第57章 〜記録者の選択〜
朝、図書館に行くと、ライラが机に突っ伏して眠っていた。
周りには散らばった巻物、開かれた本、書きかけの羊皮紙。インク壺は危うく倒れそうな位置にあり、彼女の頬には羽ペンの跡がうっすらとついていた。額の青いルーンは、眠っている間もかすかに輝いていた。
「ライラ」
「……ん」
「朝だ」
「……あと百年……」
彼女は寝言で百年寝たいと言った。長命種ならではのスケールだ。俺は苦笑して、彼女の肩にそっと手を置いた。
「起きろ。風邪を引く」
「ルーンキャリアは風邪を引きません」
「じゃあ、机にインクの跡がつく」
「……それは困る」
彼女はゆっくりと体を起こし、自分の頬の跡に気づいて少し赤くなった。百四十二歳でも、寝起きはあまり変わらないらしい。
「すみません、昨夜は少し熱中してしまって」
「何を調べてたんだ」
「『目覚めぬ塔』の守護者の正体です」
彼女は机の上を整理しながら、数枚の羊皮紙を手渡した。どれも彼女の細かい文字でびっしりと書き込まれ、所々に古代ルーンが写し取られていた。
「自由都市の記録をつぶさに調べた結果、あの塔には元々、五体の守護者が配属されていました。そのうち三体が反乱を起こし、二体は最後まで塔に忠誠を誓った」
「その忠誠を誓った守護者が、今も封鎖の奥にいるのか」
「おそらく。でも、三百年前の封鎖以来、外界との接触は完全に断たれています。どうやって生き延びているのかは不明」
「守護者は生き物なのか?」
「私が調べた限りでは、守護者は純粋なゴーレムではなく、古代の技術で造られた疑似生命体です。マナを糧に活動し、自我を持ち、命令に従う。壊れない限り、理論上は永遠に活動できます」
「すると、向こうの塔の守護者はまだ――」
「ええ、生きている可能性が高い」
俺は羊皮紙を見つめながら、考え込んだ。三百年も一人で封鎖の奥に閉じ込められているとしたら――それはヴァエリスと同じ孤独か、それ以上かもしれない。
「ライラ、お前はこの件をどう思う」
「私は行くべきだと思います。あの守護者は助けを求めている。封鎖を解いて正気であれば、味方になる可能性がある。もし狂っていたとしても、危険を放置するわけにはいかない」
「それは研究者としての意見か」
「はい」
「それとも、ルーンキャリアとしての使命か」
「……両方です。でも、最近は三つ目の理由もある」
彼女は少しだけ言い淀み、羽ペンを指で弄んだ。額のルーンが、心拍に合わせて静かに明滅していた。
「三つ目の理由とは」
「私は、この塔に来るまで、百年以上も旅を続けてきました。神の欠片を探し、記録し、守り、時に壊し――それがルーンキャリアの使命でした。使命は私の誇りであり、同時に私の鎖でもあった」
「鎖」
「ええ。使命がある限り、私はどこにも留まれない。でも今は、ここに留まりたいと思っている。あなたのそばに」
「ライラ……」
「まだ気持ちの整理はついていません。でも、もし『目覚めぬ塔』の調査が、私の使命の一つを果たすことになるなら、それが終わったとき、私は自由になれるかもしれない」
彼女の青い目は揺れていた。百四十二年も生きてきた女性が、今、初めて「留まりたい」という願いを口にしていた。
「ライラ、俺はお前にここにいてほしい」
「……研究のためですか」
「それもある。お前は有能だ」
「他には?」
「お前がここに来てから、図書館は整い、古代の知識が紐解かれ、塔の謎が少しずつ解けている。でも、それ以上に――」
「以上に?」
「お前がここにいて、朝に机で突っ伏して寝ているのを見るのが、俺は少し楽しみになった」
彼女はぱちぱちと瞬きをした。それから、口元を手で覆って、小さく笑った。羽ペンの跡がまだ頬に残っていた。
「それは、私が役に立っているという意味ですか」
「そうだ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
午後、ミリがヴァルゲルドから戻った。彼女は小さな木箱を抱えていた。古びた鉄の留め金がついた、明らかに年期の入った箱だった。
「祖父の鍵です」彼女は居間の机の上に置いた。「今朝、金庫から出してきました。ここ数年は触れてもいなかった」
「開けてみるか」
「ええ」
彼女は留め金を外し、箱を開けた。中にはベルベットの布に包まれた古い鍵が一本、それから折り畳まれた手紙が一通入っていた。鍵は青銅製で、装飾はシンプルだが、持ち手の部分に塔の意匠が刻まれていた。
「この塔の印とよく似ている」俺は言った。
「はい。でも完全に同じじゃない。こちらの印のほうが、どこか角ばっている」
「別の塔のものだ。間違いない」
ミリは手紙を広げた。細かい字で何かが書かれていた。
「『ミリへ。この鍵は我が家に伝わる古い遺産です。どの扉を開けるかは、お前が大人になったとき、自ら知るでしょう。鍵を必要とする者が現れたとき、お前はその者を助けなさい。それが我が家の役目です』」
「祖父の言葉か」
「はい。ずっと意味がわからなかった。でも今なら――」
「わかるか」
「ええ。鍵を必要とする者は、あの塔の守護者です。そして、その者を助けるのが、私の役目」
彼女は手紙をそっと折り畳み、箱に戻した。その指は微塵も震えていなかった。商人の顔でもなく、孫の顔でもなく、運命と向き合う者の顔だった。
夜、俺はリサンドラとレナを居間に呼び、遠征の計画を伝えた。
