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第1話 入学式の体育館で

全十話で完結する話です。魔法は出ません。

本当に悪いことをした令嬢が、日本の高校で三年間フルートを吹いて、断罪の席へ戻ってくる話です。

馬車が、傾いた。


雨が窓を叩いていた。山道はぬかるみ、車輪が泥を噛む音がずっと続いていた。

その音が、ふっと消えた。

床が斜めになる。体が浮く。膝の上の笛を、私は――


「――以上をもちまして、式辞といたします」


ぱちぱちぱち、と乾いた音がした。

拍手だった。


私は、硬い椅子に座っていた。


(……え?)


背もたれの冷たさが、背中に当たっている。鉄の脚の、折りたたみの椅子。それが何百も、まっすぐに並んでいる。

高い天井。白い鉄骨が組まれ、ところどころに丸い網のようなものが引っかかっている。床は板張りで、ニスの匂いがした。それから、知らない誰かの整髪料の匂い。湿ったほこりの匂い。


前のほうの壇の上で、白髪の男が頭を下げていた。

壇の横には花が飾ってある。紅白の幕が壁を覆っている。


(ここは、どこ)


両隣に、知らない顔が座っていた。

右は、髪を二つに結んだ女の子。左は、眠そうな目をした男の子。その向こうも、その向こうも、同じ年ごろの子どもたちが、ずらりと前を向いている。


皆、同じ服を着ていた。


紺色の上着。白いシャツ。女の子は臙脂色のリボンを胸に結び、紺のひだのスカートをはいている。男の子は同じ紺の上着に、同じ灰色のズボン。


一人の例外もなかった。


(お仕着せ……? これだけの数の、使用人?)


でも、誰もおびえていない。退屈そうに天井を見ている子もいれば、隣とささやき合っている子もいる。


私は自分の膝を見た。


紺のスカート。その上に置かれた手。


小さかった。


私の手は、もっと指が長かったはずだ。笛の穴を押さえるために、毎日伸ばしてきた指。それがこの手は、爪が短く切りそろえられて、指の節が少し丸い。知らない手だった。


うつむいた拍子に、髪が目の前に落ちてきた。

黒い髪。

前髪が長くて、目にかかる。視界の上半分が、黒い簾ごしになる。


私の髪は、蜂蜜色だった。


「続きまして、新入生代表、宣誓」


壇の横の、紙が貼られた板が目に入った。式の次第が、大きな字で書いてある。


『県立水城高等学校 入学式』


読めた。


知らない文字のはずだった。角ばった字と、丸く崩れた字と、もっと込み入った字が混じっている。なのに、目で追うと意味が頭に流れ込んでくる。読もうとしなくても読めてしまう。耳に入る男の声も、言葉として分かる。


(気持ちが悪い)


まるで誰かの手袋を、指の先まではめているみたいだった。


壇に、背の高い男の子が上がった。紙を広げ、よく通る声で読み上げる。


「私たち新入生は、水城高校の生徒としての自覚を持ち――」


(夢、かしら)


それとも、罰か。


私は、深く息を吸った。吐いた。

笛を吹く前に、いつもそうしていたように。


順番に考えなさい、ヴィオレッタ。


私の名前は、ヴィオレッタ・アルンハイム。ラウレンティア王国、アルンハイム伯爵家の娘。十七歳。

ここは王国ではない。私はこんな建物を知らないし、こんな服を知らない。こんな文字も知らない。


なのに、読める。


そして、この体は私のものではない。


(では、わたくしは死んだの?)


最後に覚えているのは、雨と、傾く床だ。

あの角度から、助かったとは思えない。


周りの子どもたちが、一斉に立ち上がった。私も慌てて立つ。足がもつれかけた。体の大きさが違うのだ。歩幅も、目の高さも。


前の子が礼をする。私も礼をする。座る。

誰も私を見ていない。

伯爵家の娘を、誰も見ていない。


それが、妙に息のしやすいことだった。


(……馬鹿なことを)


私は膝の上で、知らない手を握りしめた。


◇


壇の上では、また別の大人が話していた。長く、中身のない話だった。王宮の儀式と、そこだけは同じだった。


だから私は、思い出すことにした。


あの夜のことを。


王立学院の、卒業夜会。


大広間には、数えきれない蝋燭が灯っていた。天井から下がる硝子の飾りが、炎を何千にも割って、床に光をこぼしていた。磨かれた石の床。弦楽の音。香水と、葡萄酒と、溶けた蝋の匂い。


