第46章 〜旅立ちと絡まる糸〜
夜明け前、誰かが俺の鼻をつまんだ。
「起きろ」
「……起きてる」
「目が閉じてる」
「起きてるけど目を閉じてる。それが俺の流儀だ」
「それは寝てるって言うんだ」
レナだった。まただ。
「今回は遠征の朝だぞ」俺は片目を開けた。「特別な朝だ。あと五分寝かせろ」
「三分だ」
「四分」
「交渉するな」
彼女はそう言うと、俺の頬をつついた。指の背で、軽く。それはつつくというより、ほとんど触れているだけの仕草だった。俺は彼女の手をそっと掴んだ。
「わかった。起きる」
「よし」
「でも手は離さない」
「……ばか」
彼女は手を離さなかった。しばらくそのままだった。朝日が窓から差し込んで、彼女の銀色の髪に触れていた。
居間では、旅支度が整っていた。ゴルンが人数分の保存食を用意し、アルテアが救急袋を詰め、ヴェラスが杖を削り、セラが外套のほつれを縫っていた。双子たちは眠そうに目をこすりながら、それでも見送りのために起きていた。
「全員、早起きだな」俺は言った。
「当然だ」ゴルンが答えた。「市場の建築は今日も続く。見送りをしてから作業だ」
アルテアが歩み寄り、小さな布袋を差し出した。
「光り草の種です。三つ。もし闇に遭遇したら、地面に落として水をかけてください。一時的な結界ができます」
「ありがとう」
「……気をつけて」
彼女はそう言って、俺の手を両手で包んだ。治癒師の手は、いつもわずかに冷たく、ハーブの匂いがした。
「治癒師として言います。無茶をしないで」
「俺はいつも無茶をしてるか?」
「いつもです」
「それなら、いつも生きて帰ってる」
「それは詭弁です」
「詭弁でも真実だ」
彼女は少し笑った。短く、音楽のような笑いだった。それから一歩下がり、今度はリサンドラに向き直って同じ布袋を渡した。
「衛士にも。もしシンが無茶をしようとしたら、止めてください」
「止める。だが、こいつは止めても動く」
「知ってます」
ヴァエリスが近づいてきた。彼女の胸の核は、前よりも落ち着いた光を放っていた。
「私は塔に残る。でも、あなたがたが旅をしている間、ずっと見守ってる」
「見守る?」
「塔を通じて。塔の記録は遠くまで届く。もし危険があれば、感じることができる」
「便利だな」
「ええ。それと、シン」
「なんだ?」
「戻ってきたら、また庭園に行きましょう。あの銀葉樹の下で、話したいことがある」
「話?」
「まだ内緒」
彼女はいたずらっぽく微笑んだ。何世紀も生きた精霊が、そんな顔をするとは思わなかった。
ミリはすでに戸口に立っていた。彼女は遠征には同行しない。市場の準備と、ヴァルゲルドとの取引があるからだ。しかし、その手には小さな包みがあった。
「星鉄の護符です」彼女は包みを開いた。中には、星鉄を薄く延ばして作った小さな円盤が三つ。それぞれに塔の印が刻まれている。「ドゥルガンに作らせました。魔法の力はないけど、持ち主のマナに反応して温かくなる。あなたがたが無事かどうか、それでわかる」
「つまり生存確認のお守りか」
「そうです。商人は投資を守るものです」
「俺たちは投資か?」
「私にとっては、最高の投資です」
彼女はそう言って、護符を俺、レナ、リサンドラに手渡した。俺の手に触れた彼女の指は、驚くほど熱かった。冷たい朝の空気の中で、そこだけが燃えているようだった。
「ミリ」
「なんでしょう」
「帰ってきたら、市場の共同運営者にしてやる」
「……それはプロポーズですか?」
「人事だ」
「残念」
彼女は笑った。でもその目は、笑っていなかった。何かもう少し深いものが、その茶色の瞳の奥に揺れていた。
俺たちは塔を出た。守護者たちが門の前で直立し、光り草の帯が朝日の中で輝いていた。東へ続く道は、まだ暗い森に包まれていたが、空はもう白み始めていた。
リサンドラが先頭を歩き、レナがその隣、ライラが少し後ろ、俺は最後尾だった。しばらくは誰も口を開かなかった。森は静かで、ヴォラスが封じられてからというもの、影のかけらさえ見かけなくなっていた。平和だった。しかしそれは、新しい脅威がないことを意味しなかった。
最初の休憩は小川のほとりだった。リサンドラが水を汲み、レナが見張りに立ち、ライラが地図を広げた。俺は岩に腰掛けて、息を整えた。
「シン」リサンドラが突然言った。
「なんだ?」
「お前は、なぜ私を遠征に選んだ?」
「戦力として当然だろ。お前は一番強い」
「それだけか?」
「それだけじゃない。お前が行きたがってたからだ」
「私が?」
彼女は水筒を下ろし、俺を見つめた。銀の瞳が、朝日の中でほとんど透明に見えた。
「お前は前から、塔の外に出たがってた。封鎖室が開いて、守護者が起きて、ヴォラスが封じられて……お前の役目は一段落した。でも、まだ何か足りないって顔をしてた」
「……私はそんなに分かりやすいか?」
「八年じゃなくて、八十年前からお前を見てたわけじゃないからな。でも最近は、少しわかるようになった」
リサンドラはしばらく黙っていた。それから、水筒を置き、俺の隣に座った。
「八十年前、私は多くの仲間を失った。友も、戦友も、竜も。それ以来、私は誰にも近づかなかった。近づけば、また失うと思ったからだ」
「リサンドラ……」
「でも、この塔に来てから、私はまた誰かのそばにいることを覚えた。お前のそばに、レナのそばに、アルテアのそばに。それは怖い。失うかもしれない。しかし、失うことを恐れて、得ないまま生きるのは、もっと怖い」
