第2話 キーの多い笛
前回の続きです。
部活紹介は、入学式の三日後だった。
体育館に、また一年生が集められた。今度は椅子がなく、冷たい床に直接座らされた。
(伯爵家の娘を、床に座らせるなんて)
でも、周りは誰も気にしていない。皆、膝を抱えて平気な顔で座っている。体育座りというのだと、隣のひかりが教えてくれた。
私は膝をそろえて、かかとの上に座った。王国の礼拝堂で、祈るときの座り方だった。
「篠宮さん、正座だと足しびれるよ」
「……平気ですわ」
十分後、平気ではなくなった。
壇の上では、運動部から順に紹介が続いた。坊主頭の野球部が大声を出し、ダンス部が踊った。どれも、騒がしいだけに見えた。
「次は、吹奏楽部です」
幕が上がった。
壇の上に、紺の制服の子どもたちが、ぎっしりと並んでいた。
(多い)
五十人ほど。半円に椅子を並べて、全員が楽器を膝に置いている。金色の大きなラッパ。黒い細長い笛。とぐろを巻いたような管。奥には、太鼓がいくつも。
前に立ったのは、灰色のセーターの、四十代くらいの男の先生だった。
先生が、両手を上げた。
五十人が、一斉に楽器を構えた。
その音が、鳴った。
体育館の空気が、ぶわっと膨らんだ。
息が、止まった。
音が、床から来た。壁から来た。天井の鉄骨から降ってきた。お腹の底が震えて、肌の上を何かが走っていった。
金のラッパが高らかに鳴り、その下で太い管がうなる。細い笛たちが、その上をくるくると舞う。太鼓が、心臓の打つのと同じ速さで、全部を前へ押していく。
ひとつの曲を、五十人が、同時に吹いていた。
(こんなこと)
王国にも、楽団はあった。
けれどそれは、貴族の広間のためのものだった。王宮でも、せいぜい二十人の選ばれた大人の奏者が、宴の後ろで、話し声の邪魔にならないように弾く。主役は、いつも楽団の前の貴族たちだった。
子どもが、こんな数で、一緒に吹くことなどなかった。
しかも、この子たちは、皆が主役のような顔で吹いていた。
曲は、三分もなかったと思う。
最後の音が、天井に吸い込まれていった。
一瞬、しんとして。
それから、体育館が割れるような拍手になった。
私は、拍手をするのを忘れていた。
膝の上で、手が震えていた。しびれた足のことも、忘れていた。
「……すごかったね」
ひかりの眼鏡の奥の目が、きらきらしていた。
「私、吹奏楽部入るんだ。中学からやってたから。篠宮さんも、見学来ない?」
私は、返事ができなかった。
壇の上で、最前列の女の子が、銀色の笛を膝に下ろすのを見ていた。
◇
音楽室は、四階の端にあった。
ぶおー、ぴいー、と、ばらばらの音が廊下まであふれている。
扉を開けると、楽器の匂いがした。
金属を磨く油の匂い。古い木の床の匂い。それから、たくさんの人の息の匂い。
「見学の一年生? こっちこっち」
声をかけてきたのは、髪をきつく一つに結んだ、目つきの鋭い先輩だった。
「フルートの二年、水野です。何か希望ある?」
「あ、私はクラリネットで……」
ひかりが言うと、水野先輩は奥の一角を指さした。「クラはあっち」。ひかりは私に小さく手を振って、そちらへ行ってしまった。
水野先輩が、私を見た。
「あなたは?」
私は、体育館で見た銀の笛を思い浮かべた。
「……横笛を」
「フルートね。経験は?」
「少し」
「ふうん」
水野先輩は、窓際の机に私を連れていった。そこには、すでに三人の一年生が座っていた。皆、緊張した顔をしている。
机の上に、黒い革張りの箱が置いてあった。
先輩が留め金を外して、蓋を開けた。
中に、青い布に包まれるようにして、銀色の管が三つに分かれて収まっていた。
「これ、学校の楽器。古いけど、ちゃんと鳴るから」
先輩が管をひねりながらつなぐと、それは一本の、銀色の横笛になった。
キーが、あった。
指の当たるところに、銀色の丸い蓋が、ずらりと並んでいる。蓋の間を細い棒が走り、小さなばねがついている。小さな蓋、大きな蓋、真ん中に穴の開いた蓋、ふさがった蓋。
数えようとして、途中でやめた。十いくつもある。
(これが、横笛?)
