第56章 〜精霊の選択〜
朝、俺が目を覚ますと、枕元に小さな光が浮かんでいた。
最初は光り草の種かと思った。しかし、その光は青白く、ゆっくりと点滅しながら、俺の鼻先でふわふわと漂っていた。意思を持っているようにも見える。
「……なんだ、これ」
『塔の記録』が光った。
「精霊ヴァエリスが、管理者を庭園に招待しています。朝食の前に来てほしいとのことです」
「朝食の前にか。早起きだな」
「精霊は眠りません」
「ずるいな」
俺は寝台から起き上がり、寝間着のまま第四階層へ向かった。階段を上る途中、リサンドラとすれ違った。彼女はすでに訓練を終えたらしく、軽く汗をかいていた。
「ヴァエリスに呼ばれたのか」
「ああ」
「そうか」
「何か知ってるのか」
「昨夜、庭園で何かが光った。小規模だが、マナの放出があった。悪いものではない」
「なぜ教えなかった」
「ヴァエリスが自分で話すと言った」
「……仲良くなったんだな、二人とも」
「仲良くない。協力しているだけだ」
「それは仲良しって言うんだ」
「違う」
彼女はそれだけ言って、自分の部屋に消えた。でも口元が少しだけ緩んでいた。
庭園はいつもより明るかった。銀葉樹が普段の倍の輝きを放ち、周囲の花々がそれに呼応して青や紫や銀の光を放っていた。そして中央には、あの峡谷の黒い土から芽吹いた新芽が置かれていた。今朝、もう一枚の葉を開いたらしく、その葉が銀葉樹と同じ金色の光を放っていた。
ヴァエリスは銀葉樹の下に座っていた。両手を膝の上に置き、目を閉じ、胸の核がゆっくりと鼓動していた。しかし俺が近づくと、彼女は目を開け、ほっとしたように微笑んだ。
「来てくれた」
「呼ばれたからな」
「呼ばれたから?」
「……違う。お前に会いたかったからだ」
「うん、ありがとう」
彼女は立ち上がり、芽のほうに歩いていった。その背中が、いつもより少しだけ大人びて見えた。
「シン、昨夜、この芽がもう一枚、葉を開いた。それは見たでしょう」
「ああ。すごい速さだな」
「それでね、わかったの。この芽は、私たちに何かを伝えようとしている」
「何を?」
「遠くの誰かが、この芽を通じて、助けを求めている」
彼女は芽の葉にそっと触れた。葉が金色に輝き、それに応えるように、胸の核も青く光った。
「誰が助けを求めているんだ?」
「まだはっきりとはわからない。でも、悪意はない。苦しんでいる。孤独で、長い間ずっと閉じ込められていて、外に出たいと思っている」
「『目覚めぬ塔』か」
「たぶん。ライラの調査と一致する。あの塔には三百年前に封鎖されて、守護者が狂わされた。でも、その奥にまだ、正気の誰かがいるのかもしれない」
「それを確かめるために、遠征が必要か」
「うん。でも、それだけじゃないの」
ヴァエリスは俺のほうを向いた。蒼い目が庭園の光を受けて、ほとんど銀色に輝いていた。彼女は手を伸ばして、そっと俺の手に触れた。彼女の指は冷たく、でもその冷たさの奥に、かすかな温もりがあった。
「シン、私ね、決めたの」
「何を?」
「もし『目覚めぬ塔』に、助けを求めている誰かがいるなら、私はその人を助けたい。なぜなら――」
彼女は言葉を切り、一歩だけ近づいた。光の粒子が彼女の周りで、蛍のように舞っていた。
「なぜなら、私もかつては封鎖室に閉じ込められていたから。一人で、暗闇の中で、何百年も。誰かが来てくれるのを待ってた。そしてあなたが来てくれた。あのときの気持ちは、絶対に忘れない」
「ヴァエリス……」
「だから私は、同じように閉じ込められている誰かがいるなら、助けに行きたい。怖いけど、行きたい」
俺は彼女の手を握り返した。彼女の核の鼓動が、手のひらを通じて伝わってきた。規則正しく、穏やかで、でもどこか切ない響きだった。
「行こう。俺も一緒に行く」
「危険かもしれないよ」
「いつものことだ」
「あなたはいつもそればかり」
「それしか言えないんだ」
「知ってる」
彼女は微笑んだ。その微笑みは、かつての「道具」扱いされていた精霊のものではなかった。自分の意志で、自分の選択で、誰かを助けたいと願う一人の女性の顔だった。
午後、ライラと図書館で情報を整理した。彼女の机の上には、「目覚めぬ塔」に関する自由都市の記録と、峡谷の石碑の拓本、そして例の新芽の観察記録が並んでいた。彼女はそれらを突き合わせながら、何かを熱心に書き込んでいた。
