第54章 〜治癒師の言葉〜
朝、温室に行くと、アルテアが新しい芽の前に座り込んでいた。
「おはよう」俺は声をかけた。
「おはようございます」彼女は顔を上げた。目の下にうっすらと隈があった。「昨夜はほとんど寝てません」
「この芽のせいか」
「はい。二時間ごとに光が変わるんです。観察しているうちに朝になってました」
「治癒師が患者より先に倒れたら世話ないな」
「治癒師はたいてい患者より先に倒れます。自分のことは後回しにするものですから」
「説得力がない」
「そうですか」
彼女は笑った。くすくすという短い笑い声だったが、温室のハーブの香りに溶けて、不思議と落ち着く音だった。
「少し休め」
「でも、この芽が――」
「芽は逃げない。お前が一時間寝ても、ちゃんとここにある」
「……一時間だけ」
「約束だ」
「あなたに約束を守れと言われるとは」
「俺は約束を守る男だ」
「知ってます」
彼女は立ち上がり、エプロンの土を払った。温室の光が彼女の半分エルフの耳と、肩にかかる蜂蜜色の髪を透かして、柔らかく輝いていた。
「シン、後で話があります」
「どんな話だ」
「まだうまく言えないけど、でも、今日なら言える気がします。私の気持ちを」
「わかった。いつでも聞く」
「ありがとう」
彼女は小さくうなずいて、温室を出て行った。
午前中、俺は市場の帳簿をミリと一緒に確認していた。自由都市の交易所が完成し、最初の取引が成立したばかりだった。山岳氏族からは黒曜石の追加注文が入り、ヴァルゲルドのパン屋からはリンゴの発注が倍になった。
「好調だな」俺は数字を追いながら言った。
「ええ。でも、帳簿が喜ぶのは私だけです」
「そんなことはない。俺も数字は好きだ」
「前職の名残ですか」
「そうだ。サラリーマンってのは、数字と戦う生き物なんだ」
「サラリーマン。面白い響きです。こちらの世界にはない言葉だ」
「あっちの世界にしかなかった。過労死もな」
「……それは笑えない」
「そうだな」
彼女はペンを置き、しばらく俺を見つめていた。その茶色の瞳の奥に、計算や戦略ではない、何か違う色が揺れていた。
「シン様」
「なんだ」
「私は、あなたに会うまで、誰かのためにこんなに帳簿を広げたいと思ったことはありませんでした」
「それはつまり、俺のために働いてるってことか」
「違います。あなたのために、価値のあるものを作りたいんです。あなたに、この市場を見て、『よかった』と思ってほしい」
「ミリ……」
「私は商人です。商人は打算で動きます。打算じゃないことを言うのは、とても難しい」
「わかってる」
「でも、今日は言います。私は、あなたのためにここにいるんです。利益のためじゃなく、あなたのために」
彼女の手が帳簿の上で硬く結ばれていた。商人が、感情という名の取引を、これほど真剣に行っているのを俺は初めて見た。
「ミリ、俺は――」
「返事はまだ。今日はただ、聞いてくれただけで十分です」
「そうか」
「はい。商人はね、商品を一度に全部は並べないんです。少しずつ、少しずつ」
「ずるいな」
「商人ですから」
彼女は笑った。その笑顔は、計算高い商人の笑みではなかった。ただの、気持ちを伝え終えた女性の笑顔だった。
昼下がり、俺はアルテアを探した。彼女は泉のほとりに座り、ハーブをすり鉢で挽いていた。光り草の光が水面に反射して、彼女の顔に揺れる模様を描いていた。
「一時間寝たか」
「寝ました。四十分だけ」
「十分足りない」
「治癒師としては上出来です」
俺は彼女の隣に座った。泉の水音が、しばらく二人の間に流れていた。
「シン」
「なんだ」
「私、やっと言える気がします」
「聞いてる」
彼女はすり鉢を置き、手についたハーブを膝の布で拭いた。それから深く息を吸い、俺のほうを向いた。
「私は、ここに来るまで、誰かにとっての『一番』になりたいと思ったことがありませんでした。治癒師は患者を癒す。患者は治れば去っていく。それが仕事で、それで十分だと思ってました」
「でも今は違う」
「はい。私は、あなたにとっての一番になりたい。レナやリサンドラや、他のみんなを押しのけて一番になることはできないとわかってる。でも、あなたの中で、私のための場所があれば、それでいい」
「アルテア」
「私は、あなたが好きです。治癒師としてじゃなく、一人の女性として」
彼女の緑の瞳はまっすぐだった。迷いはなかった。何週間もかけて、ゆっくりと言葉を編み、ようやく完成させた告白が、そこにあった。
「アルテア、俺もお前が好きだ」
「……ほんとですか」
「ああ。お前がここに来たとき、怪我をしていて、それでも俺たちを助けようとして、毎日ハーブを摘んで、俺が無茶をするたびに怒って、それでもずっとそばにいてくれた。そんなお前を好きにならないほうが難しい」
「シン……」
「俺はお前の場所をちゃんと持ってる。治癒師としてじゃなく、一人の女性として」
「ありがとう」
「礼はいい」
「礼じゃないです。感謝です」
「……リサンドラと同じことを言うな」
「リサンドラも言いましたか」
「ああ」
「それは光栄です」
彼女は笑った。今度は声が少し震えていて、目の端に涙が滲んでいた。俺はそっと彼女の手を取った。ハーブの匂いがした。カモミールと、ラベンダーと、それから少しだけ、彼女自身の匂いも。
「アルテア、お前は俺の癒しだ」
「……それはずるいです。そんなこと言われたら、また泣く」
「泣いていい」
「治癒師はあまり泣かないんです」
「今日は特別だ」
彼女はしばらく、俺の手を握ったまま、静かに涙を流した。泉の水音が、彼女の泣き声をそっと包み込んだ。
夜、俺はレナの部屋にいた。彼女は寝台に座り、星鉄の短剣を磨いていた。俺が今日あったことを話すと、彼女は手を止めて聞いていた。
「アルテアが告白したのか」
「ああ」
「ミリもか」
「ああ」
「……お前は忙しいな」
「自覚してる」
「私は怒らない。前にも言った。お前はそういうやつだ。一人だけを選ぶのは、お前にできない相談だ」
「レナ」
「だが、私は最初の住人だ。それは変わらない」
「変わらない」
「それでいい」
彼女は短剣を置き、俺の隣に横たわった。手を握る。それが今の俺たちの寝る前の習慣になっていた。
「明日は何があるんだ」
「ライラが調査を続けてる。リサンドラが訓練を続ける。ミリが市場を仕切る。アルテアは芽の観察」
「お前は」
「お前の鼻をつまんで起こす」
「それは私の役目だ」
「たまには代わってもいいだろ」
「……許可する」
「ありがとう」
彼女の尻尾がゆっくりと揺れた。満足、多分。いや、満足以上だ。
窓の外では守護者たちの青い光が静かに瞬き、光り草の帯が夜の森を照らしていた。遠くで、第四階層の銀葉樹が新しい葉を開いている音が、かすかに聞こえた気がした。それは多分、ヴァエリスが手入れをしているのだろう。
いろんな気持ちが、ゆっくりと、でも確実に動いていた。一本ずつ順番にではなく、もつれ合いながら、自然に。
それが、俺たちのやり方だった。




