第50章 〜市場開き〜
再生市場の開場日は、雲ひとつない晴天になった。
朝日が中庭のリンゴの木を透かして、無数の光の粒を地面に落としている。こんな日に雨が降ったら呪いだと思っていたが、どうやら神々は俺たちに味方したらしい。元・神がこの塔の壁そのものになっているのだから、当然かもしれない。
「シン、起きてるか」
レナの声だ。今日は鼻をつままれなかった。進歩だ。
「起きてる」
「嘘つけ。目が閉じてる」
「開いてる。まぶたの裏で市場の全景を見てるんだ」
「それは想像と言うんだ」
彼女は呆れたように息を吐いたが、口元はわずかに緩んでいた。俺は寝台から起き上がり、彼女の手をそっと握った。彼女は少しだけ驚いた顔をして、それから握り返してきた。もう何度目かの、朝の儀式になりつつある仕草だった。
「今日は大事な日だ」
「わかってる」
「お前の市場だ」
「みんなの市場だ。お前も、朝のパンを焼いたセラも、屋根を葺いたヴェラスも、金具を打ったゴルンも、日除けを織ったセラも」
「セラを二回言った」
「それだけすごい」
彼女は鼻を鳴らしたが、尻尾はゆっくりと左に振れていた。
市場は、塔の正面の空き地に、三棟の建物として完成していた。中央が交易所、右が食堂と休憩所、左が工房と倉庫だ。壁はこの森で伐り出した木材と、塔の外周から運んだ石材を組み合わせてある。屋根にはセラが織った丈夫な日除け布が張られ、その縁には双子たちが色を塗った小さな木札が揺れていた。
「立派なもんだ」俺は朝日の中で市場を眺めながら言った。
「当然です」ミリが隣に並んだ。今日の彼女は、いつもの旅装束ではなく、ヴァルゲルドから取り寄せた商人の正装だった。濃い緑の上着は彼女の茶色い瞳を引き立て、肩には再生市場の紋章――塔とリンゴを組み合わせた意匠――が刺繍されていた。「共同運営者として、この日のために仕立てました」
「俺のは?」
「あなたのはありません」
「なぜだ」
「あなたは塔の管理者でしょう。市場に出るときは、ここの住民だという顔をしていればいいんです」
「つまり、普段着でいいと」
「正装です。普段着のままでいいというのが、ここの正装です」
彼女はにっこり笑った。一本取られた。
客はゆっくりと集まり始めた。ヴァルゲルドからの商人たちは、ミリが手配した馬車で早朝に到着した。ドゥルガンは自分の工房の看板を持ってきて、ゴルンの鍛冶場の隣に構えた。山岳氏族からは、峡谷の生き残りを代表して、あの隻眼の坑夫長が数人の若者を連れて訪れた。彼らは和平の証として、坑道で採れた黒曜石の塊を寄贈してくれた。
最も驚いたのは、自由都市からの使節団だった。ゴルンが話していた南部の商人連合から、正式な交易の申し入れが届いたのだ。使者は猫系の獣人で、名をフェリクスといった。細身で、片眼鏡をかけ、絶えず微笑を絶やさない、油断のならないタイプだった。
「これが再生市場ですか。噂以上に活気がある」
「まだ開場したばかりだ。これからもっと増える」
「期待しています。自由都市は、歪みのない星鉄に非常に興味があります。それから、かの光り草の種も」
「種の取引はアルテア――うちの治癒師が管理してる。あとで話してくれ」
「承知しました」
フェリクスが去ったあと、ライラがそっと近づいてきた。
「彼、額にルーンを隠しています」
「ルーンキャリアか?」
「いいえ、あれは違う。でも、ルーンを読める者だ。おそらくは古代の遺物を扱う商人です」
「要注意か」
「観察は必要です。でも敵ではないと思います。私と同じように、ただ古いものに惹かれているだけかもしれない」
アルテアは食堂の隅に小さな診療所を開いていた。市場で働く者が怪我をしたときのために、包帯や軟膏を並べ、緊急用の光り草の種も用意していた。
「患者はまだゼロだ」俺は様子を見に寄った。
「それが一番いいんです。治癒師としては、患者がいない日が幸福ですから」
「でも退屈か?」
「少し」
「なら、俺が怪我をしてこようか」
「しないでください」
彼女は俺の腕をぎゅっとつねった。けっこう痛かった。
ヴァエリスは市場の中央に立って、ゆっくりと周囲を見回していた。彼女はまだ「市場」というものを完全には理解していなかった。何しろ、つい数週間前まで封鎖室で眠っていた精霊だ。
「シン、これが取引ですか」
「そうだ。物と物を交換したり、お金で買ったりする」