私は、菫色のドレスを着ていた。母の形見の首飾りをつけて。


その真ん中で、レオナール様が言ったのだ。


「ヴィオレッタ・アルンハイム。君との婚約を、ここで破棄する」


楽団の音が止まった。


レオナール・ド・ベルクール。侯爵家の嫡男。私の婚約者。

金の髪をきれいに撫でつけて、まるで物語の騎士のような、正しい顔をしていた。


その腕に、ミレイユ・ロシェがすがっていた。


子爵家の娘。栗色の巻き毛。大きな目に、もう涙をためていた。

彼女は、いつでも泣けるのだ。


「君は、ミレイユ嬢の婚約者の家に、匿名の手紙を送ったね。彼女を陥れるために」


従者が、紙を三枚掲げた。


私の字だった。


わざと崩して書いたつもりだった。けれど、癖は隠しきれていなかった。広間の誰もが、私の字を知っていた。


「存じませんわ」


私は言った。


「そのような手紙、わたくしは知りません。それより、レオナール様。婚約者のいる身で、その方と腕を組んでいらっしゃるのは、どういうおつもりかしら」


「話をそらすな」


「そらしてなどおりませんわ。ねえ、ミレイユ様。あなた、ご自分にも婚約者がいらしたのではなくて? ずいぶん器用でいらっしゃるのね」


ミレイユの肩が震えた。ぽろり、と涙が落ちた。


周りの令嬢たちが、ミレイユの側に寄った。誰も、私の側には来なかった。


「泣けば済むと思っているのでしょう。その涙で、何人の殿方をたぶらかしてきたの」


声が、広間に響いた。

自分でも止められなかった。


私は手にしていた扇を、ミレイユに向かって投げた。


扇は彼女に届かず、レオナール様の胸に当たって、床に落ちた。

骨の折れる、小さな音がした。


それで終わりだった。


壇の上から、王妃エレオノール様が立ち上がった。静かな方だった。いつも、誰の味方もしないように話す方だった。


「ヴィオレッタ・アルンハイム。あなたを、北の修道院へ送ります」


父は、私を見なかった。


◇


体育館の、パイプ椅子の上で。

私は、その夜のことを、ひとつずつ思い返した。


手紙は、私が書いた。


それは本当だ。


ミレイユがレオナール様と会っていると知ったのは、去年の秋だった。茶会のあとの庭で、二人が並んで歩いているのを見た。それから何度も。半年もの間。


だから私は、彼女の婚約者、ジェラール・ファブレ様の家へ手紙を送った。三通。名前は書かずに。


ミレイユ嬢は、侯爵家の嫡男と密かに会っている。

それは本当のことだった。


ミレイユ嬢には、借金がある。

ほかにも、親しい殿方がいる。


それは、私が足した嘘だった。


茶会でも、同じことを、さも人から聞いた話のように口にした。令嬢たちは、そういう話が大好きだ。噂は、私が思ったよりずっと速く広まった。


ジェラール様は婚約を解いた。ミレイユの評判は落ちた。


私がそうした。わざと。


(でも)


私は、知らない手の爪を見つめた。


(あの女が先に、わたくしの婚約者に手を出したのだもの)


奪われたものを、奪い返そうとしただけ。

私は、そう思っていた。


このときは、まだ。


「新入生、退場」


拍手の中、私は列について歩いた。

誰も私に道を空けない。誰も私の後ろを、一歩下がって歩いたりしない。皆が同じ速さで、同じ方向へ流れていく。


体育館の扉を出ると、風が吹いた。


白い花びらが、目の前を横切った。


桜、という名前が、勝手に頭に浮かんだ。


◇


「じゃあ、出席番号順に自己紹介してもらおうかな。名前と、出身中学と、一言ね」


教室は、思ったより狭かった。


机と椅子が、縦横まっすぐに並んでいる。黒板は緑色をしていた。窓の外には、さっきの花の木が見える。

前に立っているのは、三十代くらいの女の人だった。肩までの髪を一つに結び、紺の上着を着ている。黒板に大きく、『森』と書いた。


「担任の森です。国語を教えます。一年間よろしくね」


一年間。


私は、自分の机の端に貼られた紙を見た。


『1年3組 21番 篠宮 澪』


しのみや、みお。


それが、この体の名前らしい。


(シノミヤ・ミオ)


口の中で転がしてみる。知らない響きなのに、舌がその音を知っていた。


前の席から、順番に子どもたちが立っていく。


「青木です。北中から来ました。サッカー部に入りたいです」

「井上です。えっと、よろしくお願いしまーす」


皆、短い。家の名も、父の爵位も言わない。言うのは名前と、出た学校と、好きなもの。それだけで、拍手が起きる。


(名乗りに、家のことを言わないの?)


