第47章 〜峡谷の入り口〜
三日目、峡谷の入り口に着いた。
「これが峡谷か」俺は絶句した。
崖だった。いや、崖というより、大地が裂けた傷跡だ。幅は優に百メートルを超え、向こう岸は朝靄にかすんでいた。崖下からは、かすかに紫の光が漏れていた。朝だというのに、淀んだ夕暮れのような色だった。
「これが歪みの光です」ライラが崖っぷちに立って、額のルーンを輝かせながら言った。「砕けた塔の欠片が、まだこの地を汚染している証拠。百年以上経っても消えない」
「山岳氏族はどこにいるんだ?」
「あれです」
彼女が指さした先には、崖の縁にへばりつくように建つ監視所があった。石造りで、かつては塔だったのかもしれない。しかしその表面は、溶けた蝋のように歪んでいた。窓だったはずの穴は涙の形に曲がり、扉は枠ごと斜めにずれていた。
「あれが……」レナが息を呑んだ。「砕けた塔の廃墟?」
「ええ。中は空洞で、峡谷の底まで続いている。山岳氏族は、あの内部で採掘を行っていた」
「その結果が、あの紫の光か」
「そうです」
リサンドラが剣を抜いた。エルフの刃が、歪んだ空気の中でかすかに震えていた。
「何かいる」
「影か?」俺は身構えた。
「違う。生きてる。呼吸してる」
監視所の入り口から、ゆっくりと影が伸びてきた。人の形だった。いや、かつて人だったものだ。手足はある。頭もある。しかし全身が、同じように溶けて歪み、肌は蝋のように半透明で、中に紫の光が脈打っていた。目は虚ろで、口はだらりと開いていた。
「歪みに侵された者です」ライラが静かに言った。「山岳氏族の鉱夫でしょう。欠片を掘り出そうとして、代わりに呪いを受けた」
「生きてるのか?」ゴルンならこう言うだろうな、と俺は思った。
「生きてはいません。でも死んでもいない。ただ、歪みの一部になって、ここを守っている」
その元鉱夫が、ぎこちない動きで俺たちのほうに歩き出した。攻撃的ではない。しかし、明らかにこちらの存在を感知していた。俺は管理ツールを構えた。星鉄の刃が、紫の光を反射して青白く輝いた。
「戦うのか?」レナが短剣を抜いた。
「こいつらに罪はない」リサンドラが言った。「できれば無力化したい」
「方法は?」ライラが額のルーンを輝かせながら言った。「私がルーンで一時的に眠らせることができる。ただし全員は無理。数が多すぎる」
「何人いる?」
「崖の側面を見てください」
見た。崖の裂け目、廃墟の窓、陰になった岩場――そこかしこから、同じような歪んだ人影が現れ始めていた。十?二十?いや、もっとだ。彼らは何も言わず、ただゆっくりと俺たちを取り囲もうとしていた。
「……多いな」
「ええ」
「逃げるか?」
「どこに?」レナが左を見た。崖。
「右も崖だ」リサンドラが右を見た。
「後ろも崖じゃない。森だが、あいつらに追われると塔に戻るしかない」
「つまり、前に進むしかない」俺は言った。「あの監視所を突破して、峡谷の内部に入る」
全員がうなずいた。相談は早い。いつものことだ。
ライラが一歩前に出た。彼女の額と手首のルーンが、青白い光を放ち始めた。古代の文字が宙に浮かび、空気が震えた。
「道を開けます。ただし十秒だけ。その間に走ってください」
「十秒?」
「十二秒が限界です」
「よし、十二秒だ」
彼女はルーンを掲げた。青い光が波紋のように広がり、歪んだ者たちに触れると、彼らは動きを止めた。眠るように立ち尽くし、紫の光が一時的に弱まった。
「今!」
俺たちは走った。監視所の歪んだ扉をくぐり、内部へ。そこはかつて塔の入り口だった場所で、今は崩れた石材と溶けた鉄骨が散らばる暗い空洞だった。中央には、底の見えない縦穴が口を開けていた。紫の光が、下から脈打っている。
「この穴が峡谷の底まで続いてるのか?」俺は息を切らしながら尋ねた。