「人と人が、どうして見知らぬ者と信頼して取引できるの?」
「それが市場のルールだ。信頼を積み重ねる場所なんだよ」
「……面白い。私たちの世界にはなかった。あるのはただ、力と力の交換だけ」
「どっちがいいと思う?」
「こっちのほうがずっといい」
彼女はそう言って、青白い指で俺の手にそっと触れた。光の感触が、ほんの少しだけ温かかった。
昼過ぎ、リサンドラが市場の外周を巡回していた。
「人が多いな」彼女は言った。「守護者たちは警戒を続けている。問題はないが、見知らぬ顔が増えると、目が足りなくなる」
「お前にばかり負担をかけて悪い」
「負担じゃない。役目だ。それに――」
「それに?」
「お前が築いたものを見ていると、誇らしい」
「……リサンドラがそんなことを言うなんて」
「私だって、たまには言う」
彼女はそれだけ言って、また巡回に戻っていった。背中がいつもより少しだけ、柔らかかった。
夕方近く、レナと二人で市場の裏手の丘に座った。ここからは塔の全景と、その前に広がる市場の屋根が見渡せた。光り草の帯が、ちょうど夕日を受けて輝き始めていた。
「すごいな」レナが言った。
「お前がそう言うの、珍しい」
「事実だ。私はお前が最初にここに来たときを知ってる。リンゴと水しかなかった。今は、市場があって、人が集まって、向こうから交易の使者が来てる」
「あのときは、まさかこうなるとは思わなかった」
「私もだ」
「でも、ここにいる」
「いる」
彼女は俺の肩に頭をもたせかけた。尻尾がゆっくりと揺れていた。満足。多分、満足以上だ。
夜、市場の初日を祝って、塔の居間でささやかな宴が開かれた。セラが腕によりをかけた料理の数々。ゴルンがどこからか見つけてきた果実酒。ヴェラスが削った新しいジョッキ。全員が笑い、食べ、飲み、そして少しだけ歌った。リサンドラが古いエルフの歌を口ずさみ、ヴァエリスがそれに精霊のハミングを重ねた。ミリは帳簿を閉じて、今日の売り上げを延々と語りたがったが、誰も止めなかった。
俺は静かに席を立ち、少しだけ中庭に出た。リンゴの木が月明かりに照らされていた。三百年前からここにある木だ。神の一部を宿した木。
「シン」
アルテアだった。
「どうした?」
「少しだけ、いい?」
「ああ」
彼女は俺の隣に立った。月明かりが彼女の半分エルフの耳と、肩にかかる髪を銀色に染めていた。
「今日、市場で、たくさんの人が笑ってた。怪我もなかった。病気の人も来なかった」
「それはいいことだ」
「ええ。それでね、私、前にも言ったけど、もう少しでちゃんと言葉にできる気がする。あなたへの気持ちを」
「アルテア」
「だから、あと少しだけ待ってて」
「待つ」
「ありがとう」
彼女は微笑み、そして背伸びをして、俺の頬にそっとキスをした。唇の感触は柔らかく、ほんの一瞬だった。それから彼女は恥ずかしそうにうつむき、くるりと背を向けて、居間に戻っていった。
俺はしばらく、その場に立ち尽くしていた。頬が温かかった。
宴が終わり、部屋に戻ろうとしたとき、廊下でレナが待っていた。
「アルテアがお前にキスした」彼女は言った。尻尾はゆっくり揺れている。怒りではない。確認だ。
「頬にだ」
「私は唇にした。二回も」
「記録更新中だな」
「ばか」
彼女は一歩近づいて、俺のシャツの襟を掴み、そして今度は――唇にキスをした。三度目だ。短かったが、前より少しだけ長かった。
「更新」
「……ずるい」
「私は最初の住人だからな」
彼女はふん、と鼻を鳴らして自分の部屋に消えた。俺は苦笑して、自分の部屋に戻った。
寝台に横たわり、天井の木目を眺めながら、今日一日を思い返した。市場が開き、人が集い、取引が生まれ、平和が形を持ち始めた。何より、ここにいる全員が、それぞれのやり方で、それぞれの速度で、前に進んでいた。
それは、かつて過労死したサラリーマンには想像もできなかった光景だった。今はここが俺の世界で、ここの人たちが俺の――家族だった。そして何人かは、家族以上の何かになろうとしていた。
焦らなくていい。彼女たちは待つと言い、俺も待つ。でも、その糸は確実に、少しずつ、絡まりながら強くなっている。
窓の外で、守護者たちの青い光が静かに瞬いていた。市場の屋根の上で、光り草が帯のように輝いていた。
明日もまた、朝が来る。新しい取引が生まれ、新しい会話が交わされ、そして多分、誰かが俺の鼻をつまむだろう。