王国で名乗るなら、まず家だ。父の名、爵位。それで相手との距離が決まる。


「高峰莉子です! 南中です。吹奏楽部でパーカッションやってました。高校でもやります。よろしくー!」


明るい声だった。

窓際の席の、髪を高く結んだ女の子。笑うと八重歯が見える。周りの何人かが「莉子ー」と声をかけ、彼女は手を振り返した。


この部屋の、中心にいる子だ。

そういう子は、王国の茶会にもいた。見れば分かる。


順番が近づいてくる。


私は、どう名乗ればいいのか考えた。


篠宮澪。出身中学は……知らない。机の中に何かないかと手を入れると、薄い冊子が出てきた。生徒手帳。開くと、最初のページに書いてあった。『出身中学校 市立東中学校』。


(東中)


それだけ分かれば、足りる。


「じゃあ、次。篠宮さん」


私は立った。


椅子が、床をこすって音を立てた。


背筋を伸ばす。顎を引く。手を前で重ねる。

十年かけて体に入れた立ち方だ。体が違っても、それだけは忘れていなかった。


「わたくし、篠宮澪と申します。東中学校より参りました。どうぞ、よしなに」


軽く膝を折って、礼をした。


教室が、静まった。


さっきまで続いていた、小さなざわめきも、消えた。

三十いくつかの顔が、全部こちらを向いていた。


(……何?)


誰かが、くすっと笑った。


それが合図になったように、あちこちで、押し殺した笑いが漏れた。


窓際から、声がした。


「……お嬢様じゃん」


高峰莉子だった。

隣の子と顔を見合わせ、口元を手で隠している。


かっと、頬が熱くなった。


この私を、笑う?


言い返そうとして、口を開きかけたとき。


「はい、ありがとう。篠宮さん、ていねいだね」


森先生が、ぱんと手を叩いた。


「じゃあ次。朝比奈さん」


ぱらぱらと拍手が起きた。私は座った。

まだ何人かが、ちらちらこちらを見ていた。


(ていねい、ですって)


私が知っている、ただ一つの名乗り方をしただけだ。

なのに、それが笑いの種になる。


隣の席の子が、立った。


「朝比奈ひかりです。東中です。えっと、クラリネットやってました。食べるのが好きです」


ふわっとした声だった。丸い顔に、丸い眼鏡。髪は肩の上で切りそろえてある。


座るとき、彼女は私のほうを見て、ほんの少しだけ笑った。


からかう笑いでは、なかった。


◇


式の日は、昼で終わった。


紙を何枚も配られた。時間割。保健の調べ。家の人に書いてもらう書類。

皆が鞄に紙をしまい、椅子を机の中に押し込んで、ばらばらと出ていく。


誰も、一礼して退出したりしない。


机の横の紺色の鞄を持ち上げると、肩にずしりと来た。

王国では、自分で荷物を持ったことがなかった。


「篠宮さん」


振り向くと、朝比奈ひかりが立っていた。


「篠宮さんって、東中だったんだ。クラス、違ったよね?」


「……ええ。そうかもしれませんわ」


彼女は気にした様子もなく、鞄のポケットをごそごそ探った。


「はい、これ。あげる」


手のひらに乗せられたのは、小さな袋だった。

派手な色の紙に包まれている。振ると、かしゃかしゃと音がした。


「……これは?」


「チョコ。いちご味のやつ。おいしいよ」


(施し?)


