第51章 〜外交と選択〜
市場が正式に開場してから五日目、フェリクスが再び姿を現した。
今度は一人ではなかった。自由都市の旗を掲げた護衛二人と、書記らしき眼鏡の男を連れていた。猫系の獣人であるフェリクスは、片眼鏡を外し、ゆっくりと塔の門の前に立った。守護者たちが彼を見下ろしていたが、彼は怖じる様子もなく、むしろその金属の巨人たちをじっくり観察していた。
「面白い」彼は言った。「古代のゴーレムがまだ動いている。これだけでも、ここが特別な場所だと分かる」
俺は門まで降りていった。リサンドラが既にそこにいて、腕を組んでフェリクスを見下ろしていた。彼女は背が高い。猫は背が低い。物理的な威圧感は十分だった。
「フェリクス殿、今日はどういったご用件で」
「シン管理者。今日は正式な提案を持って参りました」
「正式な?」
「ええ。自由都市連合は、再生市場に常設の交易所を設置したいと考えています」
俺はリサンドラと目を交わした。彼女の銀の瞳は慎重だったが、否定はしなかった。
「中で話そう」
居間にはすでにミリが待っていた。彼女はフェリクスの来訪を予期していたらしく、机には帳簿と取引条件の草案が広げられていた。共同運営者としての本領発揮だった。
「自由都市の常設交易所」ミリは顎に手を当てた。「それはつまり、そちらの商人がここに常駐し、取引の窓口になるということですか」
「そうです」フェリクスは優雅にうなずいた。「定期的なキャラバンではなく、常に人がいる。そうすれば、緊急の注文にも即座に対応できる」
「条件は?」
「自由都市連合は、この市場で取引される星鉄製品の優先購入権を希望します」
「優先購入権」俺は繰り返した。「それはつまり、他の客より先に買える権利か」
「はい。ただし、全量ではありません。三割です」
「三割」
ミリがすかさず口を挟んだ。「対価は?」
「自由都市連合が持つ交易ネットワークの開放です。現在、再生市場の取引相手はヴァルゲルドと山岳氏族、それに個人の行商人が中心ですが、私たちのネットワークを使えば、南部、西部、さらに遠方の島嶼諸国とも取引が可能になります」
「それは大きい」俺は正直に言った。
「ええ、大きい。しかし同時に、自由都市がこの市場に足場を築くことにもなる」ミリの声は冷静だった。「足場はやがて影響力になる」
「影響力を恐れますか」フェリクスの目が細くなった。
「恐れではない。値踏みしてるんです。商人ですから」
アルテアが茶を運んできた。ハーブの良い香りが居間に広がり、一瞬だけ張り詰めた空気が和らいだ。彼女はフェリクスの前に茶器を置きながら、さりげなく俺のほうを見た。目が「慎重に」と言っていた。
「少し時間をくれ」俺はフェリクスに言った。「これは大きな提案だ。塔の者たちと相談したい」
「もちろんです。良い返事を期待しています」
「期待しないほうがいい。俺は用心深いんだ」
「用心深い管理者。それもまた、この塔が信頼に値する証拠です」
フェリクスが退出したあと、俺は居間に残った者たちを集めた。レナ、アルテア、リサンドラ、ミリ、それからヴァエリスとライラも、少し遅れて加わった。
「優先購入権、三割」俺は切り出した。「悪くない数字だが、自由都市に足場を許すことになる」
「足場は両刃だ」リサンドラが言った。「交易が増えれば、塔の影響力も増す。しかし同時に、自由都市の内部事情に巻き込まれる可能性もある」
「自由都市は一枚岩じゃない」ライラが静かに言った。「彼らは商人の連合体で、内部での駆け引きが激しい。フェリクスはその中でも特に古物を扱う一派に属している。ルーンを読めるということは、古代の遺物に通じている証拠です」
「つまり、彼が本当に欲しがっているのは星鉄じゃないかもしれない」アルテアが眉を寄せた。
「ええ。星鉄は表向きの口実で、本当は塔そのもの、あるいは塔が持つ何かを狙っている可能性もある」
「それなら断ったほうがいいんじゃないか」レナが言った。
「いや」ミリが首を振った。「断るのは簡単ですが、断れば自由都市との取引は縮小します。今、この市場に必要なのは、多様な取引相手です。山岳氏族だけに頼るのは危険」
「山岳氏族は和平したばかりだ」
「和平は永続を保証しない。クランは内部でまだ混乱している。いつまた沈黙するかわからない」
俺は少し黙って考えた。
「よし、こうしよう。優先購入権は認める。ただし二割に抑える。その代わり、自由都市のネットワーク開放に加えて、もう一つ条件を出す」
「何を?」ミリが顔を上げた。
「情報だ。自由都市が持つ古代遺物と神の欠片に関する情報を、すべて開示してもらう」
「……それは」ライラが目を見開いた。「フェリクスが素直に応じるとは思えません」
「応じなければ、取引は成立しない。彼が本当に欲しがっているのが星鉄か、それとも別の何かか、それで分かる」
ミリが帳簿に素早く何かを書き込んだ。彼女の目が戦略家の輝きを帯びていた。
「いいですね。交渉の材料としては上々です」
「交渉は任せていいか」
「もちろんです。共同運営者ですから」
夕方、俺は温室でアルテアと話をしていた。彼女は峡谷から持ち帰った黒い土の鉢をじっと見つめ、新しい芽が出ていないか確認していた。
「芽はまだか」
