第58章 〜山脈を越えて〜
出発の朝は、霧ではなかった。雨でもなかった。ただ、少しだけ風が冷たくて、それが旅に似合いすぎていた。
「シン、起きてるか」
レナの声だった。今日は鼻をつままれなかった。その代わり、彼女は俺の寝台の端に腰かけ、そっと俺の髪を指で梳いていた。こんなことは初めてだった。
「……何をしてるんだ」
「寝ぐせがひどい。遠征に行く管理者が、寝ぐせだらけでは示しがつかない」
「俺は示しをつけるために行くんじゃない。調べるために行くんだ」
「同じだ」
彼女はそう言って、俺の髪を丁寧に整え続けた。狼娘の指は短剣を握るには強く、しかし今は驚くほど優しかった。俺は目を閉じて、しばらくその感触に身を委ねた。
居間では、すでに全員が揃っていた。アルテアが救急袋を最終確認し、ゴルンが保存食の束を人数分に分け、ヴェラスが新しく削った杖をライラに手渡していた。セラは暖かい外套をミリに着せかけ、双子たちはリサンドラの周りをぐるぐる回っていた。
「遠征に行く人は、これを」ヴァエリスが小さな布袋を差し出した。中には銀葉樹の葉が一枚ずつ入っていた。「お守りです。私の核と共鳴していて、遠くにいても無事かどうかがわかる」
「すごいな」俺は言った。
「えへん」
俺は居間の中央に立ち、静かに言った。
「今回の目的は二つ。北西の『目覚めぬ塔』を調査し、封鎖された守護者を救出する。もう一つは、歪みの痕跡があれば、それを浄化する」
「気をつけて」アルテアが言った。
「行ってきます」ライラが言った。
「早く戻れ」ゴルンが言った。
「星鉄の護符を忘れるな」ミリが言った。
「私はお前を信じてる」ヴァエリスが言った。
「当然だ」リサンドラが言った。
「……ばか」レナが言った。
門を出ると、守護者たちが一列に並んで見送ってくれた。彼らは何も言わなかったが、その青い光は普段より少しだけ強く輝いていた。アルテア、ヴァエリス、ゴルン、セラ、ヴェラス、双子たち。残る者たちは門のところで手を振り、俺たちは森へと足を踏み入れた。
今回の旅は、今までとは違っていた。ヴォラスが封じられてから、森はすっかり平穏を取り戻していた。木々は青々と茂り、小川は澄み、獣道には野ウサギが顔を出した。
「平和だな」俺は言った。
「そうだな」レナが隣を歩きながら答えた。「でも山脈を越えたら、どうなるかわからない」
「向こうには何があるんだ?」
「わからない。私も初めての土地だ」
リサンドラが先頭で、ライラとミリが中央、俺とレナが後方だった。馬は二頭、荷物を積んでゆっくりと歩かせた。ミリは馬の手綱を握りながら、時折、祖父の手紙を読み返していた。
「ミリ」俺は彼女に追いついた。「祖父の手紙、まだ読んでるのか」
「はい。何度読んでも、新しい発見があるような気がして」
「どんな?」
「祖父は、私に『鍵を必要とする者を助けなさい』と書いています。それは商人としての助言ではなく、人間としての願いだったんだと思います。祖父は、あの塔の守護者に何か借りがあったのかもしれない」
「借り?」
「祖父は若い頃、北西で大きな取引に失敗して、すべてを失いかけた。でも、何かがきっかけで立ち直り、ヴァルゲルドで交易所を開くことができた。その何かが、もしかすると――」
「守護者だったのか」
「はい。だから祖父は鍵を遺し、いつか助けが必要なときに使えと書いた」
ミリの声は静かだったが、その奥には強い決意があった。彼女は商人だった。でも今は、祖父の遺志を継ぐ孫だった。
昼過ぎ、小川のほとりで短い休憩を取った。リサンドラが水を汲み、レナが周囲を警戒し、ライラが地図を広げた。
「この先、半日で山脈の麓に着きます」ライラは地図を指さしながら言った。「麓には古い宿場町の廃墟があるはずです。自由都市が使っていた交易路の名残です」
「宿泊できるか」
「屋根くらいはあると思います」
「よし、今夜はそこに泊まろう」
休憩のあいだ、俺はリサンドラの隣に座った。彼女は無言でエルフの剣を研いでいた。旅のあいだ、彼女はほとんど口を開かなかった。でも、その無言は不安や不機嫌ではなく、集中の証だった。
「リサンドラ、お前は今回の遠征をどう思う」
「必要な任務だ」
「それだけか」
「それ以上に、私はお前のそばにいられる」
「それは任務か」
「任務ではない。私の選択だ」
彼女は剣を置き、俺を見た。銀の瞳が、午後の日差しを受けて静かに輝いていた。
「お前は私に選択をくれた。だから私は、その選択を全うする」
「重いな」
「重くない。私にとっては、むしろ軽い。八十年前の鎖より、ずっと」