一瞬、そう思った。

王国では、ものを渡すことには必ず意味がある。贈り物は借りで、借りは返さなければならない。目下の者が目上に何かを差し出すのは、何かを頼みたいときだけだ。


でも、彼女は何も頼まなかった。


自分の分の袋をもう一つ出して、びりっと開けて、口に放り込んだ。


「んー、うまい」


それから、私を見て言った。


「篠宮さん、声きれいだね」


「……え?」


「さっきの自己紹介。みんな笑ってたけど、私、すごいきれいな声だなって思った。なんていうか、まっすぐ届く感じ」


私は、手の中の袋を見下ろした。


声を褒められたのは、初めてだった。


顔なら褒められた。家柄も、ドレスも、笛の腕も褒められた。でもそれは、全部、伯爵家の娘についてくるものへの褒め言葉だった。


この子は、何も知らない。私の家も、私の名も。

そのうえで、声がきれいだと言った。


「……ありがとう、存じますわ」


「あはは、やっぱりお嬢様だ」


彼女はそう言って笑った。でも、それはさっきの教室の笑いとは、違う音がした。


「じゃあね、また明日」


手を振って、彼女は廊下へ出ていった。


私は袋を開けた。


小さな粒が、手のひらに転がり出た。薄い赤色。口に入れると、甘くて、少し酸っぱくて、すぐに溶けた。


王国の菓子職人が作る砂糖菓子より、ずっと安っぽい味だった。


なのに、私はしばらく、その味が消えるまで、そこに立っていた。


◇


家への道は、足が知っていた。


文字と同じだった。考えなくても、足が角を曲がる。駅の前を通り、坂を下り、川沿いの道を歩く。同じ紺の服の子どもたちが、自転車でどんどん追い越していく。


足が止まったのは、小さな二階建ての家の前だった。


門の柱に、『篠宮』と書いた板がかかっていた。


(ここが)


伯爵家の屋敷の、門番の小屋くらいの大きさだった。

庭には、植木鉢がいくつかと、子どもの自転車が一台。窓に、洗濯物が干してある。


戸に手をかけると、開いていた。


「……ただいま、戻りました」


返事はなかった。

中は薄暗く、玄関に、小さな運動靴が脱ぎ散らかしてあった。


靴を脱いで上がるのだ、と体が知っていた。私は靴を脱ぎ、少し迷ってから、運動靴も一緒にそろえた。


奥から、どたどたと足音がした。


「ねえちゃん、おかえりー」


小さな男の子だった。

半ズボンに、膝に絆創膏。手に、ゲームの機械を持っている。


(弟、かしら)


「……ただいま」


「入学式どうだった? 高校って給食ないんでしょ? お弁当なんでしょ?」


「ええ、そうらしいですわね」


男の子は、ぴたりと止まった。


私の顔を、下からじっと覗き込んだ。


「ねえちゃん、今日へん」


心臓が跳ねた。


「……どこが、へんかしら」


「しゃべりかた。なんか、テレビのひとみたい」


それだけ言うと、彼は興味をなくしたように、また機械に目を落として、居間へ戻っていった。


私は玄関に立ったまま、深く息を吐いた。


◇


夕方、戸の開く音がした。


「ただいまー! ごめんね澪、入学式行けなくて!」


大きな声だった。


入ってきたのは、エプロンの上に上着をはおった女の人だった。両手に、白い薄い袋をさげている。袋の口から、ねぎの青い先がはみ出していた。


「急に休みの人が出ちゃってさあ、店長に拝まれちゃって。ほんとごめん。どうだった? クラス、知ってる子いた?」


この人が、母。


私の母は、私が六つのときに死んだ。

覚えているのは、白い手と、笛を吹いていた横顔だけだ。母は、こんなに大きな声で話す人ではなかった。


「……ええ。少し」


「そっかあ。よかった。あ、蒼太、ゲームやめてお米といで!」


「えー」


「えー、じゃない」


蒼太。それが、弟の名前らしかった。


女の人は袋を台所の床に置くと、中身を次々に取り出した。肉、卵、豆腐、牛乳。値札のついた、薄い透明な箱に入っている。


(自分で、買ってくるの?)


「ほら、澪も手伝って。お皿出して」


「……お皿」


「そこの棚。四枚ね」


私は棚を開けた。白い皿が重なっていた。四枚取り出して、どこに置けばいいのか分からず、立ち尽くした。


母が、こちらを振り向いた。


「……澪?」


じっと、私の顔を見た。


「なんか顔色悪いね。疲れた?」


額に、手が伸びてきた。


ひやりとした手のひらだった。水仕事と、ねぎの匂いがした。


「熱は、ないか。緊張したんでしょ。初日だもんね」


それだけ言って、手は離れた。


「いいよ、座ってな。ご飯できたら呼ぶから」


私は、皿を持ったまま動けなかった。


誰かに、額を触られたのは。

いつ以来だろう。


父は、私に触れたことがなかった。熱を出しても、医者を寄越すだけだった。部屋に来るのは、侍女と医者と、笛の先生だけだった。


(どうして、この人は)


