が勝手に緑色の画面を開く。


クラスのグループLINE。「1年2組」。四十人近くが入っている部屋だ。


写真が一枚、上がっていた。


昇降口。下駄箱の前にしゃがみ込んだ女子の背中。丸まった背骨。前に垂れた長い髪。上履きを片手に持って、中をのぞき込んでいる。


私だった。


上履きにプリントが詰められていた、あの朝の私。


写真の下に、短い文字。


「お嬢様、本日も優雅な朝(笑)」


送ったのは美咲だった。すぐに奈々が、腹を抱えて笑う猫の絵を貼った。誰かが「www」とだけ打ち、また別の誰かが、それに小さな親指の絵をつけた。


既読の数字が、見ている間に増えていく。十二。十八。二十五。


教室のあちこちで、何人かが同時にスマホを見た。それから、ちらりと私を見た。


窓際の一番後ろで、高峰莉子が机に腰かけて、紙パックのいちごオレを吸っていた。両側に、美咲と奈々。


莉子はこちらを見なかった。見ないまま、ストローを噛んで、何か言った。美咲が手を叩いて笑った。


私は画面を消した。


隣の席で、朝比奈ひかりがお弁当のふたを半分開けたまま固まっていた。


「篠宮さん、あの、今の……」


「見ましたわ」


「先生に、言ったほうが」


「その必要はございません」


自分の声が、いつもより低いのが分かった。ひかりが、ぱちりとまばたきをした。


落ち込んではいなかった。泣きたくもなかった。


胸の底に、懐かしい熱があった。


(このわたくしに)


王国で、私をこんなふうに笑った令嬢は一人だけいた。十三の年の茶会で、私の髪飾りを「古くさい」と言った子爵家の娘。


私はその場で、にこやかに言った。彼女のドレスが、去年の型の仕立て直しであることを。全員に聞こえる声で。


その娘は、次の茶会から呼ばれなくなった。


言葉は刃だ。


どこに刺せば一番深く入るか、私は知っている。相手の顔をよく見て、その人が一番隠したいものを見つけて、そこへ。


その感覚が、指の先まで戻ってきていた。


(高峰莉子。あなた、相手を間違えたわね)


◇


その日、私はお弁当を家に忘れていた。


玄関の靴箱の上に置いたまま、出てきてしまったのだ。気づいたのは三時間目の終わりで、ひかりが「じゃあ購買行こ。わたしも行きたかったし」と言った。


ひかりは自分のお弁当を持っているのに、購買にも行きたいらしい。


購買は、一階の渡り廊下の端にある。長机が二つ。白い三角巾のおばさんが二人。机の上には、ビニールに包まれたパンがぎっしり並んでいた。焼きそばパン。コロッケパン。メロンパン。カレーパン。揚げ油と、甘いパン生地のにおい。


