第53章 〜衛士の選択〜
翌朝、俺の鼻をつまんだのはリサンドラだった。
「起きろ」
「……リサンドラ?」
「訓練の時間だ。お前が来ないので迎えに来た」
「俺は約束を守る。いつも守ってる」
「いつもではない。昨日は三十分遅れた」
「それは寝坊じゃない。戦略的休息だ」
「言い訳だ」
彼女は俺の鼻から指を離し、代わりに俺の手首を掴んで引き起こした。ハイエルフの力は見た目以上だ。俺はなすがままに立ち上がり、寝ぼけ眼で中庭に連れて行かれた。
夜明け前の中庭は冷えていた。リンゴの木がかすかに輝き、光り草の帯が遠くでまたたいていた。守護者たちは巡回を続け、二人分の木剣が泉のそばに用意されていた。
「今日は受け身の練習だ」リサンドラは木剣を手渡しながら言った。
「受け身?俺はもう受け身はできる」
「お前の受け身は『倒れてから起き上がる』だ。それは受け身じゃない。倒れた後の処理だ」
「……厳しいな」
「当たり前だ」
彼女は容赦なく打ち込んできた。木剣が唸り、俺の腕、脚、脇腹を叩いた。何度も転んだ。十回、二十回。でも三十回目には、倒れる前に彼女の動きを読み、受け流すことができた。
「止めた!」
「止めたな」
「今の、止めたよな?」
「止めた。一度だけだが」
彼女はわずかに口元を緩めた。リサンドラの笑顔は、北の大地の雪解けのように貴重だった。
「休憩だ」彼女は木剣を置き、泉の縁に腰かけた。「水を飲め」
「はい、先生」
俺は泉から水を汲み、彼女の隣に座った。朝日がようやく塔の上から顔を出し、中庭をゆっくりと金色に染め始めていた。
「リサンドラ、前から聞きたかったんだが」
「なんだ」
「お前はこれから、何がしたい?」
「どういう意味だ」
「ヴォラスは封じられた。結界は修復された。山岳氏族と和平した。峡谷の欠片も浄化した。お前が八十年前に託された使命は、もう果たされたんじゃないか」
彼女は長い沈黙のあと、ゆっくりと口を開いた。
「使命は終わった。だが役目は終わっていない」
「役目?」
「私は衛士だ。塔を守る。お前を守る。ここに住む者たちを守る。それは使命ではなく、選択だ」
「誰の選択だ」
「私の選択だ」
彼女は俺のほうを向いた。銀の瞳が朝日を受けて、ほとんど透明に輝いていた。
「シン、私は八十年前、多くの仲間を失った。友を、戦友を、カデリスを。それ以来、私は誰にも近づかなかった。近づけば、また失う。そう思っていた」
「でも今は違う」
「ああ。今は失うことを恐れて、得ないまま生きるほうが怖い。お前が教えてくれた」
「俺は何も教えてない」
「教えた。お前の存在が教えた」
彼女の手が、そっと俺の手に触れた。冷たい指先。でもその冷たさの下に、かすかな温もりがあった。彼女はずっと一人で戦ってきた。誰にも触れず、誰にも頼らず。その彼女が、自ら手を伸ばしてきた。
「私はここに残る。それが私の選択だ」
「リサンドラ……」
「それと、もう一つ」
「なんだ」
「お前を守るだけじゃない。私は――」
彼女は言葉を切り、少しだけ俯いた。ハイエルフが言葉に詰まる姿を、俺は初めて見た。
「私は、お前の特別になりたい」
朝日が中庭を満たした。リンゴの木が輝き、泉が歌い、遠くでゴルンの金槌の音が響き始めた。新しい一日が始まろうとしていた。
「リサンドラ、俺は――」
「返事は急がない。私は八十年待った。数日、数ヶ月、数年でも待てる」
「お前はエルフだからな」
「ああ。時間の感覚は人間とは違う」
「でも俺は人間だ。八十年は待てない」
「わかってる。だから――」
彼女は顔を上げ、俺の目をまっすぐに見た。
「私はお前が生きている間に、すべてを伝える。それが私の選択だ」
俺は彼女の手を握り返した。訓練で固くなった指が、俺の手の中でかすかに震えていた。彼女が誰かに手を握られるのは、もしかすると八十年ぶりかもしれなかった。
「ありがとう」
「礼はいい」
「礼じゃない。感謝だ」
「……同じだ」
「違う。礼は義務だ。感謝は気持ちだ」
「そうか」
「ああ」
彼女はしばらく黙って、それから小さく息を吐いた。
「お前は、変な人間だ」
「よく言われる」
午後、俺はライラと図書館にいた。彼女は昨晩遅くまで、「目覚めぬ塔」に関する自由都市の記録を調べていた。目の下にうっすらと隈ができていたが、目は冴えていた。
「いいところに来ました」彼女は俺を見るなり言った。「例の塔について、新しい情報があります」
「どんな?」
「自由都市の記録に、『目覚めぬ塔』の記述がありました。約三百年前に封鎖されたとあります」
「三百年前。この塔と同時期だ」
「ええ。しかも、封鎖の理由が『内部の守護者の反乱』とあります」
「守護者の反乱?守護者が反乱を起こすのか?」