「パズルが揃ってきました」彼女は顔を上げた。「あの芽は、おそらく『目覚めぬ塔』に封じられた守護者の呼び声に応えています」
「正気の守護者か」
「はい。三百年前、あの塔では守護者の反乱が起きました。でも記録には『一部の守護者は最後まで塔に忠誠を誓った』とある。その忠誠を誓った守護者が、今も封鎖の奥で助けを待っている」
「なぜ三百年も待つんだ」
「封鎖の鍵は、塔の外に隠されたからです。誰かが鍵を持ち去り、塔は開かなくなった。その鍵がどこにあるか――」
彼女は一冊の古い本を開いた。ページには、かすれたルーン文字が並んでいた。
「――自由都市の記録に、鍵に関する記述がありました。『鍵は商人の血筋に受け継がれる』と」
「商人の血筋」
「ええ」
「ミリか」
「おそらく。彼女の祖父は自由都市の交易所の管理人でした。鍵を持っていたのは、その祖父かもしれません。そして、その鍵は今、ミリが持っている」
俺はしばらく考え込んだ。ミリの祖父が鍵を隠し、それが代々受け継がれてきた。もしそれが本当なら、ミリは「目覚めぬ塔」を開けるための鍵を、知らずに持っている可能性がある。
「ミリに確認しよう。ただし慎重にな」
「はい。彼女は商人です。商人は、自分の家系にまつわる秘密には敏感です」
「わかってる」
夕方、俺はミリを市場の事務所に訪ねた。彼女は帳簿を閉じて、俺の顔を見るなり「何かあったんですね」と言った。
「どうしてわかる」
「シン様の顔は、交渉のときと同じです。何か大事なことを言いたいときの顔」
「お前はよく見てるな」
「商人ですから」
俺はライラの発見を手短に伝えた。「目覚めぬ塔」、三百年前の封鎖、「商人の血筋に受け継がれる鍵」、そしてそれがミリの祖父に関係している可能性。
ミリは黙って聞いていた。帳簿をぎゅっと握りしめていたが、指は震えていなかった。
「祖父は、私が幼い頃に亡くなりました」彼女は静かに言った。「形見はいくつかあります。ペンダント、古い帳簿、それから――」
「それから?」
「――古い鍵です。どこの鍵かわからない。祖父は『いつかわかる日が来る』と言っただけでした」
「どこにある?」
「自宅の金庫です。ヴァルゲルドに」
俺はうなずいた。
「今すぐとは言わない。でも、もしそれが本当に『目覚めぬ塔』の鍵なら、遠征のときに必要になる」
「私も行きます」
「危険だ」
「危険な取引は慣れてます。それに――」
「それに?」
「私は、祖父が何を遺したのか、自分の目で確かめたい。商人として、孫として」
彼女の茶色の目は決意に満ちていた。彼女は商人だが、それ以上に、家族の秘密と向き合おうとする一人の女性だった。
夜、庭園に戻ると、ヴァエリスがまだそこにいた。彼女は新芽の前に座り、何かを語りかけていた。言葉ではなく、おそらく思念で。
「何を話してるんだ」
「励ましてるの。もう少しで助けに行くから、それまで頑張ってって」
「通じてるのか」
「わからない。でも、葉がさっきよりも明るく光った」
俺は彼女の隣に座った。銀葉樹の枝が風に揺れ、金色の葉が静かに舞い落ちた。その一枚がヴァエリスの肩に止まり、彼女はそっと指で摘まんだ。
「シン」
「なんだ」
「私、ここの庭園が好き。銀葉樹も、光る花も、そしてあなたも」
「俺もお前が好きだ」
「……ほんと?」
「ああ」
「それは、レナやアルテアやリサンドラと同じ気持ち?」
「近い。でも、少し違うかもしれない」
「どう違う?」
「お前は、俺がこの塔で初めて出会った『人間じゃない存在』だ。精霊で、核があって、何百年も生きてきた。お前を理解するには、まだ時間がいる。でも、好きだって気持ちは確かにある」
彼女はしばらく黙って、それから俺の肩に頭を凭せかけた。光の粒子が、俺たちの周りで静かに舞っていた。
「それで十分。私も時間がいるから」
「何の時間だ」
「人間の気持ちを理解する時間。私はずっと道具だった。でも今は違う。自分の気持ちが、自分のものだとわかるまで、もう少しだけ時間がほしい」
「急がない」
「うん」
「でも、一緒にいる」
「うん」
庭園は静かだった。銀葉樹がかすかにそよぎ、光る花が瞬き、遠くの守護者たちが巡回を続けていた。
明日は、ライラがさらに調査を進めるだろう。ミリが祖父の鍵について何か思い出すかもしれない。そして数日のうちに、「目覚めぬ塔」への遠征の準備が始まる。
でも今夜は、ヴァエリスと二人で、銀葉樹の下に座っていた。
それで十分だった。