その前に、紺色の背中がずらりと並んでいた。列は渡り廊下を折れて、昇降口のほうまで続いている。


私は、列の横を歩いた。


ひかりが「え、篠宮さん」と小さく言ったのは聞こえていた。


伯爵家の娘は、並ばない。仕立屋でも菓子屋でも、私が入れば店の主人が飛んできた。先にいた客は、黙って脇へ寄った。それが当たり前で、誰も疑わなかった。


私は長机の前に立ち、メロンパンに手を伸ばした。


「あのー」


後ろから声がした。


振り向くと、坊主頭の男子が立っていた。ジャージの上着を腰に巻いている。上級生か同級生かも分からない。


「並んでくださーい」


言い方は、怒っているのではなかった。ごく普通の、当たり前のことを言う声だった。


列の何人かが、くすっと笑った。


私は、男子の顔を見た。怯えがない。私が何者かを、知らないし、気にもしていない。


当然だ。私は彼と同じ紺の服を着ている。袖口に家紋もない。髪に宝石もない。私が伯爵家の娘だと示すものは、この体のどこにもない。


いや、そもそも、ここでは伯爵家の娘ではない。


顔が熱くなった。腹が立った。誰に対してなのかは、よく分からなかった。


「……失礼いたしました」


私は列の一番後ろまで歩いた。渡り廊下を折れて、昇降口の手前まで。ひかりが小走りでついてきて、私の後ろに並んだ。


「篠宮さん、購買はじめて?」


「ええ」


「そっかあ。わたしも最初、どこが最後か分かんなかった」


列は、のろのろ進んだ。前の女子二人が、昨日のテレビの話をしている。


私の番が来たとき、メロンパンはもうなかった。焼きそばパンも、コロッケパンもない。残っていたのは、ジャムとマーガリンを挟んだ細長いパンが三つだけ。


「これを、一つ」


「はい、百二十円ね」


財布から硬貨を出す。百円玉と、十円玉が二枚。おばさんは手のひらで受け取り、パンを渡して言った。


「はい、ありがとね」


さっきの坊主頭の男子にも、同じ声で、同じことを言っていた。私の前の女子にも。


(同じ言葉なのね。誰にでも)