「普通はありえません。守護者は塔に忠実です。でも、記録が正しければ、あの塔の守護者は何らかの理由で狂わされた」
「歪みか」
「おそらく。峡谷の歪みと同じか、もっと古いものか」
俺はフェリクスから渡された地図を広げた。塔の北西、山脈の向こう。そこに「目覚めぬ塔」はある。三百年前に封鎖され、守護者が狂い、今はただの廃墟か、それとも――何かがまだ生きているのか。
「フェリクスが俺たちに探検させたいのは、この塔か」
「はい。彼は古代遺物の収集家です。あの塔には、何か価値のあるものが眠っている。でも、危険すぎて自分では行けない」
「それで俺たちに地図を渡した」
「ええ。私たちが行って、無事に戻って、何かを見つけたら、彼はそれを取引で手に入れようとするでしょう」
「ずる賢い猫だ」
「猫ですから」
彼女は少し笑って、それから真顔に戻った。
「シン、私は行くべきだと思います。ただし準備が必要です」
「どんな準備がいる」
「まず、情報をもっと集めます。自由都市の記録はまだ全部は読めていません。それから、ヴァエリスの言う『呼び声』の正体も確認したい。もしあの塔がまだ生きているなら、ヴァエリスにはそれが感じられるはずです」
「よし、調査を続けてくれ」
「はい。それと――」彼女は少し言い淀んだ。「――もし遠征に行くなら、私も連れて行ってください」
「もちろんだ。お前はこの件の専門家だからな」
「専門家だからですか」
「それもある」
「他には?」
彼女の青い目が、じっと俺を見つめた。ルーンが額と手首に静かに輝いていた。
「ライラ、お前がここに来てからまだ日は浅い。でも、お前はもうこの塔の一部だ。誰かを危険にさらしたくないという意味で言ったんじゃない。お前が必要だから言ってるんだ」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女はうつむいて、それからまた顔を上げて微笑んだ。古代の種族の末裔というより、ただの若い女性に見えた。
夕方、市場をぶらついた。再生市場は今日も活気に満ちていた。ゴルンの鍛冶場からは金槌の音が響き、ドゥルガンは新しい看板を掲げ、セラの織物は飛ぶように売れていた。自由都市の常設交易所もほぼ完成し、フェリクスはその前で優雅に構えていた。
「シン管理者」彼は片眼鏡を光らせて声をかけてきた。「そろそろ例の地図の件、進展はありましたか」
「少しずつな」
「ご謙遜を。あなたの図書館には優秀な記録者がいる。もう何か掴んでいるのでしょう」
「フェリクス、お前はどこまで知ってるんだ」
「私はただの商人です。知っているのは商品の価値だけです」
「その言葉、信じると思うか」
「信じなくて結構です。信頼と事実は別物ですから」
彼はそう言って微笑んだ。油断のならない猫だった。でも今はまだ、敵ではなかった。
夜、俺はレナの部屋を訪ねた。扉は少し開いていた。
「入っていいぞ」
「耳がいいな」
「耳は飾りじゃない」
彼女は寝台に座り、星鉄の短剣を磨いていた。毎晩の習慣だ。窓から月明かりが差し込み、彼女の銀色の髪を照らしていた。
「今日、リサンドラと話した」俺は彼女の隣に座った。
「何を?」
「彼女はここに残る。自分の選択だと」
「そうか」
「それから、俺の特別になりたいと言った」
「……そうか」
「怒らないのか」
「怒る理由はない。前にも言ったが、お前はそういうやつだ。一人だけを選ぶのは、お前にできない相談だ。私は最初の住人だ。それで十分だ」
「お前は強いな」
「強くない。ただ、現実を受け入れてるだけだ。それに――」彼女は短剣を置き、俺のほうを向いた。「私はもう、お前が私の部屋に来るのを待ってた。今ここにいる。それでいい」
「レナ……」
「お前のそういう顔は、少しだけ好きだ」
「どういう顔だ」
「言葉に詰まる顔だ。いつもは無駄に喋るくせに」
彼女は少しだけ笑った。それから俺の手を取って、指を絡めた。
「今日はここにいろ」
「約束はまだ急がないと言ったが」
「急いでない。ただ、一緒に寝るだけだ。前にもそうした」
「そうだったな」
「だから今日もそうしろ」
俺は彼女の隣に横たわった。月明かりの中で、彼女の耳がぴくりと動き、尻尾がゆっくりと揺れた。彼女は俺の肩に頭を凭せかけ、しばらくして静かな寝息を立て始めた。俺は彼女の手を握ったまま、目を閉じた。
明日はまた、やることが山積みだった。ライラは調査を続け、リサンドラは訓練を続け、アルテアは新芽を観察し、ミリは市場を仕切り、ヴァエリスは「呼び声」を追う。そしていつか、「目覚めぬ塔」への遠征があるだろう。
でも今夜は、ただこうしていたかった。