私の笛は、木だった。
黒い木の、細い管。開いている穴が六つ。キーは、端に小さな真鍮のものが一つだけ。母が使っていたものだと、父は一度だけ言った。
それと比べると、目の前の笛は、まるで知らない機械だった。
「じゃあ、最初は頭部管だけで音出してみよっか。経験あるなら、すぐ鳴るかもだけど」
先輩が、歌口のある短い管だけを外して、私に渡した。
冷たかった。
木の笛は、手に持つとすぐに温まった。この銀は、私の手の温度を、なかなか受け取らない。
(でも、歌口は同じ)
楕円の穴。唇を当てる場所。
私は、管を下唇に当てた。
体が違う。唇の厚さも、歯並びも、息の量も違う。
それでも、私は知っていた。唇の角度。息の細さ。息を、穴の向こうの縁に当てるときの、あの感覚を。
吸った。
吐いた。
ぴいいいいい、と。
まっすぐな音が、出た。
隣の一年生が、「えっ」と声を上げた。彼女は、まだかすれた息の音しか出せていなかった。
水野先輩が、黙って私を見た。
それから、つないだままのもう一本の笛を、私に差し出した。先輩自身の楽器らしかった。
「……全部つないだので、吹いてみて。指は、何も押さえなくていい」
私は、笛を構えた。
重い。
木の笛より、ずっと重い。それに、長い。右腕を思い切り伸ばさないと、端まで届かない。
キーの上に、指を置く。どこを押さえるのか分からないから、ただ置くだけ。
息を吸う。
笛を吹く前の、いつものように、深く。お腹の底まで。
そして、吐いた。
音が、出た。
自分でも、驚いた。
木の笛とは、まるで違う音だった。もっと太くて、もっと遠くまで飛ぶ。銀の管の中で、音がぐるりと回って、外へ放たれていく。
その音が、音楽室の壁にぶつかって、跳ね返ってきた。
息が続く限り、伸ばした。
一つの音を、まっすぐに。揺らさずに。最後まで細らせずに。
息が尽きて、唇を離した。
音楽室が、止まっていた。
さっきまであちこちで鳴っていたラッパも、太鼓も、黙っていた。
皆が、こちらを見ていた。
水野先輩が、目を見開いていた。
「……え、ちょっと待って」
奥の扉が開いた。
体育館で指揮をしていた、灰色のセーターの先生だった。
先生は、まっすぐ私のところへ来た。
「今の、君か」
「……はい」
「一年?」
「はい」
先生は、私の構えた笛を見て、それから私の顔を見た。長い前髪の奥を、覗き込むように。
「どこで習った」
一瞬、言葉に詰まった。
宮廷付きの奏者に、と言えるはずがない。王国の名前を出せば、頭がおかしいと思われる。
「……家庭教師に」
それだけ、答えた。
先生は、何か言いたそうな顔をした。でも、それ以上は聞かなかった。
「顧問の成瀬だ。……君、名前は」
「篠宮澪と申します」
「篠宮。じゃあ、そのまま、ドから上のドまで、音階吹いてみてくれるか」
「はい」
私は、指をキーの上に置いた。
そして、止まった。
(……どこを、押さえればいいの)
分からなかった。
木の笛なら、指を穴の上に置けばいい。ふさぐ穴の数で、音が決まる。
でもこの笛は、穴の上に蓋がある。蓋と蓋がつながっていて、一つを押すと、別の場所の蓋も一緒に動く。左手の親指のところにも、キーがある。木の笛では、親指は笛を下から支えるだけだったのに。
とりあえず、木の笛と同じように指を置いて、息を入れた。
ぷひゅ、と変な音がした。
もう一度。
今度は、出た。でも、思っていた音と違う。半音ずれている。指を変える。また違う。
三つ目の音で、完全につっかえた。
誰かが、小さく吹き出した。
頬が、燃えた。
「……ああ、なるほど」
成瀬先生が、ぽりぽりと頭をかいた。
「家庭教師の笛は、こういうのじゃなかったんだな」
「……ええ。木の、古い型のものでしたの」
「それなら指は全然違う。最初からだ」
先生は、机の上の一枚の紙を指でとんとんと叩いた。