教室に戻って、パンの袋を開けた。ひかりは自分のお弁当とは別に、カレーパンを買っていた。


ジャムのパンは、拍子抜けするほど素朴な味だった。甘くて、少しだけ酸っぱい。


悪くは、なかった。


◇


窓際の後ろから、美咲の声が聞こえたのは、パンを半分ほど食べたころだった。


「てかさ、お嬢様、購買で割り込もうとしたらしいよ」


「うそ、まじで?」


奈々が大げさに声を上げる。


「まじまじ。三組の子が見てたって。『並んでくださーい』って言われてんの。ウケる」


「えー、やめなよ美咲。かわいそうじゃん」


莉子の声だった。


かわいそう、と言いながら、声が笑っていた。言いながら、美咲の顔を見て、それから奈々の顔を見て、二人が笑ったのを確かめてから、自分も笑った。


私は、それを見ていた。


この数日、ずっと見ていた。


パンの袋を、きちんと四つに折りたたんだ。机の端に置いた。


それから立ち上がった。


椅子の脚が床をこする音が、思ったより大きく響いた。教室の話し声が、ひとつ、またひとつと途切れていく。


窓際まで歩いた。上履きの底が、床にぺたぺたと鳴った。


莉子の前で止まる。


「高峰さん」


莉子は机に腰かけたまま、私を見上げた。紙パックのストローをくわえたまま。


「……なに」


「少し、お話がございますの。いいえ、場所を変える必要はございませんわ。皆さまにも聞いていただいたほうが、早いでしょうから」


教室が、しんとした。


誰かのスマホが、机の上で一度だけ震えた。


「三日前の朝、あなたはわたくしに聞こえる声で、こうおっしゃいました。『陰で悪口言う人、ほんと無理』と」


莉子の眉が、ぴくりと動いた。


「その日の放課後、あなたは音楽室の前の廊下で、美咲さんと一緒に、わたくしの歩き方を真似ておられましたわね。背中を丸めて、こう」


私は、ほんの少しだけ背を丸めて見せた。


誰かが、ぷっと吹き出しかけて、慌てて口を押さえた。


「陰で言うのがお嫌いなのは、よく分かりました。ですから、わたくしは正面から申し上げております」


「は? なにそれ。きもっ」


莉子が笑った。笑ったけれど、目が笑っていなかった。


「次に。わたくしのノートが床に落ちていた日、体育の着替えから最後に教室へ戻ったのは、奈々さんと美咲さんでした。廊下側の席の方は、ご覧になっていたはずですわ」


廊下側の何人かが、目をそらした。


「消しゴムの日は、美咲さんが教室の前の扉に立っていらした。どなたかが来ないか、見ていらしたのでしょう」


美咲の顔が、さっと赤くなった。


「でも、どちらの日も、高峰さんはその場にいらっしゃらなかった」


「だから何? あたし、関係ないじゃん」


「ええ。そう見えるように、なさっているのね」


私は、ポケットからスマホを出した。グループLINEの写真を開いて、莉子に向けた。


「この写真が送られたのは、今日の昼。送ったのは美咲さん。でも写っているのは、上履きにプリントを詰められた、あの朝のわたくしです。時刻は、七時四十分ごろ」


「……」


「あの朝、わたくしの下駄箱の二つ隣、高峰さんの棚には、もうローファーが入っていました。かかとに、ピンクのタグのついたローファーが」


莉子の顔から、すっと色が引いた。


「それなのにあなたは、あの日の朝、この教室で大きな声でおっしゃいましたわね。『寝坊して、八時過ぎに来た』と」


教室の誰かが、あ、と小さく声を出した。覚えている人がいたのだ。


「美咲さんは、毎朝八時五分のバスでいらっしゃる。いつも『バス混みすぎ』と、こぼしていらっしゃいますもの。ですから七時四十分に、昇降口でわたくしの背中を撮れたはずがない」


美咲が、莉子の顔を見た。


「では、どなたが撮ったのかしら」


誰も答えなかった。


「撮った方は、三日のあいだ、その写真をお持ちになっていた。そして今日、ご自分の名前ではなく、美咲さんに送らせた」


「ちがうし。てか、証拠とかないじゃん」


「証拠など、要りませんわ。皆さま、もうお分かりですもの」


私は、教室をゆっくり見回した。


四十人近くの顔が、こちらを見ていた。誰も、何も言わなかった。


刃は、もう入っていた。


あとは、一番奥へ押し込むだけだった。


莉子の顔を見た。何を隠しているのかを、探した。


見つけるのは、難しくなかった。この数日、ずっと見ていたのだから。


笑う前に、必ず人の顔を見る子。美咲と奈々が笑ってから、自分も笑う子。強い言葉を、いつも誰かの口から出させる子。


(あなたが一番怖いのは、それを言われることでしょう)


「高峰さん。あなたは、ご自分では何も持っていないのね」


莉子の唇が、小さく開いた。


「言葉も、手も、人のものを借りて。笑うときでさえ、先にお友達の顔を確かめてから笑う」


声は、静かなままにした。大きな声は、品がない。それに、静かなほうがよく刺さる。


「人の顔色でできた方」


教室の空気が、止まった。


刺さった、と分かった。


刃がいちばん奥まで入ったときの、あの手応え。王国の茶会で、何度も味わったもの。


莉子の目が、みるみる赤くなった。


いちごオレの紙パックが、手の中でぐしゃりとつぶれた。ピンク色の液が、指の間から一滴こぼれた。


莉子は机から下りた。椅子にぶつかって、椅子が大きな音を立てて倒れた。


それきり何も言わずに、教室を飛び出していった。


足音が、廊下を遠ざかっていく。


美咲と奈々は、追いかけなかった。


二人とも、立ち上がりかけて、やめた。互いの顔を見て、それから床を見た。


(ほら、ごらんなさい)


私は思った。


(あの子の周りにいたのは、そういう人たちなのよ)