彼女はそう言って、また剣を研ぎ始めた。でも口元は少しだけ緩んでいた。
夕方近く、廃墟の宿場町に着いた。石造りの建物がいくつか崩れずに残っていて、そのうちの一つ、かつて馬宿だったと思われる場所に、俺たちは野営することにした。屋根は半分崩れていたが、風は十分に防げた。
ライラは早速、壁に刻まれた古代の落書きを調べ始めた。ミリは馬に餌をやり、リサンドラは周囲の安全を確認し、レナは焚き火の準備をした。俺は管理ツールで簡単な修復を行い、屋根の穴を仮の板で塞いだ。全員が手を動かしながら、それぞれの役割を果たす。こういうのを家族と呼ぶのだろうか、とふと思った。
夜、焚き火を囲んで簡素な食事を取った。ゴルンが持たせてくれた保存食と、アルテアが持たせてくれたハーブ茶。
「シン」ライラが口を開いた。「明日、山脈を越えたら、『目覚めぬ塔』の領域に入ります」
「何か注意すべきことはあるか」
「まず守護者です。三体は狂っている可能性がある。私たちの守護者のように友好的とは限りません」
「戦闘になるか」
「覚悟はしておいたほうがいい」リサンドラが言った。「狂った守護者は手強い」
「それから、歪みの可能性もある」ライラは続けた。「峡谷のときと同じように、塔の内部に歪んだマナが残っているかもしれません」
「そのための浄化だ」
「はい」
焚き火がはぜる音だけが、しばらく続いた。
「ミリ、鍵はいつ使うんだ」俺は尋ねた。
「わかりません。でも、祖父の手紙には『必要なときに自ら光る』とありました。今はまだ光っていません」
「光る鍵か。便利だな」
「祖父は便利なものしか遺さなかったんです」
彼女は少しだけ笑った。
深夜、番の順番が回ってきた。最初はリサンドラ、次にレナ、最後が俺だった。月が中天にかかる頃、俺は焚き火のそばで見張りに立った。
「眠れないのか」
声の主はミリだった。彼女は外套を羽織り、そっと俺の隣に腰を下ろした。
「ミリ、お前こそ眠れないのか」
「はい。考え事をしていて」
「何を」
「明日からのこと。祖父のこと。鍵のこと。それから――」
「それから?」
「あなたのこと」
焚き火が彼女の茶色の瞳を照らし、その中で炎が揺れていた。
「シン様、私は商人です。商人は常に計算をします。利益と損失、危険と安全。でも、あなたといると、計算が狂うんです」
「俺が損か」
「違います。計算を忘れるんです。それは商人として失格です。でも――」
「でも?」
「悪くないと思ってる」
彼女の手が俺の手に触れた。帳簿をめくるペンを持つ手が、少しだけ震えていた。
「明日、私の祖父が遺した鍵を使います。それがどんな結果をもたらすか、商人の私には計算できません。でも――あなたがそばにいるなら、それでいい」
「ミリ、俺は――」
「返事はまだ。遠征が終わってから、ちゃんと聞きます」
「商人はずるいな」
「ええ、商人はずるいんです」
彼女は微笑み、それから俺の肩にそっと凭れかかった。すぐに立ち去るかと思ったが、彼女はそのまま目を閉じた。しばらくして、静かな寝息が聞こえてきた。彼女も疲れていたのだろう。俺は彼女を起こさないように、焚き火の番を続けた。
翌朝、廃墟の宿場町を発ち、山道に入った。道は細く、岩が多く、馬はゆっくりとしか進めなかった。しかし空気は澄み、遠くの山々が雪をかぶって見えた。景色は美しかった。これが平和というものか、と俺は思った。
昼頃、峠に差しかかった。ライラが立ち止まり、前方を指さした。
「見えました」
「何が」
「『目覚めぬ塔』です」
俺は息を呑んだ。遠くの谷間、切り立った崖の上に、それは建っていた。黒い石で築かれた塔で、高さは我々の塔よりやや低いが、形はよく似ていた。しかしその周囲には、歪んだ紫の光がかすかに漂っていた。
「峡谷と同じ光だ」リサンドラが言った。
「歪みがまだ残っている」ライラがうなずいた。「やはり、内部で何かが狂っている」
ミリが胸元の鍵をそっと握った。まだ光っていない。でも、彼女の目は決意に満ちていた。
「行こう」俺は言った。「あそこに、助けを待っている守護者がいる」
俺たちは坂を下り、谷間へと向かった。
廃墟の向こうに、目覚めぬ塔が静かにそびえていた。これから始まるものは、遠征の本番だった。鍵を差し、扉を開け、封鎖の奥に進み、待つ者と会う。
危険はある。でも、仲間がいる。
俺は馬の手綱を握り直し、前を歩く四人の背中を見た。リサンドラの剣、レナの短剣、ライラのルーン、ミリの鍵。
どれも、俺にはないものだった。でも、俺には彼女たちがいる。
それで十分だった。