笛の絵が描いてあった。キーの一つ一つが丸で描かれていて、その下に、ド、レ、ミ、と音の名前。押さえるところが黒く塗りつぶしてある。
「運指表。他の一年と一緒に、これから覚えて」
隣の一年生が、気まずそうに私を見た。
さっき、かすれた息の音しか出せなかった子だ。
その子と、同じ紙を、なぞる。
(このわたくしが)
王国で、笛の腕を疑われたことは一度もなかった。父が私を褒めたのも、笛を吹いたときだけだった。それも、客の前でだけ。
その私が、ドの押さえ方から。
胸の奥が、きりきりと痛んだ。
(屈辱だわ)
でも。
私は、運指表に目を落とした。
ドは、ほとんど全部を押さえる。レは、右手の小指を、隣の別のキーへ移す。
指を置く。息を入れる。
ド。
ちゃんと、ドが出た。
さっきの長い一音より、ずっと地味な音だった。でも、それは確かに、この銀の笛で、私が初めて正しく出した音だった。
◇
その夜、私は入部届を書いた。
『入部届 吹奏楽部』
篠宮澪、と書いた。その下に、『保護者氏名』の欄があった。
台所で洗い物をしている母に、紙を差し出した。
「お母、様。これに、お名前を」
母は手を拭きながら紙を受け取り、目を丸くした。
「え、吹奏楽? 澪が?」
「……いけませんかしら」
「いけなくない、いけなくない! びっくりしただけ。中学のときは、何にも入らなかったじゃない」
そうだったのか。
母はペンを出して、さらさらと名前を書き、判子を押した。篠宮佳織。それから、私の顔を見て、にかっと笑った。
「澪がやりたいなら、やりなよ。澪の人生なんだから」
私は、紙を受け取ったまま、母を見た。
(わたくしの、人生)
王国では、私が何をするかは、父が決めた。習うものも、会う人も、嫁ぐ先も。
笛だけは許されていた。それは、伯爵家の娘の飾りになるからだった。
この人は、娘が何をするか、娘に決めさせる。
それが当たり前のような顔をして。
「……ありがとう、ございます」
「なに、かしこまって」
母は笑って、また洗い物に戻った。
蛇口から流れる水の音を聞きながら、私は、紙の上の母の字を見つめていた。
(この人の娘は、わたくしではないのに)
◇
吹奏楽部の練習は、毎日あった。
放課後、音楽室に集まって、まず楽器を組み立てる。机を後ろへ下げて、椅子を半円に並べる。譜面台を立てる。そこまでが、一年の仕事だった。
それから、基礎練習。
「ロングトーン、いくよー。四拍吸って、八拍伸ばす」
譜面台の上に、黒い小さな箱が置いてあった。メトロノームという。かち、かち、かち、と、同じ速さで鳴り続ける。
それに合わせて、一つの音を、ただ伸ばす。
吸って、伸ばして。吸って、伸ばして。同じ音を、何度も、何度も。
その横で、もう一つの機械が針を揺らしていた。チューナー。音が高すぎると針が右へ、低すぎると左へ傾く。真ん中で止まれば、正しい高さ。
(こんなもので、音を測るの)
ロングトーンは、得意だった。
私の音は、すぐに真ん中で止まった。揺れなかった。
先輩たちが、ちらちら私を見るのが分かった。
でも、そのあとの指の練習になると、私は一年生の中で一番遅かった。
木の笛の指が、勝手に出てしまう。ファを吹こうとすると、指が木の笛のファの形になる。この銀の笛では、それは違う音だった。
一度覚えたものを忘れるのは、新しく覚えるより難しかった。
「篠宮、また右の薬指」
水野先輩が、横から私の指をつついた。
「……分かっておりますわ」
「分かってたら直ってる」
ぴしゃりと言われた。
先輩は厳しかった。でも、私にだけ厳しいのではなかった。音の出ない一年生にも、同じ顔で同じことを言った。誰の娘かも関係なく、音と指だけを見ていた。
合奏の時間、一年はまだ後ろで聴くだけだった。成瀬先生は、何度も演奏を止めた。
「トランペット、今の入り、隣と合ってない。隣の音を聴け」
一日に、十回は同じことを言った。
(隣の音?)