勝った、と思った。


王国なら、ここで扇の陰から令嬢たちが寄ってくる。「さすがですわ、ヴィオレッタ様」と。


誰も、寄ってこなかった。


教室は静まり返ったままだった。それから、ひそひそと声が戻ってきた。


「……こわ」


「今のはさすがに、やりすぎじゃね」


「高峰、泣いてたよな」


誰も、私の側には来なかった。


莉子の側にも、行かなかった。


ただ、私の机のまわりだけ、すうっと人の気配が遠のいていた。怖いものを見る目が、私を見ていた。


自分の席に戻った。


ひかりが、箸を持ったまま止まっていた。お弁当の卵焼きが、箸の先で半分に割れていた。


ひかりは何も言わなかった。


私も、何も言わなかった。


倒れた椅子を、廊下側の男子が黙って起こした。


◇


五時間目、莉子は戻ってこなかった。保健室にいて、そのまま早退したと、あとで聞いた。


六時間目が終わると、担任の森先生が教室の入り口から私を呼んだ。


「篠宮さん、ちょっといい?」


国語準備室は、古い紙とインスタントコーヒーのにおいがした。


森先生は、パイプ椅子を一つ引いて、私に座るように言った。自分も座った。目の高さが同じになった。


「LINEのこと、クラスの子が知らせてくれたの」


私は黙っていた。


「上履きのことも、ノートのことも。高峰さんたちには、さっき先生から話をしました。あれは、いじめです。はっきりそう言った。篠宮さんは、何も悪くない」


「……そうですか」


それなら、話は終わりだ。


そう思って立ち上がりかけたとき、先生が言った。


「そのうえで、もう一つ、言わなきゃいけないことがあるの」


先生の声は、静かだった。叱る声ではなかった。それが、かえって居心地が悪かった。


「昼休みに篠宮さんがしたことも、人を傷つけた」


「先に仕掛けてきたのは、あちらですわ」


「うん。それはそう」


先生は、あっさりうなずいた。


「でもね、先にやられたら、何を言ってもいいってことにはならないの」


「わたくしは、嘘は一つも申しておりません」


「そうだね。たぶん全部、本当のことだったんだと思う」


先生は、机の上のボールペンを指で転がした。


「本当のことでも、人は壊れるのよ。言う場所と、言い方を選べばね」


私は、言い返そうとして、口を開けた。


言葉が、出てこなかった。


王国では、勝った者が正しかった。


言い負かした者が正しく、言い負かされた者が間違っていた。だから私は、負けないように言葉を磨いた。


ここでは、勝っても正しくならないのだろうか。


「悔しかったのは分かる。責めるために呼んだんじゃないの。知っておいてほしかっただけ」


先生は、少しだけ笑った。


「高峰さん、帰るとき、すごく泣いてたよ」


準備室の窓の外で、野球部の掛け声が聞こえていた。


◇


部活は、ひどいものだった。


音楽室に入った瞬間、空気が違った。打楽器のあたりにいた二年生の先輩と、一年の男子が、ちらりと私を見て、すぐに目をそらした。莉子の噂は、もう部にも回っていた。


莉子の座るはずの場所には、誰もいなかった。スネアドラムが一台、ぽつんと置いてある。


木管の一年生たちは、私を遠巻きにした。フルートの席に座ると、隣の一年の子が、椅子を少しだけ離した。ほんの数センチ。でも、私には分かった。


基礎合奏が始まった。


成瀬先生がタクトを上げる。ロングトーン。和音。


音が、合わなかった。


打楽器が走る。木管が遅れる。バスドラムは、何かを殴るように重かった。


私は、それに負けないように息を入れた。


フルートの音が、まっすぐ前に飛んでいった。きれいな音だった。いつも通り、きれいな音だった。


私の音だけが、ほかの音の上に浮いていた。


成瀬先生が、タクトを下ろした。


音が、ばらばらに止まった。最後に残った誰かのクラリネットが、ぷっと情けない音を立てて途切れた。


先生は、しばらく何も言わなかった。眼鏡を外して、指で目の間を押さえた。


「音が割れてる」


低い声だった。


「打楽器と木管の間に、何があったか知らん。知らんが、今のは音楽じゃない」


「隣の音を聴け。聴く気がないなら、今日はもう吹かなくていい」


先生は、私を見なかった。誰か一人を見ることはしなかった。


でも、私は知っていた。


この割れ目を作ったのが、誰なのか。


◇


帰り道は、夕焼けだった。


川沿いの道を、ひかりと並んで歩いた。土手の草が、風に揺れている。どこかの家から、揚げものの油のにおいがした。踏切の音が、遠くでかんかんと鳴っていた。


ひかりは、ずっと黙っていた。


橋の手前まで来て、ひかりがようやく口を開いた。