「はい。ただし道は安全じゃない」ライラは背後を振り返り、歪んだ者たちがまだ動いていないのを確認した。「今のうちに降りましょう」
俺たちは縦穴に取り付いた。壁には古い梯子の残骸や、崩れた足場がわずかに残っていた。リサンドラが先頭で、エルフの軽やかさで岩を伝い降りる。レナが俺の隣で、いつでも手を貸せる位置にいた。ライラはルーンで周囲を照らし、歪みの強い場所を警告した。
途中の足場で、俺たちは少しだけ息を整えた。
「山岳氏族の生き残りはどこにいると思う?」俺は尋ねた。
「おそらく、もっと深い場所」ライラは答えた。「欠片を封じ込めるために、彼らは坑道を掘り続けてる。出口を塞がれて、中で籠城しているのでしょう」
「食料は?」
「もう尽きているかもしれません」
「なら急ごう」
降下を続けるうちに、俺はリサンドラの隣に並んだ。彼女は無言で、壁面の岩を調べながら進んでいた。
「さっきの戦闘回避は、良い判断だった」俺は言った。
「戦うべき敵ではなかった。それだけだ」
「それだけか」
「……お前は、私の過去を知っている。私はかつて、多くの敵を倒した。しかし倒すことが目的になってはいけない。守ることが目的だと、この塔で思い出した」
「俺もだ。最初は塔を守ろうとしてた。今は塔の人を守りたい」
「人、か」
「お前も含む」
彼女は少しだけ足を止めた。それから、ほんの一瞬だけ、俺の手をぎゅっと握った。
「含まれていることは、とっくに知っている」
それだけ言って、また降り始めた。
俺はしばらくその感触を手のひらに残したまま、後に続いた。
底に近づくにつれて、紫の光は強くなり、空気は重くなった。マナが歪んでいるのだ。ライラは額のルーンを輝かせて、その歪みから俺たちを守ってくれた。彼女の種族の特性だ。
やがて、人の気配がし始めた。松明の煙の臭い。金属を打つ音。かすかな話し声。
「生き残りだ」レナが耳を立てた。「十数人はいる。それと、負傷者も」
「武装は?」
「している。でも戦闘態勢じゃない。どちらかというと……怯えてる」
「当然だ」リサンドラが言った。「何日もこの坑道に閉じ込められ、上には歪んだ仲間がいる。食料も尽きかけている。怯えないほうがおかしい」
最後の縦穴を降りると、目の前に坑道が広がった。天井は高く、かつては採掘場だったのだろう。壁には鉱脈の跡があり、所々に放棄されたツルハシが転がっていた。そして、かがり火の周りに集まった、数十人の人々。山岳氏族の鉱夫たち。
彼らは俺たちを見ると、最初は武器を構えた。しかしライラが前に出て、額のルーンを光らせ、古代の言語で何かを語りかけた。すると彼らは武器を下ろした。というより、力が抜けたように座り込んだ者もいた。
「何と言ったんだ?」俺は尋ねた。
「『浄化を携えし者が来た。塔が目覚めた。終わりは近い』と」
「……ずいぶんドラマチックだな」
「古代のルーンキャリアは、そういう言い方をします。威厳が大事なので」
鉱夫たちのリーダーらしき男が近づいてきた。煤と汗にまみれ、片目は包帯で覆われていたが、残った片目は鋭かった。
「あんたがたは……塔から?」
「そうだ」俺は答えた。「歪んだ欠片を浄化するために来た」
「あんたがたが来るのを待っていた。我々のクランはもう力尽きかけている。食料も、水も、松明も尽きる。何より――あれが、もうすぐ目を覚ます」
彼は坑道の奥を指さした。そこには巨大な岩の扉があり、その隙間からは耐え難い紫の光が漏れていた。扉に刻まれたルーンはひび割れ、ほとんど効力を失っていた。そして、扉の向こうからは、低い、腹に響くような振動が絶え間なく伝わってきた。心臓の鼓動。巨大な、歪んだ心臓の鼓動。
「あれが欠片か?」俺は尋ねた。
「ああ。我々は掘り出して利用しようとした。馬鹿だった。あれは利用できるものじゃない。封印すべきものだった」
「それを今から浄化する」