私には、よく分からなかった。
王国で、音楽とは、一人で吹くものだった。
広間の真ん中で、私が一人で笛を吹く。客は黙って聴き、終われば手を叩く。うまく吹けば褒められ、父が満足そうにうなずく。
隣など、いなかった。
聴くべきは、自分の音だけだった。
◇
音楽室の窓から、夕日が差し込んでいた。
練習のあと、私は借りている銀の笛を布で拭いていた。管の中に細い棒を通して、息の水分を拭き取る。
キーの一つ一つに、夕日が映り込んでいた。
ふと、手が止まった。
あの日も、私は笛を抱えていた。
北の修道院へ向かう馬車の中。持っていくことを許されたものは、ほとんどなかった。着替えが少しと、祈りの本と。
それから、母の形見の横笛。
黒い木の、古い笛。
父は何も言わなかった。私の顔も見ずに、馬車の扉を閉めさせた。
雨が、ずっと屋根を叩いていた。
私は笛を布にくるんで、膝の上に抱えていた。修道院では、もう吹けないかもしれないと思いながら。
馬車が傾いたとき。
床が浮いて、体が浮いて、何もかもが斜めになったとき。
私は、とっさに、壁の取っ手をつかんだ。
笛を抱えていた手を、離して。
母の笛が、膝から転がり落ちていくのを、私は見た。
それが、最後に見たものだった。
(離したのよ、わたくしは)
自分が助かりたくて。結局、助からなかったのに。
私は、手の中の銀の笛を見下ろした。
これは、母の笛ではない。学校の、誰のものでもない笛だ。
重くて、冷たくて、指の押さえ方もまだ覚えきれない。
それでも、この笛を構えると、体が覚えていることがある。唇の角度。息の細さ。あの、音が生まれる瞬間の、震え。
一度離した笛が、形を変えて、また手の中にある。
それが少し怖くて。
少しだけ、嬉しかった。
◇
「篠宮さん、今日、掃除当番だよ」
翌日の放課後、ひかりに言われた。
「……掃除?」
「うん。教室。私たちの班、今週だから」
見ると、教室の後ろで、何人かが机を前へ運び始めていた。床に、何もない広い場所ができていく。
掃除用具の入った細長い棚から、ひかりがほうきを二本取り出した。一本を、私に差し出す。
私は、それを見つめた。
(ほうき)
使用人が持つものだった。
伯爵家の娘は、床を掃かない。床を拭かない。床がきれいなのは、誰かが見えないところで拭いているからで、その誰かを、主人が見ることはない。
「……これを、わたくしが?」
「うん。あ、嫌だった? じゃあ黒板消しのほうやる?」
ひかりは、なんの悪気もない顔で言った。
周りを見ると、男子も女子も、皆がほうきや雑巾を持っていた。だるそうな顔はしていても、誰かに押し付けたりはしていない。
この部屋を使う者が、この部屋を掃除する。
それが、ここでは当たり前らしかった。
私は、ほうきを受け取った。
握ってみた。
「あ、篠宮さん、それ逆。こっちが下」
「……知っておりますわ」
知らなかった。
ひかりはくすっと笑って、自分のほうきを構えて見せた。
「こう、上の手は軽く持って、下の手で動かす感じ。で、手前に引くの。押すと、ほこりが舞っちゃうから」
言われたとおりに、動かしてみた。
ざっ、と音がした。
床の上の、細かいほこりと、消しゴムのかすと、誰かの髪の毛が、ひとかたまりになって手前に寄ってくる。
ざっ、ざっ。
思ったより、腕が疲れた。ひかりが机の脚の間をすいすい掃いていく横で、私は何度も同じところを掃いていた。
ほこりを集めて、ちりとりに入れる。それから、雑巾がけだった。
バケツに水を汲んで、灰色の雑巾を浸して、絞る。
水が冷たかった。指先がじんとする。
絞り方も分からなかった。ひかりが、雑巾を縦に持って、両手を逆にひねるのを見せてくれた。まねをすると、残っていた水が、ぎゅっと絞り出されてバケツに落ちた。
床に膝をついた。
紺のスカートの膝が、床につく。両手で雑巾を押さえて、前へ。
教室の端から端まで、まっすぐに。
一往復しただけで、息が上がった。
(なんて、みっともない格好)
父やレオナール様が見たら、何と言うだろう。
でも、ここにいるのは、同じように床に膝をついている、同じ紺の服の子たちだけだ。
二往復。三往復。
最後に立ち上がって、腰を伸ばした。
窓から、夕日が差していた。
床が、光っていた。