「篠宮さん」


「……なんですの」


「わたし、篠宮さんは正しかったと思う」


ひかりは、前を向いたまま言った。


「上履きのことも、写真のことも、ひどかったもん。わたし、なんにもできなかったし。篠宮さんが言ったこと、全部本当だったし」


「ええ」


「でも」


ひかりが、足を止めた。


夕日が、ひかりの丸い頬を橙色に染めていた。


「高峰さん、明日、来ないかも」


それだけ言って、ひかりはまた歩き出した。


責める声ではなかった。心配している声だった。たぶん、私と莉子の両方を。


私は、何も言えなかった。


◇


家に帰ると、台所からカレーのにおいがした。


「おかえりー」


母がお玉を持ったまま振り向いた。エプロンには、スーパーの名札がまだ付いたままだった。居間では、蒼太が寝転がってテレビのアニメを見ている。


「お弁当、玄関に置きっぱなしだったよ。お昼どうしたの?」


「購買で、パンを」


「そっか。あ、手洗っといで。もうすぐできるから」


私は洗面所で手を洗った。鏡の中に、長い前髪の奥から、暗い目がこちらを見ていた。


夕飯の間、母はパート先の変わったお客の話をし、蒼太は給食の揚げパンの話をした。父は黙ってカレーを食べていた。私は、半分しか食べられなかった。


食器を流しに運んだとき、母が、蛇口の水を止めて言った。


「澪」


「……はい」


「なんかあった?」


母は、私の顔をのぞき込んでいた。笑っていなかった。でも、怖い顔でもなかった。


「何も、ございませんわ」


「そっか」


母は、それ以上聞かなかった。


「言いたくなったら、言いな。いつでもいいから」


そう言って、また蛇口をひねった。水の音が、台所に戻ってきた。


◇


夜。布団の中で、天井を見ていた。


豆電球が、橙色の小さな点になって光っている。ときどき車が通り、カーテンの隙間から光が天井をなでていく。


目を閉じると、莉子の顔が浮かんだ。


赤くなった目。つぶれた紙パック。指の間からこぼれた、ピンク色の一滴。


もう一つの顔が、そこに重なった。


ミレイユ・ロシェ。


卒業夜会の大広間。シャンデリアの下で、あの子は泣いていた。私の書いた手紙が、皆の前で読み上げられたとき。


あのとき私は、あの涙を嘘だと思った。上手な涙だと、心の中で笑った。


でも。


今日の莉子の涙は、嘘ではなかった。私は、それを知っている。私の言葉が、それを流させたのだから。


(あなたはご自分では何も持っていないのね)


自分の声が、耳の奥で鳴った。


(言葉も、手も、人のものを借りて)


ふと、息が止まった。


私は、ミレイユに何をしただろう。


ジェラールの家へ、手紙を三通送った。名前を書かずに。自分の手ではなく、封筒に語らせた。


茶会で、噂を流した。自分の口からではなく、扇の陰で、ほかの令嬢たちの口に乗せて。


人の口を借りたのは、私だった。


それから、今日と同じように、相手が一番痛いところを探した。


ミレイユが一番大事にしていたもの。婚約と、評判。私は、そこへ刃を入れた。本当のことに、嘘を足して。どこに刺せば、一番深く入るかを考えて。


今日、莉子にしたのと、同じやり方で。


莉子の顔を見て、隠しているものを探していたとき、私は少しも迷わなかった。手が覚えていたのだ。


あの手応えを、私は「勝った」と呼んでいた。


布団の中で、膝を抱えた。


胸の奥が、きしんだ。


断罪の夜も、修道院へ向かう馬車の中でも、こんなふうには痛まなかった。あのときの私は、ずっと怒っていた。


(あの女が先に、わたくしの婚約者に手を出したのだもの)


そう思っていた。今も、それが嘘だとは思わない。


でも、今日、莉子が先に手を出したからといって、私の言葉が莉子を傷つけなかったことにはならない。森先生は、そう言った。


だとしたら。


ミレイユが先に何をしていたとしても、私が彼女を壊したことは、消えないのではないか。


豆電球の橙色が、にじんで見えた。


窓の外で、また車が通った。光が天井をなでて、消えた。


私は、自分が王国で何をしたのかを、初めて、痛いと思った。


◇


翌朝。


教室の窓際、一番後ろ。


莉子の席は、空いていた。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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次回は「第4話 ごめんなさいの言い方」です。

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