この体の中身が別人だと、この人は知らない。

知らないまま、ただ心配している。


それが、どうしようもなく、居心地が悪かった。


夜、父という人が帰ってきた。眼鏡をかけた、口数の少ない人だった。「おかえり」と母が言い、「ただいま」と言って、それきり黙って食卓についた。


四人で、小さな四角い卓を囲んだ。


肉じゃが、という料理だった。甘くて、しょっぱくて、芋が口の中でほろりと崩れた。


誰も、給仕を待たなかった。皆、自分の箸で、自分の分を取った。蒼太がテレビの話をして、母が笑った。父は黙って食べていたけれど、途中で一度だけ、私に言った。


「……学校、どうだった」


「……普通、でしたわ」


父は少しだけ眉を上げて、それから「そうか」と言った。


それきりだった。


でもその「そうか」は、王国の父が私に言ったどの言葉よりも、柔らかかった。


◇


夜。


洗面所の鏡の前に、私は立っていた。


蛍光灯の白い光。小さな鏡。歯ブラシが四本、コップに立ててある。


鏡の中に、黒い髪の女の子がいた。


前髪が長い。目が半分隠れている。肩が少し丸まっていて、首が前に出ている。


(だらしのない立ち方)


私は肩を引いた。背筋を伸ばした。顎を引いた。


鏡の中の子も、同じようにした。


それから、そっと前髪をかき上げた。


息を、のんだ。


整った顔だった。


切れ長の目。まっすぐな鼻筋。肌は白く、唇の形もいい。王国の夜会に出ても、見劣りしない顔だった。


なのにこの子は、その顔を前髪の奥に隠していた。


(どうして)


体は言葉も、道も、靴を脱ぐことも覚えていた。でも、この子の思い出は、ひとつも残っていなかった。弟の名前さえ、母が呼ぶまで分からなかった。


ここにいるのは、篠宮澪の体を着た、ヴィオレッタ・アルンハイムだ。


前髪を下ろした。


(これは、借りものの暮らしだわ)


母の手も。肉じゃがも。いちごのチョコも。

私のために用意されたものでは、ない。


そして、いつか。


いつか、私はあの席へ戻される。


そんな気がしてならなかった。あの大広間の、蝋燭の光の中へ。王妃様の声の前へ。

理由はない。ただ、この暮らしが私のものではない以上、私はどこかで、返さなければならない。


それがいつなのかは、分からない。


明日かもしれない。一年後かもしれない。


(だったら)


私は、鏡の中の子の目を見た。


分からないなら、自分で決めればいい。王国では、私は何ひとつ自分で決められなかった。婚約も、着る服も、行く場所も。

最後に決められたのは、修道院だった。


「この学校を出る日まで」


声に出して、言った。


この学校を出る日まで、私はこの子の暮らしを借りる。

借りたものは、きちんと返す。汚さずに。


鏡の中の子は、少し困ったような顔をしていた。


◇


二階の、小さな部屋。


それが、澪の部屋だった。


ベッドと、机と、本棚。壁には何も貼っていない。本棚には教科書と、何冊かの漫画と、表紙の色あせた絵本。

物の少ない部屋だった。


机の上に、鞄から出した紙を広げた。


今日配られた紙の束。時間割、保健の調べ、家の人に書いてもらう書類。


その一番下に、一枚だけ色のついた紙があった。


『新入生のみなさんへ 部活動紹介』


野球部、サッカー部、美術部。それぞれに、短い紹介の文と写真が一枚ずつ。


私は、何気なくその紙をめくった。


手が、止まった。


『吹奏楽部 部員約五十名 一緒に音楽をつくりませんか』


写真の中で、何十人もの子どもたちが、楽器を構えていた。金色の大きなラッパ。黒い細長い笛。太鼓。


その最前列で、一人の女の子が、横に笛を構えていた。


銀色だった。


光を弾く、銀色の横笛。


その指のところに、小さな丸い蓋のようなものが、いくつもいくつも並んでいた。


私は、知らない手で、その写真をそっとなぞった。

お読みいただきまして、ありがとうございました。

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次回は「第2話 キーの多い笛」です。

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