くすんだ茶色だった床が、濡れて夕日を映し、つやつやと光っていた。そこに、窓枠の影が長く伸びている。
私が拭いた床だった。
(……これは)
不思議な感じがした。
この部屋が、少しだけ、私のものになったような。
昨日まで、ただ座らされていた部屋だった。笑われた部屋だった。
でも今、この床がきれいなことを、私は知っている。誰が拭いたかを、知っている。
「きれいになったねえ」
ひかりが、満足そうに言った。
「……ええ」
私は、赤くなった指先を、そっと握った。
◇
吹奏楽部には、高峰莉子もいた。
窓際の席の、八重歯の子。入学式の日、「お嬢様じゃん」とつぶやいた子。
彼女は打楽器だった。音楽室の奥の、太鼓が並ぶ一角が彼女の場所で、しかも、うまかった。
小さな太鼓を叩く棒が、目に見えないくらい速く動く。ぱらららら、と粒のそろった音が転がる。先輩たちが「莉子ちゃん、さすが経験者」と言うと、彼女は「えへへ」と笑った。
同じクラスの美咲と奈々も、莉子と一緒に入部していた。三人で、いつも笑っていた。
ときどき、奥から視線を感じた。振り向くと、目が合う前に、ぷいと逸らされた。
一度、先輩が私の音を褒めたときだった。
「篠宮さんのロングトーン、ほんときれいだよね。一年でこれって、すごくない?」
奥で、莉子の太鼓の音が、一つだけ大きく鳴った。
振り向くと、莉子は何事もなかったように、譜面を見ていた。
でも、口元が、少しだけ曲がっていた。
面白くない、という顔だった。
王国の茶会で、何度も見た顔だった。自分より目立つ誰かを見たときの、令嬢たちの顔。
(あら)
私は、心の中でだけ、笑った。
(分かりやすい方)
◇
二週間が経った。
運指表は、もう見なくてよくなっていた。
毎晩、部屋で指だけを動かした。笛はないから、鉛筆を横に持って。ド、レ、ミ、ファ。木の笛の指が出るたびに、止めて、やり直した。
指が、ようやく、新しい笛の形を覚えた。
その日、成瀬先生が言った。
「今日から、一年も合奏に入ってもらう。簡単な曲から」
配られたのは、短い行進曲だった。フルートのパートは、ほとんど旋律だった。
簡単だ。これなら、吹ける。
半円に並べた椅子の、一番前の列。水野先輩の隣に、私は座った。
後ろに、クラリネットのひかり。そのさらに後ろに金のラッパたち。奥に、莉子の太鼓。
成瀬先生が、両手を上げた。
吸って。
最初の音を、吹いた。
自分の音が、音楽室に広がった。
気持ちがよかった。
銀の笛の音は、木の笛より遠くへ飛ぶ。私の息で、この部屋の空気が震える。旋律を、きれいに、まっすぐに、誰よりも美しく。
広間で吹いていたときのように。
一人で、真ん中に立って。
曲の終わりまで、一度も間違えなかった。
先生が、手を下ろした。
音楽室が、静かになった。
私は、少し誇らしい気持ちで、先生を見た。
成瀬先生は、しばらく黙ってから言った。
「篠宮、うまい」
ほら、と思った。
「でも、一人で吹いてる」
(……え?)
「一回も外してない。でも、篠宮の音しか聞こえなかった。隣の水野も、後ろのクラも聞こえない。篠宮の音が、全部の上に乗っかってる」
先生は、少し困ったように笑った。
「それは、合奏じゃないんだ」
私は、意味が分からなかった。
うまく吹いて、何がいけないのか。
一番きれいな音を出して、何がいけないのか。
王国では、それが音楽だった。それだけが、音楽だった。
奥から、莉子の小さな声が聞こえた。
「……ほら、お嬢様だから」
美咲と奈々が、くすくす笑った。
私は、銀の笛を膝に下ろして、ぎゅっと握った。
冷たかった。
◇
翌朝。
昇降口は、いつものように騒がしかった。
壁いっぱいの靴箱の前で、皆が白い上履きに履き替える。運動靴の泥の匂いと、雨上がりの匂いが混じっていた。
私も、自分の名前の棚に手を伸ばした。
上履きを取り出そうとして、手が止まった。
重さが、違った。
上履きの中に、丸めたプリントが、ぎゅうぎゅうに詰められていた。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
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次回は「第3話 やり返すのは得意です」です。