「目的は二つ。『目覚めぬ塔』の封鎖を解き、正気の守護者がいれば救出する。もう一つは、歪みや狂気の痕跡があれば、それを浄化する」
「参加者は」リサンドラが手短に尋ねた。
「俺、ライラ、ミリ、それから――」
「私も行く」レナが即答した。
「俺もだ」リサンドラが続いた。
「アルテアとヴァエリスは塔に残る。ゴルンも。守りは堅くしておきたい」
「妥当だ」レナがうなずいた。
リサンドラは少しだけ考えて、口を開いた。
「遠征の期間は」
「一週間から十日。山脈を越えるから、移動に時間がかかる」
「食料と装備は私が手配する」ミリが言った。「それから、ヴァルゲルドで馬を二頭、借りられる」
「頼む」
作戦会議が終わり、皆がそれぞれ準備に取りかかるなか、ライラが俺の袖を引いた。
「シン、少しだけいいですか」
「ああ」
彼女は俺を図書館の隅に連れて行き、持っていた小さな本を差し出した。表紙には何も書いていなかったが、ページを開くと、古代ルーンが淡く輝いていた。
「これは?」
「ルーンキャリアの誓約書です。私たちの種族は、誰かに仕えるとき、この誓約書に互いの名を記します」
「仕える?」
「私はあなたの部下ではありません。でも、この塔に残りたいと思っている。そして、あなたのために記録を続けたいと思っている。だから――」
彼女はページをめくり、そこに自分の名を記した。青いルーンが光り、彼女の指先からインクのように流れ出した。ライラ・ヴェル=シャーン。
「ここに、あなたの名も」
「俺が書くのか」
「はい」
「何て書けばいい」
「イチカワ・シン。あなたの本当の名前です」
俺はペンを取り、彼女の名の下に、慣れない手つきで「市川真」と漢字で書いた。それから、その横に「イチカワ・シン」とも。名前が記された瞬間、ルーンが一斉に輝き、ページ全体が青白い光に包まれた。
「これで誓約は成立しました」
「何を誓約したんだ」
「私はあなたに記録を捧げ、あなたは私に居場所を与える。対等な誓約です」
「対等か」
「はい。ルーンキャリアは主人を持ちません。でも、対等の相手なら――共に歩むことができます」
彼女は本を閉じて、そっと胸に抱いた。百四十二年かけて、ようやく見つけた居場所を、大事そうに抱きしめるように。
「ライラ、俺はお前を対等の仲間だと思ってる。それ以上に――」
「以上に?」
「友だと思ってる」
「友、ですか」
「嫌か」
「いいえ。とても嬉しい。友という言葉は、ルーンキャリアには最も縁遠い言葉でしたから」
彼女はほんの少しだけ、目を潤ませた。でも泣かなかった。代わりに、俺の手をそっと握って、自分の額に触れさせた。ルーンのある額に。
「これは私たちの種族の最も古い挨拶です。信頼する者にだけ」
「光栄だ」
「いいえ、光栄なのは私のほうです」
彼女は手を離し、微笑んだ。いつもの静かな微笑みより、少しだけ明るい微笑みだった。
深夜、塔が静まり返った頃、俺は中庭のリンゴの木の下に立っていた。明日からの遠征の準備はほぼ整った。食料、装備、馬の手配。ライラの知識、ミリの鍵、リサンドラの剣、レナの短剣。そして俺の管理ツール。これだけ揃えば、どうにかなるだろう。
「シン」
振り返ると、アルテアが立っていた。寝間着の上にショールを羽織り、手には小さな布袋を持っていた。
「眠れないのか」
「はい。あなたに渡したいものがあって」
「これは?」
「光り草の種です。五つ、持って行ってください」
「そんなに?」
「はい。それから、これも」
彼女はもう一つ、小さな包みを差し出した。中には乾燥させたハーブの葉が入っていた。
「これは私の故郷のハーブです。眠れないときに、お茶にして飲んでください」
「アルテア……」
「あなたは無茶をするから、少しでも回復できるように」
「ありがとう」
「戻ってきてください」
「必ず」
彼女はうなずき、少しだけ背伸びをして、俺の頬にそっとキスをした。それは以前よりもほんの少しだけ、長かった。
「今度は、ちゃんとしたキスを待ってます」
「ちゃんとしたキス?」
「はい。あなたが戻ったら、そのときに」
彼女はそう言って、ショールを翻して去っていった。俺はしばらく、中庭に立ち尽くしていた。
星が綺麗だった。明日は遠征だ。でも今夜は、この静かな時間を噛みしめていたかった。
少しして、もう一つの足音がした。
「眠れないのか、二人とも」
レナだった。彼女は手に毛布を持っていた。
「寒いだろ」
「少し」
「だろうな」
彼女は毛布を俺の肩にかけ、それから自分の分も持ってきて、隣に座った。
「今回の遠征、山脈を越える。私も初めての土地だ」
「怖いか」
「怖くはない。お前と行くからな」
「頼もしい」
「当然だ」
彼女の尻尾がゆっくりと揺れた。満足、多分。
しばらく二人で星を見上げていた。リンゴの木がかすかに輝き、光り草の帯が遠くで瞬いていた。
「明日、早い。そろそろ寝るぞ」
「ああ」
「でも、もう少しだけ」
「……わかった」
彼女は俺の肩に凭れかかり、目を閉じた。寝息が聞こえるまで、それほど時間はかからなかった。
俺は彼女を起こさないように、しばらくそのまま星を見ていた。
明日は遠征。山脈の向こう。目覚めぬ塔。狂った守護者。正気の守護者。鍵。ミリの祖父の遺志。ライラの使命と選択。ヴァエリスの呼び声。アルテアの約束のキス。リサンドラの剣。
いろんなものが絡まりながら、ゆっくりと動いている。
でも今は、肩に凭れかかる狼娘の温もりだけを感じていた。
それで十分だった。