「それは……」
「それだけだ」
彼女は立ち上がり、水筒を手に取った。しかし、一歩踏み出す前に、俺の肩に手を置いた。軽く、しかし確かに。
「感謝している。そして、今回は私がお前を守る」
「俺もお前を守る」
「守られるのは慣れていない」
「俺もだ。お互い様だ」
彼女は微笑んだ。ほんの少し、口元が動いただけだった。でも、それはリサンドラにとっては、最大の笑顔だった。
午後、ライラが道を外れた。古い石碑を見つけたのだ。苔に覆われ、ほとんど読めなかったが、彼女はその前に膝をつき、指で表面をなぞった。
「古代の道標です」彼女は言った。「おそらく、砕けた塔がまだ機能していた時代のもの」
「読めるのか?」
「ルーンキャリアですから」
彼女は目を閉じ、指を石碑の上で動かした。青いルーンが彼女の額と手首に浮かび上がり、石碑と共鳴した。
「ここには、『東の峡谷に神の涙あり。求むる者は浄化を携えよ』と書かれています」
「神の涙?」
「おそらく、歪んだ欠片のことをそう呼んでいたのでしょう。浄化を携えよ、というのは……」
「塔の浄化機能を持って来い、という意味か」
「はい。まるで誰かが、未来の訪問者に宛てたメッセージのようです」
彼女は立ち上がり、土を払った。その拍子に、彼女の手が俺の腕に触れた。ルーンの刻まれた指が、ほんの一瞬、俺の肌に触れた。
「あ、すみません」
「いや」
「あなたのマナは、とても穏やかですね。塔の影響でしょうか」
「わからない。でも、前の世界ではこんなマナなんてなかった」
「前の世界?あなたは異世界から?」
「ああ、そういえば言ってなかったな。俺は転生者だ。日本の会社で過労死して、ここに来た」
彼女は目を丸くした。百四十二年も生きていても、驚くことはあるらしい。
「神があなたを選んだ理由が、少しわかりました。異世界の魂は、こちらのマナに縛られません。あなたは自由なんです」
「自由?」
「運命の束縛からも、神々の遺志からも、ある程度は自由。だからこそ、塔はあなたを管理者に選び、神はあなたに最後の欠片を託した」
「俺はただのサラリーマンだったんだが」
「サラリーマン?」
「あとで説明する。長い話だ」
彼女は笑った。今度はさっきよりも自然な笑顔で、年相応の重みが少し抜けたように見えた。
「楽しみにしています、シン」
夜、俺たちは丘の上に野営した。東の空には、かすかに歪んだ紫の光が見えた。峡谷の方角だ。
番はレナが最初、次にリサンドラ、最後に俺が引き継ぐ手はずだった。しかし、眠りにつく前、俺は焚き火のそばで横になりながら、天幕の外を見ていた。
レナが隣に来た。
「眠れないのか?」
「ああ。いろいろ考えてる」
「何を?」
「お前のこと。リサンドラのこと。アルテアのこと。ヴァエリスのこと。ミリのこと。それからライラのこと」
「多いな」
「自覚してる」
「……私は怒らない」
「怒ると思ってた」
「以前なら怒った。でも今は……お前はそういうやつだって、わかってる。一人だけを選ぶのは、お前にできない相談だ。いや、お前だけじゃない。この塔の在り方そのものが、そうなってる」
「レナ……」
「私は最初の住人だ。それで十分だ」
彼女は俺の手を取った。指を絡めて、ぎゅっと握った。俺も握り返した。焚き火がはじける音だけが、しばらく二人の間に流れていた。
「戻ったら、約束を果たせ」レナが言った。
「お前の部屋に行く約束か」
「そうだ」
「必ず」
彼女はうなずき、それから身を乗り出して、俺の頬に口づけた。唇ではなく、頬に。それは初めての仕草だった。
「おやすみ、シン」
「おやすみ、レナ」
彼女は立ち上がり、自分の天幕に戻っていった。俺は焚き火を見つめながら、いろんな顔を思い浮かべていた。銀の髪、緑の瞳、銀の瞳、青い光、茶色の瞳、そして青いルーン。
リサンドラの感謝。アルテアの心配。ヴァエリスの秘密の話。ミリの熱い指。ライラのルーンと微笑み。そしてレナの存在。
すべてが絡まりながら、ゆっくりと動いていた。一本ずつ順番にではなく、もつれ合いながら、自然に。
それが、俺たちのやり方だった。
——
同じ夜、塔の第四階層——
ヴァエリスは銀葉樹の下に座っていた。彼女の隣には、アルテアがいた。
「シンたちは今ごろ、野営をしているでしょうね」アルテアが言った。
「ええ。レナがそばにいる。リサンドラもいる。ライラも」
「寂しいですか?」
「少し。でも、それ以上に……信じてる」
「何を?」
「彼が戻ってくること。それから、私たちの関係が変わること」
「変わる?」
「前は私はただの精霊だった。でも今は、塔の住人で、あなたの友人で、それから……多分、もっと何か」
アルテアはヴァエリスの手を握った。光の手と、人間(とエルフの混血)の手が重なった。温かかった。
「私もよ」アルテアは言った。「私も、多分、もっと何かを感じてる。彼に対して。でも、まだ言葉にできない」
「言葉にしなくていい。私たちは、それぞれの速度で進めばいい」
「ええ」
二人はしばらく、銀葉樹の光を見上げていた。下方の階からは、ゴルンのいびきが聞こえてきた。そして、市場の柱を明日も建てるのだという、ヴェラスの寝言も。
塔は静かに、しかし確かに、生きていた。
そしてその中心には、不在の管理者を想う、いくつもの灯があった。