「まだです。でも、土は生きてる。何かが育つ準備をしてる」
「まるで塔みたいだな」
「ええ」
彼女は鉢を机に置き、俺のほうに向き直った。
「シン、フェリクスのこと、少し気になります」
「どんなふうに?」
「彼の眼鏡の奥の目。あれは商人の目じゃない。収集家の目です。何かを探してる」
「ライラも同じことを言ってた」
「私は治癒師ですから、人の顔をよく見るんです。彼は何かを隠してる」
「どんなことでも、いつかは出てくる。今は様子を見よう」
「……あなたはあまり心配しないんですね」
「心配はする。でも、心配ばかりしてると飯がまずくなる」
彼女は小さく笑った。
夜、中庭でレナと並んで座った。星はなかった。雲が空を覆い、遠くで雷が光っていた。雨の匂いが近づいていた。
「フェリクスは信用できない」レナが言った。
「お前もか」
「耳がそう言ってる。あの猫は何かを探してる。市場じゃなくて、別の何かを」
「塔の中にか」
「多分。でも今は分からない」
「なら、しばらくは泳がせておく。取引はする。でも塔には入れない。それは絶対だ」
「賢明だ」
「賢明な管理者、か」
「いつもそうだとは言ってない」
雷が近づいた。最初の雨粒が、リンゴの木の葉を叩いた。レナは立ち上がらず、俺の肩に凭れかかってきた。
雨はすぐに本降りになった。軒下に走り込むこともできたが、俺たちはしばらくそのままだった。濡れることは大したことじゃなかった。こうして二人でいることのほうが大事だった。
翌朝、ミリがフェリクスとの交渉をまとめあげた。優先購入権は星鉄の二割。代わりに自由都市の交易ネットワークの開放と、古代遺物に関する情報の共有。フェリクスは最後の項目に渋ったが、最終的には受け入れた。
「賢いですね、シン管理者」フェリクスは書面に署名しながら言った。「しかし、情報の共有は約束です。我々が持つすべての古代遺物の記録をお見せしましょう」
「楽しみにしている」
「ええ。きっと面白いものが見つかりますよ」
彼の片眼鏡の奥で、何かがきらりと光った。ライラはそれを見て、俺の袖をそっと引いた。
「やはり彼、何か探してます」
「ああ」
「気をつけて」
「任せろ」
自由都市の常設交易所は、市場の東端に設けられることになった。ヴェラスが新しい建材を削り出し、ゴルンが金具を鍛え、セラが旗を織った。旗の意匠は、塔とリンゴと、自由都市の鎖の輪。三つの象徴を組み合わせたデザインだった。
工事が始まるのを見ながら、俺はミリに言った。
「これで市場はまた一段、大きくなるな」
「ええ。でも、それだけ目立つようにもなる」
「どういう意味だ」
「自由都市がここに拠点を置けば、それを面白く思わない勢力も出てくる。ヴァルゲルドの既存の商人連中、それからまだ接触のない北方のクラン。それに――」
「それに?」
「フェリクスが探してるものが、もし本当に危険なものだったら、それを狙う者たちもいるかもしれない」
俺は雨上がりの空を見上げた。雲はまだ完全には晴れていなかったが、光り草の帯が市場の周囲で静かに輝いていた。守護者たちはいつも通り巡回を続け、塔の上層では、ヴァエリスが銀葉樹の世話をしていた。
問題は尽きない。それがこの塔の日常だ。でも今は、解決できない問題はなかった。まだ、なかった。
その夜、図書館でライラと二人、古代の巻物を広げていた。彼女はフェリクスが提供した情報の中に、ある一節を見つけたのだ。
「見てください、シン。この地図です。自由都市の記録にあったものですが、ここに印があります」
「どこだ?」
「この塔です。そしてここ――」彼女の指が、塔のはるか北西、山脈を越えた場所を指した。「――もう一つの塔です」
「もう一つの塔」
「ええ。記録には『目覚めぬ塔』と書かれています」
「生きてるのか」
「分かりません。でもフェリクスは、この地図を私たちに渡した。つまり、彼はこの塔の存在を知っていて、私たちがどう反応するかを見ている」
俺は地図をじっと見た。塔の北西。山脈の向こう。かつては何かがあった場所。今はただの廃墟か、それとも――もう一つの目覚めを待つ塔か。
「フェリクスは、俺たちに探させたいのか」
「おそらく。彼は古物収集家です。自分で危険を冒すより、誰かに探検させて、その結果を手に入れたい」
「それで、俺たちはどうする」
「私なら、行きます。でも一人では行かせません」
「誰を連れて行く?」
「あなたです。それから、レナかリサンドラ。少人数がいい」
「アルテアは?」
「治癒師は塔に残したほうがいい。でも、彼女には事前に相談してください。怒りますから」
「怒るか」
「ええ。優しい人は、置いていかれると怒るんです」
俺は少し笑った。ライラも微笑んだ。
「分かった。でも急ぐ話じゃない。まずは情報を集めよう」
「はい。ゆっくり、慎重に」
彼女はそう言って、また巻物に目を落とした。俺は窓の外を見た。塔の中庭では、リンゴの木が雨に濡れて、月明かりの代わりに自らの光で輝いていた。レナが部屋の窓から顔を出し、俺に気づいて小さく手を振った。俺も振り返した。
塔は今日も平和だった。
でも平和は、守るために時々、外に出て危険を確かめることも必要だった。今はまだその時じゃない。でも近いうちに、その時が来るだろう。今はまだ、雨上がりの静かな夜だった。