俺が言うと、リーダーは疲れ果てた顔でうなずいた。
「必要なものがあれば言ってくれ。何もないが、人ならいる。ツルハシならある」
「道具は自分たちで持ってきた。封じる技術も。お前たちは安全な場所に下がっていてくれ」
「……感謝する」
リサンドラとレナが扉の前で構えた。ライラはルーンを準備し、俺は管理ツールを起動した。塔の浄化機能は、遠く離れた塔とリンクしている。ヴァエリスの核と、第四階層の神の欠片を通じて。
「準備はいいか?」俺は言った。
「いつでも」レナが短剣を構えた。
「問題ない」リサンドラが長剣を掲げた。
「ルーンは安定しています。あとは扉を開けるだけ」ライラがうなずいた。
鉱夫たちが岩の影に退避するのを確認し、俺は扉の封印に手を当てた。塔の記録が浮かび上がる。
『塔の記録』
歪んだ神の欠片を検出
浄化プログラムを起動します
注意:浄化には管理者のマナ供給と、浄化対象への物理的接触が必要です
「またマナ供給か」俺はつぶやいた。
「今回は私も手伝う」レナが言った。「星鉄の刃を通して、ライス・エテルナの光を流せる」
「私も」リサンドラが言った。「エルフの剣には浄化のルーンが刻まれている」
「私のルーンも使ってください」ライラが額に手を当てた。「これが私の役目です」
俺は四人で同時に扉に触れた。シンのマナ、レナの光、リサンドラのルーン、ライラの古代文字。四つの力が絡まり、歪んだ扉を包み込んだ。
扉が悲鳴を上げた。紫の光が激しく明滅し、向こう側で何かが咆哮した。しかし浄化の光は少しずつ、しかし確実に歪みを溶かしていった。
「もう少しだ」俺は歯を食いしばった。
「手を離すな」レナが叫んだ。
「離さない」リサンドラ。
「離しません」ライラ。
扉が砕けた。
そして向こう側には、何もなかった。いや、あったのはただ、静かに輝く小さな結晶だけだった。歪みが浄化され、残ったのは神の欠片の純粋な核。歪む前の、本来の姿。
俺はそっとそれを拾い上げた。冷たく、しかし穏やかな光を放っていた。どこかで見た光に似ている――塔の、ヴァエリスの、ライス・エテルナの光に。
「浄化完了です」ライラが微笑んだ。
坑道の紫の光が消え、歪んでいた鉱夫たちも、地上で動きを止めた者たちも、すべて静かに土へと還っていった。彼らの苦しみも終わったのだ。
鉱夫のリーダーが近づいてきた。
「……終わったのか?」
「ああ」
「あんたがたは、我々の命の恩人だ。山岳氏族はこの借りを忘れない」
「停戦が切れたままだが」
「停戦どころじゃない。我々は内部から立ち直らなければならない。それに――」彼は俺たちを見回した。「塔と敵対するのは、もう無意味だとわかった」
「なら、和平といこう」俺は手を差し出した。
「和平だ」
彼はその手を握った。
地上に戻ると、空は青かった。歪みは消え、峡谷は静かな廃墟に戻っていた。かつては砕けた塔があり、今はただの岩山だ。
「ライラ」俺は言った。「浄化できたぞ」
「ええ」彼女は額のルーンを消しながら、少し疲れた顔で微笑んだ。「私の役目も一つ終わりました」
「お前の使命はまだ続くんだろう」
「はい。でも、少し休んでもいいかなと思って」
「塔でか?」
「……招いてくれますか?」
「もう招いてる」
彼女は嬉しそうにうなずいた。百四十二歳のルーンキャリアが、少女のように。
帰り道、俺たちは四人で言葉少なに歩いた。峡谷での戦いの疲れもあったが、それ以上に、また世界が少し良くなったという実感があった。
「なあ、レナ」
「なんだ」
「戻ったら、約束を果たす」
「……覚えてたのか」
「忘れるわけがない」
彼女は少し赤くなった。多分、夕日のせいだ。
リサンドラが隣で小さく笑った。聞こえないふりをした。
ライラは空を見上げて、何か古代の歌を口ずさんでいた。
塔への帰り道は、来るときよりもずっと穏やかだった。




